楽しく遍路

四国遍路のアルバム

砥石観音 萬福寺 68番観音寺  69番神恵院

2019-11-20 | 四国遍路

 
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  砥 石 観 音

砥石観世音
67番大興寺から68番69番への途中、砥石観音にお参りしました。
後述しますが砥石観音は、70番本山寺の建立譚に発する観音霊場です。


国道377号
まず砥石観音までの道を、概略、お伝えします。
写真の道は国道377号で、ほぼ北東に向かって走っています。交通標識にあるように、信号を左(北方向)に曲がると、68番神恵院、69番観音寺です。ただし、これは車の道で、歩きの道は別にあります。
砥石観音へは、神恵院、観音寺の方に曲がらず、直進します。


七宝山
左方(北方向)に七宝山の山系が見えます。観音寺、神恵院、総持寺、本山寺、本山寺奥の院・妙音寺などなどが山号を「七宝山」と号しているのは、ご存知の通りです。
弘法大師がこの山のどこかに、七種の宝を埋めたと伝わります。
・・(弘法)大師七種の珍宝を此山に納め国家の鎮押とし玉ふの故に七宝山と称すなり・・(四国遍礼霊場記)


岩神さん
国道377号の右側、次に記すローソンの6-70㍍手前に、「岩神さん」があります。
三豊市には巨石信仰の痕跡がいくつか残っていますが、岩神さんもその一つと思われます。説明板には、・・巨石信仰として古代から「山の神」と称して、豊作を祈願し農業神を祝いまつり、社を造ったという。・・とあります。


山の神
三豊市内にある巨石の主なものは、加茂神社(三豊市仁尾町仁尾丁)の注連石、妙見宮(仁尾町仁尾戌)の明星石などの巨石、鬼ヶ臼山(高瀬町上高瀬)の巨石などです。
ぜひ次回、訪れたいと思っています。


ローソン
国道377号から右折し、県道5号に入ります。
角にローソンがあり、水、食糧の補給に便利です。


県道5号
県道5号です。砥石観音は、ここより約6キロ先にあります。


財田川
県道5号は、財田川(さいた川)に沿った道です。
財田川は、讃岐山脈から西流し、三豊平野を流れ、燧灘に注ぐ二級河川で、満濃池の水源の一つにもなっています。


旧道
県道5号の旧道です。
郵便局は財田中郵便局で、協力会地図に記載されています。前記のローソンからは、2.3キロです。


合流
手前が旧道で、奥が県道5号です。再合流点が近づいてきました。
流れる川は、財田川の支流である長野川です。長野川は、右奥に見える雨宮(あめのみや)神社の祓川とされています。


雨宮神社社叢
雨宮神社に行ってみました。
見事な社叢です。昭和51(1976)、香川県の自然記念物に指定されています。
アラカシ、タブノキ、クスノキ、カゴノキ、ムクノキ、センダン、ヤブツバキ、マサキ、ノダフジなどが見られるといいます。


雨宮神社
祭神は、高龗神(たかおかみ神)、闇龗神(くらおかみ神)、天水分神(あめのみくまり神)です。「おかみ」は、字が(雨+龍)であることからもわかるように、雨を司る龍神ですから、これら三神は、雨を司る農耕神ということになります。天水分神は文字通り、水の配分にかかわる神です。


境内へ
雨宮神社の社名由来について、四国新聞が次のような記事を書いています。
・・長久4(1043)の干ばつで苗代の苗が枯死寸前に陥り、村人が雨ごいを祈願したところ、にわかに慈雨が降り注いだ。以来、雨ノ宮神社と称するようになった、と町史は記す。
三神から慈雨が戴けたことを村人は喜び、その喜びを踊りに表現したといいます。入樋地区の弥与苗(やよな)・八千歳(やとせ)踊は、その喜びの踊りを、今に伝えるものだそうです。


拝殿
拝殿の左に、碑が建っています。「御苗洗所之碑」です。
これについても、四国新聞が記事にしています。
・・大正3(1914)の大嘗祭で、主基殿(すきでん)で使う筵藁の御用苗を財田村が献納。神社東側の長野川で洗浄したことを記念する石碑が、誇らしげに境内に立つ。
大嘗祭、・・私たちの記憶に新しいところです。


御苗洗所之碑
・・誇らしげに立つ・・その誇りは、大嘗祭の主基に選ばれたことへの誇りであるのはむろんですが、この地が農耕三神に護られた地であることへの、誇りでもあったでしょう。
時は遡り、弘仁8(817)は大干魃の年でした。讃岐もまた例外ではなく、このままでは大飢饉は必至と思われていました。ところが、そんな中、唯一、稲が豊に実る場所があったといいます。それが財田でした。財田は、三神の霊験あらたかな地なのです。


財田川
村人はその収穫を、天皇に献上したといいます。天皇は喜ばれ、当地に「たからだ」との地名を下さいました。今は財田を「さいた」と読んでいますが、元は「たからだ」と読んだようです。村人に言わせれば、・・これまで主基に選ばれんかった方がおかしいんじゃ、・・であったでしょう。
当たり前よ、選ばれいでか。此所は、天皇さんから「たからだ」の名を戴いた土地じゃぞ、・・御苗洗所之碑が”誇らしげに”立っているのには、こんなわけがあったのかもしれません。


鉾八幡
財田は、元は、財田上の村、中の村、西の村と、三つに別れていたそうです。一つになったのは天正の頃(戦国時代)で、天王城(橘城とも)に拠った大平国秀が勢力を伸張し、統合しました。天王城は、財田川を挟んだ対岸にある山城です。
大平氏は、土佐大平氏の分流で、国秀の13代前に讃岐に移住。(香川県の名の興りである)香川氏の配下として、財田から豊浜にかけて、勢力を築きました。おそらくその関係でしょう、この辺には大平姓が多く残っています。かつての首相・大平正芳さんもその一人です。


壊れた鳥居
鉾八幡宮は、統合三ケ村の氏神として、創建されたようです。勢力を扶植するためには、(武力だけでなく)こうしたものが必要だったのかもしれません。
ぜひ入ってみたかったのですが、残念ながら鳥居が壊れており、かないませんでした。


すもも
お接待で、いっぱいスモモを戴きました。ずいぶん食べたのですが、それでもまだ、こんなにあります。一日持ち歩きました。もしかすると車遍路と間違えていらっしたのかもしれません。
翌日のことです。出会ったインドネシアの青年達が、何故そんなものを持ち歩いているのかと尋ねるので、けっこう苦心しながらも、なんとか「お接待」を説明。その上でスモモをお接待してみると、なんと、ぜんぶ平らげてくれました。おかげで腐らせることもなく、スモモ農家さんの好意を無にせずにすみました。


財田町
財田診療所、財田支所、財田郵便局などがある一画です。「協力会地図」に記載があります。前記のローソンから、およそ4.8キロ。
この辺で左折し、県道5号から離れます。



県道5号から県道218号に移る道です。写真の左方向に進みます。


財田橋
財田川を渡ります。架かる橋は財田橋。
先に萬福寺が見えています。


山門
萬福寺は、讃岐三十三観音霊場 第十三番札所になっています。
本尊は砥石観音菩薩です。つまり、私が目指す砥石観音堂は、萬福寺の奥の院であるということです。
伝わる由緒などについては、後に、砥石観音のところで記します。


藤棚
藤棚です。萬福寺はまた、藤の寺としても知られているそうです。。


花観音
藤棚の下に花観音さまが立ち、隣に今は、アジサイが咲いています。


萬福寺
萬福寺の寺名は、弘仁8(817)、(前記の)大干魃の年、献上米を喜ばれた天皇が命じて、大師が付けられたものだといいます。従って萬福寺の開基は、弘法大師となっています。


田植え
この頃の大師関連の年表を抜粋してみます。
 大同2(807)  平城天皇の勅願により、弘法大師が70番札所として本山寺を開基。
 弘仁8(817)  大干魃起こる。→大師、萬福寺を開基。
 弘仁9(818)  満濃池が決壊する。復旧は困難を極める。
 弘仁12(821)  朝廷は空海を築池別当として派遣。空海、復旧に当たる。


県道218号
県道218号を進みます。


品福寺
萬福寺(まんぷく寺)から400㍍ほど先にある品福寺(ほんぷく寺)は、浄土真宗の寺です。
樹高18㍍というラカンマキが見事です。


左へ
看板に、讃岐観音霊場 第13番萬福寺奥之院 砥石観音、とあります。左に入ると、すぐ砥石観音です。
県道218号を直進(トラックが行く方向)→国道32号を北上すると金刀比羅宮。逆に南下すると、箸蔵街道を経て箸蔵寺です。32号の黒川から北東に進むと神野寺(満濃池)があります。


道標
前述の、ローソンの角に、こんな道標がありました。
  左 こんぴ○   右 はし○○
ここで金毘羅さん方向と箸蔵さん方向が分かれたようです。


砥石観音堂
砥石観音が伝える譚は、70番本山寺が伝える一夜建立譚につながる譚です。砥石観音堂の説明看板は次のように記しています。
・・大同3(808)、弘法大師が本山寺を建立された時、渓道の大師谷から用材を伐り出したが、斧の刃が折れて伐子たちは大いに困っていた。そこへ行脚の僧が現れて砥石をあたえた。


本堂
・・かれらは早速斧を研いで用いたところ、おどろくほどよく伐れ、容易に用材を伐り出すことができた。村人たちは霊験あらたかな砥石を当地に持ち帰り、堂宇を建立して安置したものと伝えられている。(建立年が前記と異なっていますが、気にしないことにします)。


境内
本尊は石の観音さまで、背面が砥石をおもわせる孤状をしているといいます。


石段の上から下
さて、これより観音寺に向かいますが、同じ道を引き返します。

  68番神恵院 69番観音寺

琴弾山 財田川
お山は標高58㍍の琴弾山。手前を流れる川は財田川です。
琴弾山の山頂部には、元68番札所の琴弾八幡宮があります。そして中腹には、境内を共にして、現68番神恵院と69番観音寺があります。


財田川河口付近
まずは札所へのお参りをすませ、その後、展望所に上がり、寛永通宝がある有明浜や、伊吹島が浮かぶ瀬戸内海を楽しもうと思います。


山門
境内を共にする68番と69番は、山門も共にしています。
明治期の神仏分離により、68番札所であった琴弾八幡宮は札所からはずれ、代わって新68番が、神恵院として生まれました。
琴弾八幡宮の本地堂に祀られていた阿弥陀如来を観音寺の西金堂(さいこんどう)に遷し、これを新68番神恵院としたのでした。


山門
一寺二札所は他に例を見ませんが、ここ観音寺にあっては、格別に新しいものではありませんでした。
というのも、観音寺は神仏習合の時代、琴弾八幡宮の別当寺でしたから、当時も事実上、一寺二札所だったからです。四国遍礼名所図会は、次のように表記しています。
  六十八番 琴弾八幡宮 別当観音寺
  六十九番 七宝山観音寺神恵院
納経も現在と同じく、観音寺が二札所分を行っていたようです。


境内の右半分部分
境内に入ると、大まかには、向かって右半分が69番観音寺域、左半分が68番神恵院域になっています。
写真奥が69番観音寺の本堂で、赤いのぼり旗は愛染堂。白い向拝幕が69番観音寺大師堂です。


69番観音寺本堂
観音寺はかつて、奈良興福寺に倣い、西金堂-中金堂-東金堂を基軸とする伽藍配置を造っていたそうです。大師が観音寺第7世住職となって、建立されたと伝わります。
中金堂に当る本堂は、国指定重要文化財です。室町時代の建築ですが、数度にわたる大修復が加えられていることが、重文にとどまっている理由のようです。


69番観音寺大師堂
69番観音寺の大師堂です。
手前の大樹は楠。


薬師堂
69番本堂に向かって左、石段の上に薬師堂が在ります。神仏分離された琴弾八幡宮の本地仏・阿弥陀如来は、此所に遷されました。


薬師堂
H14(2002)、現・神恵院の本堂(写真後掲)が新築されるまで、此所が68番神恵院の本堂でした。
68番大師堂は、この隣に在りました。


68番神恵院本堂
H14(2002)、68番神恵院本堂は、この建物(白いコンクリートの建物)に遷されました。


68番本堂
白い建物の中に、69番神恵院本堂があります。


68番大師堂
入母屋造りの大師堂は珍しいと思っていたら、この大師堂は、かつては延寿寺( →H25初夏3 )の本堂だったそうです。
此所では初め、十王堂として使われていましたが、旧本堂の隣に在った大師堂が、台風で壊れたとかで、十王堂の右半分を大師堂としたのだそうです。

さて、この後、琴弾山からの景色などをご覧いただく予定でしたが、更新日が来てしまいました。切りが悪くて申し訳ないのですが、今号は、ここまでとさせていただきます。近々、四国に出かけたいとも思っており、その準備などもあって、・・というのが言い訳です。
琴弾山、有明浜、興昌寺山、本山寺などは、次号回しとします。更新予定は、12月18日です。

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財田川よ、心あらば真実を教えて欲しい (天恢)
2019-11-24 08:23:07
 今年も早いもので、もうすぐ令和最初の歳末を迎えることになります。 何かと気ぜわしい季節となりますが、平穏な気候と心静かな日々が過ごせればと願っております。

 さて、今回は「砥石観音~69番神恵院」、前回から「涅槃の道場」讃岐の遍路が始まり、県境にある雲辺寺から大興寺を経てから、砥部観音を回って一寺二札所の観音寺市までの道中記です。 このコースを地図上で追って気づいたことは、大興寺は三豊市なのです。 点(札所)と線(遍路道)の「協力会地図」では、なかなかこの辺りの全体図は掴めません。 先ず、三豊市には札所は大興寺の外に70番本山寺と71番弥谷寺があって、市域は実に広く、北部は瀬戸内海に面し、南部は讃岐山脈で徳島県と接しています。 海側と山側の中部には三豊平野があって、本山寺から弥谷寺への遍路道はその中部を歩くことになります。 
 この三豊市域の広さは、平成の大合併で三豊郡の7町が合併して成立したことで、とくに中心市街地のない「ヘソのない街」が誕生しました。 それでも名所・旧跡・寺社は程よく市内に分散しており、これからブログに続々登場しそうなので楽しみにしています。

 さてさて、今回のタイトル『財田川よ、心あらば真実を教えて欲しい』は、この「楽しく遍路」の古い遍路アルバム集の「H19復活へんろ 三角寺-宇多津」のIMG_4467 の財田川の写真記事に、 『昭和25、旧財田村で殺人事件が起きた。「犯人」が逮捕され死刑判決を受けた。ようやく昭和59、無罪判決を得た。「財田川よ、心あらば真実を教えて欲しい」。これは裁判所が書いた文言である。ここから財田「川」事件と呼ばれるようになった。・・・』が出処です。
 人生では思わぬことで、そこが忘れられない場所になることがあります。 天恢の春の遍路の締めは、箸蔵寺から箸蔵街道を讃岐財田駅まで歩いて、電車で塩入へ、満濃池から琴平まで歩く計画でした。 その時、街道を歩くため用意していた2枚の地図の内、後半の馬除・廃屋の先から財田駅までの部分を紛失していたのです。 四国の山中では携帯は通じません。 運悪くペットボトルを買い損ねたりして悪いことが重なりました。 3分岐の道標で財田駅方向を確認できずに阿讃縦走コースという登山路に迷い込んでしまいました。 駅までは下り道になるのに、すごい急坂があったりして、30分も経って、これは街道ではないとやっと気づいて、3分岐まで戻って、財田駅まで3.5㎞を確認し、遭難とはならず事なきを得ました。 当然ながら満濃池は中止で、2時間後の次発で琴平へ向かいました。
 こうして、「無謀! 老遍路遭難」は運良く?回避できて、ここの「財田」は天恢にとって忘れがたい土地になりました。 コメントを書くために「楽しく遍路」さんの古いアルバムをめくり、このタイトルの文言に出会いました。 有名な「四大死刑えん罪事件」の一つである財田川事件がこの財田で発生したとは、恥ずかしながら結びついていませんでした。 死刑を宣告され、獄中34年目にして放免された谷口さんの塗炭の苦しみは表現できませんが、死刑廃止への有力な主張の一つが「えん罪」であることは間違いありません。
 半生を台無しにされた谷口さんは、素行不良との風評から犯人とされ、事件の捜査を行ったのが元特高出身の警察官達であったり、また裁判所も当時の法医学の権威であった文化勲章受章者の血痕鑑定を安易に信用した酷い運の悪さ?も重なってのことでした。 今回のブログにあった大嘗祭の主基に選ばれたことで誇らしげに立つ「御苗洗所之碑」の記事を読みながら、真逆のこの「財田川事件」を思い比べました。 「財田」の地の明と暗、光と陰ですが、 それは何処にでもあることです。 人生も同じで運の良さと運の悪さ、苦もあれば楽もある、それぞれ併せ持って、人は生きていくのかも知れません。
主の手にすがれる 身はやすけし (楽しく遍路)
2019-11-27 13:21:17
なるほど、三豊市は「へそのない街」ですか。言われてみれば、その通りです。
私たちはついつい、三豊市を歩きながら、観音寺市を歩いていると思っていたりします。そして、気がついたら善通寺市だったりして、えっ!三豊?どこ?なんて。

しかし三豊は、いい街です。
・・市域は実に広く、北部は瀬戸内海に面し、南部は讃岐山脈で徳島県と接しています。 海側と山側の中部には三豊平野があって、本山寺から弥谷寺への遍路道はその中部を歩くことになります。
天恢さんが、うまく三豊市をまとめてくださいました。
「へそのない街」には見るべきところが多く、しかもそれらは、”ほどよく分散して”います。

さて、私は今、区切り遍路の準備中ですが、実は三豊市を、すこしていねいに歩いてみるつもりです。
天恢さんの整理をお借りすると、本山寺から、(遍路道が通る中部は歩かず)、山側を歩いて弥谷寺に出ます。この行程には、讃岐二宮の大水上神社、歓喜院、嫁楽観音地蔵寺、また鬼ケ臼山などが含まれる予定です。
弥谷寺からは、曼荼羅寺へは進まず、海側の道(讃岐街道海道)を歩いて、ふたたび観音寺に戻ります。この行程には、海岸寺(多度津町)、津島神社、詫間の妙見神社、仁尾の賀茂神社、九十九山、できれば紫雲出山などが含まれるでしょう。
近々のうちに、ブログでご報告できればいいのですが。

フランシスコ教皇が来日。東京ドームで行われたミサに、死刑囚・袴田巌さんが招待されました。袴田さんは、釈放はされていますが、今も再収監の可能性を残す、死刑囚です。
袴田さんが陥った陥穽は、どこまでも深いのです。

袴田さんが招待されたことの意味は、なによりもまず、袴田さんにとって、大きかったと思います。
主の手にすがれる 身はやすけし  
法華津峠でおぼえた賛美歌、「山路越えて」を思い出しました。
ぜひこれを機会に、死刑廃止にむけた議論が進んでくれますように。

死刑を廃止すれば、犯罪はとめどもなく凶悪化するだろう、との懸念が言われています。
核の戦争抑止力論に、一脈通じるところのある議論と思えます。
「死ぬよ」(殺すよ)という威嚇は、問題を解決するでしょうか。

広島で、長崎で、そして福島で、教皇は貴重な言葉を残されています。
例えば、
・・武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これは途方もないテロ行為です。
・・核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。・・真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。
残されたこれらの言葉をたよりに、死刑の問題、核の問題を、合わせ考えてみたいと思っています。

次号では早くも、よいお年を迎え下さいと書くのですね。本当に早いものです。
ただし、私は先日、ある申込書に、「平成31年11月」と日付を記入してしまいましたよ。西暦の19に12を足して今年は31年だと、冷静に計算した結果、そう書いたのでした。
以上、早すぎるときの経過に、いまだ令和に馴染めないでいる、楽しく遍路でした。

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