楽しく遍路

四国遍路のアルバム

琴弾八幡 放生川 宗鑑の一夜庵 有明浜 問答岩 専念寺の一茶句碑

2019-12-18 | 四国遍路

 
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  琴 弾 山
 
68番 69番境内
一山二札所=六十八番神恵院、六十九番観音寺のお参りをすませ(前号)、
背後の琴弾山上、展望台に向かいます。


薬師堂石段から
薬師堂の石段を上り、そこから展望台への道に出ました。
手前の屋根は愛染堂、奥が69番大師堂の屋根です。


江甫草山
富士山型の山は、江甫草山(つくも山)153㍍。別名・有明富士です。中世、山城がありましたが、ご存知、長宗我部元親により、焼き払われました。
右の、落ちてくる尾根は、稲積山403㍍の尾根です。山頂に、高屋神社があり、その鳥居は「天空の鳥居」として、最近、とりわけ若い人たちに人気です。いずれも登ってみたい山です。


象鼻石
四国遍礼名所図会に、・・象鼻石 ( 此所より中国路・予州路・川口・有明の浜、眼下見下ろし絶景いわんかたなし )・・とあります。
象鼻石は絶景を眺める特等席です。その名の由来は、撮影角度が悪くわかりにくいのですが、海に向けて伸びている、石の形状にあるようです。伸びた部分が、象の鼻に見立てられているのでしょう。


銭形と伊吹島
象鼻石から見た絶景です。
海岸線は有明浜で、銭形があるこの辺一帯は、琴弾公園として整備されています。
燧灘に浮かぶ島は、伊吹島です。イリコの島として知られていますが、観音寺と向き合い響き合う、信仰の島でもあります。( →H25 初夏 ④


銭形
銭形は、領国巡見中の幼君・生駒高俊の無聊を慰めんと、一夜にして造られたといわれています。
幼くして高松藩主となった生駒高俊が、外祖父・藤堂高虎の後見を受けていたことや、高虎が派遣した西島八兵衛が満濃池を復活させたこと、高俊がお家騒動(生駒騒動)の結果、出羽に流されたことなどは、前号で記しました。


金運のパワースポット
生駒騒動ではちょっとケチがついた銭形ですが、近頃は、金運のパワースポットとして大人気です。
大興寺に近づいた頃から、数えること4回、次のような話を耳にしました。
・・観音寺でロト(宝くじ)の億が、二本でたんよ。こーれは銭形の御利益じゃわいね。
億クジが出たというロト売り場、たまたま近くを通ったので、寄ってみました。買いませんでしたが。


本殿へ
元68番・琴弾八幡宮へ向かいます。


拝殿・本殿
・・大宝3(703)のことです。日証上人がこの地で修行していたところ、西方の空が鳴動。黒雲が空を覆ったといいます。日月の光も見えなくなり、三日三晩、国人はおののいて過ごしましたが、やがて西方の空より白雲虹のごとく出でて聳き(そびき=たなびき)、中より妙なる琴の音とともに、一艘の船が現れました。


拝殿
・・日証上人が船に近づき、いかなる神人にてましますやと尋ねると、我はこれ八幡大菩薩なり、帝都にちかづき擁護せんがために宇佐より出、この地霊なるが故に、此にあそべり、と宣われたといいいます。


拝殿
・・上人が、凡夫にはなかななか、その言信じ難し、願わくば愚迷の人のため霊異をしめし給え、と証しを求めると、その夜のうちに、辺りの海は竹林となり、砂浜は松林となりました。
・・上人はおどろき、欲染なき童男童女数百人を集めて御船を峰上に引き上げ、これを斎祀して琴弾八幡と号し奉った、といいます。( 四国遍礼霊場記より )


下へ
これより石段の参道を下ります。裏口から入り、表口から出る格好となりますが、この際、勘弁していただきます。


木之鳥居
石段の中間点くらいに、木之鳥居があります。
案内板によると、・・古来八幡信仰の篤い源氏方は、元歴2(1185)、義経が屋島合戦に勝利し、更に平家追討の成功を祈願して、当社に神馬「望月」と、この木之鳥居を奉納した。( 神恵院蔵「弘化録」 )・・とのことです。


扁額
扁額に、三所霊神と記されています。
琴弾八幡宮の祭神である、応神天皇(八幡神)、その母神・神功皇后、玉依姫(綿津見大神の子神にして神武天皇の母神)を指しているのでしょう。


下へ
さらに下ります。長い石段ですが、斜度がそれほどきつくないので、助かります。


琴弾八幡宮鳥居
降りてきました。


放生川河口
ちょっと風情がありませんが、鳥居の側に河口があります。放生川の河口です。
放生川河口部は、その名の通り、放生会の祭場となる所です。


一つ物神事 由来
放生会の位置づけについて記した案内板が、近くにありました。
「ひとつもの」は、”唯一かけがえのない神事”といった意味でしょうか。この重要神事を支えるのが、齊(ものいみ)と、祓川での放生会である、というのです。


放生会の祭場
放生会の祭場です。ここは琴弾八幡宮にとって、きわめて大切な場、ということになります。


枇杷の首
河口に鎮座する大石は、「枇杷の首」と呼ばれるそうです。
なぜ「枇杷」と呼ばれるのかは、確とはわかりませんが、その形状から来るようです。「首」(くび)は、「杭」(くい)の転である、とも言われています。


放生川(満ち潮時)
「杭」について、地元消防団の方が、こんな話をして下さいました。
・・擁壁に藻が付いとろう。満潮の時には、潮が上がってくるんよ。台風の時には高潮で、たまに床下浸水することもあってね。
・・あの大きな石は、そういうことを止める、言うてみれば「杭」なんよ。大昔から、治水は杭打ちから始まるけんね。
楽しいお話を、ありがとうございました。


一夜庵道しるべく
「枇杷の首」の側に、「一夜庵道しるべ」が建っています。
  北三丁 下々の宿あり 一夜庵
道しるべに誘われて、私はこれより、一夜庵に向かいます。
一夜庵は、俳諧の祖・山崎宗鑑が結んでいた庵で、これより北三丁の、興昌寺境内に在ります。


切り通し
琴弾山南麓を東進すると、切り通しの道があります。琴弾山と興昌寺山の間を切り開いた道です。二つの山は、かつては尾根でつながっていました。
この切り通しを渡った先が、興昌寺です。

  興 昌 寺 山

山門
興昌寺山の南麓に、興昌寺があります。


七宝山
前号でも記しましたが、ここでも、山号は七宝山です。


扁額
開基は弘法大師で、かつては真言密教の道場であったといわれています。
今は、臨済宗の寺です。


一夜庵
一夜庵の存在が表示されていました。


境内へ
外界と世界を画すかのような、石垣の構えです。


しょうじ
その内側に、シンとした鎮もりの世界が現出しています。
こんな時にいつも思うのは、障子の素晴らしさです。


記念碑
  俳祖宗鑑翁 四百五十年祭記念碑
山崎宗鑑は戦乱の室町後期を生きましたが、生年、没年ともに不詳です。亡くなったのは天文8-10(1539-41)ころで、70-80才代だったと考えられています。


一夜庵
宗鑑は滑稽・機知の句風をもち、一夜庵の入り口には、
  上の客人立ち帰り、中の客人日帰り、泊まりの客人下の下
と記されていたとのことです。
来客がこれを見て、帰ってくれれば、その客は上客。長居しない客は中の客。これを見てもなお泊まろうとする客は、下の下客である、というのです。


一夜庵
弟子達に残した辞世は、
  宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとようがありて あの世へといへ
宗鑑はどこへ行ったのかと問われたら、ちと用があって あの世へ出かけております、と答えなさい、というのですが、実は宗鑑、酷い腫れ物=ヨウ、が出来て亡くなったのでした。


宗鑑法師之塔
そんな宗鑑を、虚子はよく理解していたのでしょう。人目にはうらぶれても見える宗鑑の墓を、こんな句にしています。
   宗鑑の 墓に花なき 涼しさよ  虚子
泉下の宗鑑さんは、我が意を得たりとご満悦でしょう。”涼しさよ”たぁ、うれしいね!
なお、この写真は墓ではなく、供養塔です。墓は撮り忘れたのですが、供養塔同様、「宗鑑法師 御墓」の碑がなければ、だれの何なのか、まったく判じ得ません。


移動
小径をたどり、根上がり松へ移動します。
この辺には(前号で記した)江甫草城主(つくも城主)・細川氏政の墓などがありますが、略します。


除風の墓
「四国文藝秘史」というブログに、次のような記事があります。
・・備中の俳人、一夜庵四世の除風(延享三年没)の墓が一夜庵の裏山にある。その存在を知る人は多くはない。供華参拝されることもめったにない。当庵初代山崎宗鑑のことさえ知らない、無関心の人が多くなってくると、刻字は明確ながら、それは全く見捨てられた石ころに等しい。                  
・・世の人よ、心あらば伝えてよ、俳祖宗鑑終焉の一夜庵を再興した除風なる献身の人がいたことを。
 *残念ながら一風については、わかりません。心あらばおしえてよ。 

  

見事な松が現れました。
寺は、日蓮宗の常行寺です。


根上がり松
その先に根上がり松があります。
寛永通宝の銭形が金運スポットであると前述しましたが、「根上がり」は「値上がり」に通じるとて、この松も、株価や給料が上がってほしい人たちの、金運スポットであるそうです。


切り通し
根上がり松から、先ほどの切り通しに降りてきました。これを北(海方向)に進むと、・・


観音寺中学校
すぐ先に観音寺中学があります。
校歌を見ると、
 一、あけゆく朝の 陽に映えて 琴弾山のよぶところ
       真理を目指す 眉若く 希望の歌が湧き上がる 
 二、花橘の香も高く 財田の流れ澄むところ
       若木の生命 すこやかに 自立の力 鍛えゆく
 三、潮はにおう燧灘 平和の光さすところ
       明るい明日へ立ち上がる ああ観音寺中学校
いかにも昭和22年開校の新制中学らしく、真理、希望、生命、自立、平和、明日が高らかに歌われ、ふるさとの山、川、海、・・琴弾山、財田川、燧灘・・が、歌い込まれています。


松原
観音寺中学を過ぎ、私は琴弾山の北嶺・琴弾山公園(有明浜)を西進します。


松原
近頃、瀬戸内海沿いの松原では、老松を見ることが少なくなっているのですが、有明浜はちがいます。いっぱいあります。


松原
かつて瀬戸内海沿岸で大発生した松食い虫被害を、有明浜はどのようにしてか、切り抜けています。


松原
ヘリコプターで薬剤を散布した所もあったと聞きますが、ここでは、そういうことはなかったようです。


銭形
銭形にやって来ました。
東西122㍍、南北90㍍m、周囲345㍍m、溝の深さは2㍍を超えているといいます。年に2回、春と秋に「砂ざらえ」をして、形を整えるのだそうです。


大師の井戸
・・かつて弘法大師が観音寺の住職をされていた頃、旱魃がつづいて、住民は飲み水にも難儀しておりました。大師はこれを哀れみ、この井戸を掘ったと伝えられています。
海近くであるにもかかわらず、真水がこんこんと湧き、昭和の初めまで、茶人や住人が利用していたとのことです。現在、井戸は東屋の下に保存され、見ることは出来ませんが、御水は、このヒネルトジャーから、自由にいただくことが出来ます。なお飲用には、一度湧かしてくださいとのことです。


大平正芳記念館 世界のコイン館
大平正芳記念館は、以前は一ノ谷川沿いのへんろ道にありましたが、こっちに移転したようです。入場料は、世界のコイン館と共通で300円。
コイン館は、寛永通宝に因んでいるのでしょう。


観音寺郷土資料館
その隣の観音寺郷土資料館は、現在は閉館中ですが、大正3(1914)の建築で、登録有形文化財に指定されています。魅力的な「洋風建築」です。
初めは三豊郡農会農事試験場として建てられましたが、その後、産業勧業館、讃岐博物館、市立図書館などに転用され、最後は、郷土資料館となりました。


旧大平正芳記念館
お若い方のために、・・大平正芳さんは元日本国の総理大臣。在任は、S53-57(1976-80)。三豊郡和田村(現観音寺市)の生まれです。


問答石
大平記念館を過ぎ、八幡宮の鳥居が近づいてきた所に、「問答石」が在ります。
日証上人はこの石に倚り、船中なる宇佐大神と問答した、と伝わります。ここでの問答があったのち、船が山上に引き上げられました。


琴弾八幡宮鳥居 
ふたたび八幡宮の鳥居です。これで琴弾山を、一周したことになります。


三架橋 
三架橋を渡り、・・


琴弾八幡宮遠望 
琴弾八幡を遠望する場所にやって来ました。
専念寺を訪ねるためです。


専念寺
専念寺は浄土宗の寺で、一茶の句碑があることで知られています。
案内板に寄れば、 一茶は専念寺を二度、訪ねています。一茶と専念寺の住職・俳号五梅は、共に江戸の俳人・二六庵竹阿を師と仰ぐ、相弟子だったそうです。


一茶句碑
  元日や さらに旅宿と おもほえず  一茶
二度目の訪問時の元日、詠んだ句だそうです。旅先で元日を迎えた寂しさが、旅宿(はたご)の温かいもてなしに、癒やされています。
句碑の字体は、寺に残っている一茶の自筆を、模写したものだといいます。


一茶句碑
なお一茶について、よろしければ、 H24春3 (北条の「一茶の道」)、H24春5(西條の実報寺に残した句)も、ご覧ください。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
令和の御世にもかかわらず、しつこく続いた「H31 春へんろ」シリーズでしたが、ようやく今号を以て、終わりとなりました。
おかげさまで令和元年初冬の遍路も終えることが出来ましたので、(実はそのため、本号の更新がおくれたのでしたが)、次号から本ブログも改元、「R1 冬へんろ」となります。更新予定は、令和2年1月22日です。
末筆ながら、どうかどうか令和二年が、皆さまにとって、日本の人たちにとって、世界の人たちにとって、よい年でありますように。    合掌

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♪あれから どうしていましたか? 私も歳を取りました~ (天恢)
2019-12-28 09:30:09
 あっという間の一年、平成最後の年から、もうすぐ令和最初のお正月を迎えることになります。 いつもながら、今年も大事な何かをやり残したような気がしていますが、ともかく気持ちだけはリセットして新年を迎えることにしましょう。 どうせ憂き世では解決できることなんか何もありませんから。

 さて、今回は「琴弾八幡~専念寺の一茶句碑」ですが、琴弾山にある一山二札所を打って、琴弾公園の銭形砂絵、琴弾八幡宮、興昌寺、一夜庵、根上がり松、有明浜、大平正芳記念館、観音寺郷土資料館、問答石、専念寺と琴弾山を一周という大回り道で、実に丁寧な道中記を楽しく読ませていただきました。 本当は、もうここまでたどり着ければ、一週間余りで88番大窪寺ですが、遍路の旅のひとときに、ちょっとした気持ちの切り替えで、こうした見どころを訪ね歩いてみるのも素晴らしい体験となります。 ただ、このペースでは結願はいつのことやら? 本心は、いつまでも終わることのない「楽しく遍路」を願っております。
 気になったのが、ブログに金運パワースポットとして「銭形砂絵」と「根上がり松」の紹介でした。 天恢も、ゆとりがない一巡目の遍路で、札所以外でぜひ訪れたい必見スポットが「銭形砂絵」でした。 「この銭形を見れば健康で長生き、しかもお金に不自由しなくなる」との言い伝えに惹かれてのことです。 お陰さまで、この御利益の甲斐があって、こうして天恢も10年以上も遍路を細々と続けることができました。
 それにしても、何という悪知恵の働く人間の浅ましさでしょうか?  近頃では「銭形砂絵」や「根上がり松」が金運パワースポットとして人気急上昇中だそうですが、江戸時代から明治の初期までの約240年間、庶民の通貨として使われ続けた古銭が「寛永通宝」ですから大判小判とは違います。 ここでの御利益は、ささやかな庶民の夢を叶える小銭に不自由しない程度でしょう。 カジノや宝くじなどで儲けた金は、「悪銭身につかず」で、すぐに散財して最後は丸裸も請け合いです。 それと「値上がり松」も、株や土地や給料と全く無縁の年金生活者の身としては、物価や高齢者医療費の「値上げ」の方が深刻な問題となるのです。

 さてさて、今回のタイトル『♪あれから どうしていましたか? 私も歳を取りました~』は、この秋に放映された「NHKスペシャル・AIでよみがえる美空ひばり」の企画として制作された新曲 「あれから」の一節です。 作詞はひばり生前最後のシングル『川の流れのように』を手掛けた秋元康。 番組内では過去の膨大な映像や音源を元に、ひばりのライブを再現する試みが行われたのですが、パーフェクトにはほど遠くとも「故人の歌手の歌声・映像を人工知能でよくぞここまで甦らせた」と、涙、涙で、ただ感心するばかりでした。 大晦日のNHK紅白歌合戦にてAI美空ひばりが出場し、「あれから」を歌唱する予定だそうです。
 末筆ながら、美空ひばりさんがこの世を去って30年で、こうしてAIで復活しました。 お正月と言えば「寅さん」でしたが、寅さんもスクリーンに蘇ります! 「男はつらいよ」シリーズ開始から50年目の50作目、山田洋次監督88本目の『男はつらいよ お帰り 寅さん』の登場です!
 もうすぐお正月! 皆さまにとって、どうか新年が『振り向けば、幸せな時代でしたね!』と、言える良い年でありますように。
♫遍路は続く・・ (楽しく遍路)
2020-01-01 00:22:27
    令和二年 明けましておめでとうございます。
    美空ひばりさんが願い、天恢さんが願うように、私も、
    振り向けば、幸せな時代でしたね!と言える、
    よい年でありますようにと、心から願います。

さて、天恢さんご指摘のように、私の遍路行はまことに遅々として進まず、阿波を発ってから早6年目に入るというのに、いまだ讃岐の入り口辺でグズグズしています。
遅いのは、私の足が衰えたこともありますが、なにより行く先々の人たちが、(遍路である)私を受け入れてくださる、ということがあります。
私はたぶん、それがうれしくて、あちらにこちらに、脱線もしくは寄道しているのだと思うのです。よって、なかなか前に進まないのです。

・・視線が痛い・・と、昔、アフリカ系米人が話してくれました。
来日以来、すれ違う人の皆が皆、チラッとよこす視線が、刺すように痛いのだといいます。
このような経験を四国で、私たち遍路がすることは、まず皆無です。私たちの異装にもかかわらず、四国の人たちは子供も含め、(犬は、さすがに無理ですが)、ごく自然に接してくださいます。挨拶をすればたいてい、挨拶を返してくれます。時には初対面でも、会話までも交わします。
これはまことに有り難いことなのでしょう。
近頃、外国からの遍路が増えているとのことですが、その根本のところには、四国の人たちが彼らに向ける、優しい眼差しがあると、私は思っています。

さてさて、こうしてますます遠くなってきた88番ですが、昨年末の遍路中、またもや私は、「三豊市再訪」を思いついてしまいました。
次回、令和2年の春遍路は、まずまちがいなく「三豊市再訪」で始まることでしょう。
遍路道に沿いながら、しかし少しずつズレている、そんな私の遍路は、(天恢さんご期待の通りに)しばらく終わりそうもない雰囲気です。もっとも、体調の問題は、それはそれで、嫌も応もありませんが。

天恢さん、今年の遍路、楽しいものになりそうな予感がしませんか。
再訪計画の骨子は、次号に記せるとおもいます。

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