楽しく遍路

四国遍路のアルバム

波止浜街道 大井新町から大燈明台へ 渡り場から来島 小島へ    

2018-06-27 | 四国遍路

 
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ご存知でしょうか、「四国の古道・里山を歩く」というHPがあります。
・・おもに愛媛県内の古い街道や低山に、ミニ冒険好きの熟年夫婦がチャレンジした記録です・・と、制作者はやや控え目に書いていますが、私たち遍路道を歩く者にも、とても役立つ記録です。私は多くを学んでいます。
さて今回の遍路は、そのうちの「今治街道 8」を、後追いすることから始まります。


大井新町
今治街道(8)は波止浜街道(はしはま街道)・・大西町大井新町から波止浜大燈明台まで・・の記録です。
学びたいことは、大きくは二つあります。
まずは、今日とはまったく異なる、波止浜街道や波止浜の街の姿です。
ご夫婦は冒頭、次のような引用で、波止浜街道を紹介しています。
・・波止浜街道は、松山藩にとって、松山から直結する政治上、軍事上の要路であった。藩主の陸路による参勤交代の道で、代官所も置かれていた。特に天和3年(1683)に塩田が開かれてからは、街道の重要性も増した。( 歴史の道調査報告書 より )


右 今治街道
波止浜街道は、松山から藩領北端の街に直結する、政治、軍事、経済、時には参勤交代の道であり、波止浜湊は、風待ち船、潮待ち船、塩買い船、石炭船などなど、出船入り船にぎやかな、伊予の小長崎とも呼ばれた湊町でした。製塩が莫大な財を生んでいたことは、言うまでもありません。
今治の衛星とも思える今日とは、まったく異なる姿を見せていたようです。
私はぜひ、後追いさせていただいて、かつての姿を少しでも、垣間見ることができればと考えました。


左 直進 波止浜街道
もう一つ、知りたかったのは、旧遍路道のことです。かつて波止浜には遍路道が通っており、今も道標が残っていると聞いていました。
波止浜は遍路道ネットの中で、どんな位置に在ったのか、この目で見てみたいというのが、二つ目の願いでした。
写真が後先になりますが、とりあえず波止浜と札所の位置関係を、ご覧ください。


来島 大三島
波止浜湾奥から北方向を見ると、湾口に来島水軍の根城だった来島が見え、その後ろに大三島が見えます。大三島は、かつての55番札所、大山祇神社がある島です。
波止浜は大三島と、船便でつながっていました。共に松山藩に属し、通行に支障はありませんでした。


近見山
振り返って、南方向を見ると、近見山が見えます。
近見山は、54番札所・延命寺の奥の院です。現・延命寺は、近見山から下っていったものと考えられます。延命寺が、近見山延命寺と号するのは、それ故です。
大三島参拝から波止浜湊に降りた人たちは、目前に、54番札所のシンボルを見たわけです。ただ残念ですが、大三島への船便は、今はありません。


古寺地蔵尊
さて元に戻り、大西町の予讃線踏切を渡ります。
ほどなく、古寺地蔵尊があります。井手家の真光寺が在った所なので「古寺」。処刑された人たちを供養し、住民が地蔵尊を祀ったので、「古寺地蔵尊」です。(前号参照)
新町部落による古寺地蔵尊由来沿革から一部拝借し、記しておきます。
・・貞享年間、高い年貢に加え打ち続く凶作のため、百姓の生活は悲惨を極めていた。 


古寺地蔵尊
・・延喜村の庄屋、八木忠左衛門は、彼らの生活を座視することが出来ず、藩主に年貢の軽減の直訴に及んだ。
・・忠左衛門はその罪を問われ、貞享3年 ( 1686 )、 せがれ小太郎と共に、ここ古寺の処刑場で斬首、さらし首に処せられた。延喜村を中心とする野間郡の百姓たちは、命を賭して直訴した忠左衛門を義民と称え、ひそかに地蔵尊を建てて、その菩提を弔った。その後、この地蔵尊は、火難、悪病、厄除け地蔵として人々の信仰を集めてきた。


品部川
品部川に架かる鳥越橋を渡ります。


県道15号
波止浜街道は、路線名でいうと県道15号 大西-波止浜港線です。
道は車用に整備されており、しばらくの間は、残念ながら歩きを楽しむ道ではありません。


予讃線
しかし15号線が予讃線に並行して走るようになる辺りから、15号線や予讃線を縫うように、快適な道が現れてきます。


旧道 
波止浜街道の旧道とも、・・


旧道
農道ともとれるような道です。


新田開発
大西史談会の案内が立っています。
・・檜垣五右衞門政広は広島藩の家老職であったが、浪人となり九王村に住着いた。農民のために辛苦を重ね、寛永17(1641)、新田開発に成功。人々はこの地を五右衞門新田と呼んで、彼の遺徳を偲んでいる。大西史談会


顕彰碑
五右衞門新田開拓 檜垣政廣之碑。明治32(1899)建立。
「檜垣」は、愛媛、広島とも多く見られる姓です。


予讃線
ふたたび予讃線を渡り返し、県道15号にもどります。


龍神社
龍神社への案内がありますが、この先にある九王地蔵に詣りたいので、とりあえずは無視。15号をそのまま歩きます。


九王地蔵
建立は、享保6 (1721)建立と言います。
享保の改革、倹約の時代です。松山藩はとりわけ親藩ですから、倹約にこれ努めていたに違いありません。地蔵堂建立の許可がなかなか下りず、葬式の線香場という名目で願い出て、ようやく建築が許されたとのことです。
野間郡四国八十八ヶ所第26番札に指定されています。



宮大工は左甚五郎の流れを汲む名工とのことです。たしかに、構体全体の美しさと見事な細部を、併せ持っています。木鼻の龍、唐獅子は、阿吽の阿形。左側が吽形になっています。
昭和52(1977)、解体大修理を終えています。


旧道へ
やがて15号線に旧道が現れます。



旧道は海に近づいてゆきます。左の空き地に入ると、すぐ海です。


龍神社
見えました。九王龍神社です。
ちょっと先まで来すぎてしまいましたが、こんな景色が見られたのですから、よしとします。


鳥居
向こう岸から歩いてきました。


鳥居
穏やかな海ですが、神社の縁起は大嵐にかかわっています。
神武東征の砌、大嵐に遭った神武天皇はこの浜に難を避け、嵐を鎮めたまえと龍王に祈ったそうです。
すると嵐が鎮まったので、人々は霊所に社殿を建て、龍王を祀り続けてきたと言います。九王龍神社の九王は、八大龍王に神武天皇の一王を加えた「九王」です。


龍神社
龍神社の春祭りは、船上継獅子で知られています。
龍神社の神輿宮出しは船渡御です。これに獅子が供奉するわけですが、途中、船上で継ぎ獅子が演じられるそうです。


継ぎ獅子
大西町の大山八幡で見た継ぎ獅子の練習風景です。これを不安定な船上で演じます。
写真は3継ぎですが、過去には6継ぎも見られたと言います。現在の最長は、5継ぎのようです。


梶取ノ鼻
平成3(1991)のことです。神武以来の大嵐がこの地を襲ったと言います。神社は、土台の石垣もろとも、本殿、拝殿を失ったそうです。社殿や境内に新しさを感じるのは、そのためです。狛犬や注連石は、海底から引き上げました。
写真奥の岬は、梶取ノ鼻です。律令時代、狼煙台が置かれていたそうです。今は灯台があります。


標識
旧道からふたたび15号に出てきました。15号線は予讃線と平行しています。


沢池
左側に沢池が見えてきます。「今治街道 8 」によると、・・松山藩初代藩主松平定行が藩直営で築いたと伝えられるため池・・だそうです。
池の狭部に渡された浮きは、打ちっ放しゴルフボールの流れ止めです。写真奥の堤防にゴルフ場があります。


堤防
打ちっ放しゴルフ場が並ぶ沢池の堤防を歩くと、すぐ県道166号・波方環状線に出ます。
波方は「なみかた」と読みます。昭和35(1960)までは「はがた」と読んでいましたが、伯方(はかた)との混同を避け、「なみかた」に変えました。


県道166号
166号を右に曲がります。すぐ先に県道15号の標識が見えます。
標識方向に進みますが、15号までは行かず、手前の細い道を左に進みます。これが旧波止浜街道です。


旧家
旧家が建ち並んでいます。
しかし残念ながら旧道は長くはつづかず、すぐ15号に交差します。


波方駅へ
15号を渡ったところに、波方駅と半島四国88ヶ所を示す道標が立っています。
ミニ四国は、九王までは野間郡四国八十八ヶ所でしたが、波方からは高縄半島四国八十八ヶ所です。


波方駅へ
波方駅の標識に従って直進すると、波方駅の踏切があり、渡らず右折すると1番ホーム、渡って右折すると2番ホームに出ます。駅に跨線橋はなく、踏切を渡ってホーム変更をします。


県道38号へ
波方駅の踏切を越え、さらに直進すると、ガードレールの山裾道に至り、これを左にたどると、県道38号・今治波方港線に合流します。
私は波止浜を見学した後、38号を北上する予定です。この道は(後記しますが)かつての遍路道で、杣田-延喜を経て、54番延命寺に至ります。


旧道
さて、今は波止浜へ向かいます。
県道15号を渡り波方駅方向へ10㍍ほど進むと、15号と並行して、波止浜街道の旧道が通っています。左折して旧道を行きます。流れる川は樋口川です。


海山城展望台
「今治街道 8」によると、・・ここには律令時代から番所が置かれ、高縄半島先端からの烽火の合図を今治国府まで伝達された中継所の1つであった、・・とのことです。
(前掲の)梶取ノ鼻にも狼煙台がありました。連携して国府につながっていたのでしょう。


十里塚
松山藩の十里塚を見るため、15号沿いの今治市役所波方支所前に来ました。この道標は、前述の、沢池付近の街道沿いに立っていた、とのことです。


北郷中学
「一本松」を探すため、まず北郷中学を探しました。中学生に尋ねると、要領よく教えてくれました。北郷中の水泳部の子たちでした。


分岐
分岐を左へ入ります。
造船所のクレーンが見えます。波止浜湊はもうすぐです。


九番札所
高縄半島四国八十八ヶ所の9番です。
かつては、旧街道の並木であったと思われる松が一本、ここに立っていたのだそうです。それで此所は、一本松と呼ばれています。


涅槃釈迦如来
涅槃像です。けっこう珍しいと思います。


一本松
九番札所の側に、六部供養塔と二基の道標が立っています。


遍路道標
右側の指差し道標には「左へんろ道」と刻まれ、指差しは右を指しています。右に二股道があり、その左を行け、という意味でしょう。
この道標に従うと、前述の県道38号に合流します。県道38号は、繰り返しになりますが、54番延命寺に至る、かつての遍路道です。
左側の左の石柱道標には、「是より延喜観世音江 一里七丁  是より杣田稲荷神社江 二拾三丁」とあります。延喜観音も杣田稲荷も、県道38号上にあります。次号に掲載予定です。


十里二十九丁
波止浜小学校の正門を入ったすぐの所に、「松山札の辻より十里二十九丁」の復元道標が建っています。
元は、江戸時代の代官所跡に立っていたそうです。代官所が在った所は、今は造船所のドックになっているとのことです。


うずしお橋
波止浜小学校前を流れる川(水路)は、潮の干満の影響を受けています。
撮影に失敗しましたが、正面奥に、龍神社があり、その先は海(波止浜湾)です。


龍神社
えひめの記憶によると、・・波止浜の名は、江戸時代、町場を波止町(はしまち)、塩田を浜(はま)と呼んだことから、合わせて波止浜と呼ぶようになった・・といいます。
龍神社-水路-波止浜小学校-北郷中学校を結ぶラインが、町場と塩田の境目です。神社の左側が波止(町場)、右が浜(塩田)でした。今の波止浜小学校の辺りが、塩田の「一番浜」だったとのことです。


へんろ道標
玉垣に沿って左・町場の方に進むと、丁字路の所に「右へんろ道」の道標があります。つまり一本松の方へ進め、という指示です。一本松にもへんろ道標があることは、前に記しました。
側面には「阿方村 延命寺へ一里」と記されています。この道標は、大三島の大山祇神社に参拝し、波止浜に降り立った遍路たちを、54番延命寺に案内するためのものでした。


阿方村 延命寺へ一里
大三島に渡る遍路は、少なからざる数だったと思われます。
真念さんは「四国邊路道指南」の延命寺の項に、次のように記されています。
・・ これより別宮まで壱里。是ハ ミしまのみやの まへ札所也。 三島までハ海上七里有、故に是よりおがむ。
また「四国遍礼名所図会」の五十五番別宮の項には
・・大三島に渡らざる時は、此所にて遙拝す。


文政十三寅二月
別宮大山祇神社(現南光坊の隣)は、あくまでも参拝の困難にの配慮した「前札所」であり、本来の札所は、明治期、神仏分離策が強行されるまでは、大三島にある大山祇神社総本社でした。
であってみれば、大三島に渡った人は、決して少なくはなかったと思われます。


へんろ道標
ただし、推測ですが、波止浜湊を利用した遍路の多くは、大三島から帰ってくる人たちだったと思います。
大三島に渡る遍路の多くは、53番円明寺を打った後、堀江湊辺りから海路に切り替え、岩国、宮島参拝も含めながら大三島に渡り、波止浜辺りで陸路に復したように思います。
遍路たちは波止浜湊へ帰りつくと、メインストリートである本町(ほんまち)を通り、龍神社の玉垣を正面に見ました。そこに「右へんろ道」の道標があります。


本町
本町には塩田地主、塩問屋、回船業者などが、その威勢を見せて、店を構えていました。本町は、波止浜の繁栄を牽引していたといえます。
しかし昭和34(1959)、塩田が廃止されたことにより、波止浜の従来勢力は没落します。
これとともに狭い旧町場をきらった公共施設、金融機関、各種事業所などが広大な塩田の跡地に移転。波止浜の中心は、本町ではなくなりました。



・・ここで、ちょっとお断りです。
お気づきのように、龍神社を、玉垣をご覧いただいたのみで、素通りしてしまいました。号末にまとめて掲載しましたので、後ほどご覧ください。


造船所
さて、本町から湾沿いの道に出て、造船所を右に見ながら200㍍ほど北上します。すると大燈明台が見えてきます。


大燈明台
波止浜湊は、塩買船、製塩資材の運搬船、例えば石炭船、瀬戸内海航路の潮待ち船、風待ち船、諸島への渡海船などで賑わっていました。参勤交代で三津浜港が利用できない時の、予備の港でもあったと言います。伊予の小長崎と呼ばれたとは、前述しました。
元禄16(1703)、湾口に船番所が置かれましたが、大燈明台は、嘉永2(1849)、その番所前に建てられました。海上安全を金毘羅大権現に祈願しています。現在地に移されたのは、明治35(1902)だそうです。。


渡し場
現在大燈明台が在る所は、「渡し場」と呼ばれています。
現在も、来島(くるしま)や小島(おしま)、馬島(うましま)への渡海船(とうかいせん)の発着所になっています。

  来島 小島など
私はH18(2006)、渡し場から来島、小島に渡りました。その時の古い写真ですが、ご覧ください。


来島 
波止浜湾は筥潟湾(はこがた湾)とも呼ばれ、奥深い、箱形をした入江です。湾の中は穏やかで、帆船時代は、格好の風待ち、潮待ちの船溜まりでした。今は造船業が盛んです。


船から
しかし、ひとたび波止浜湾を出るや、そこには来島海峡の、急な流れがあります。
潮が湧いています。


来島
湾口は北を向き、その入り口を、枇杷型をした来島が塞いでいます。
写真は、糸山公園から今春、撮ったものです。本当は次の写真のように、もっと高いところで撮りたかったのですが、疲れてしまい、上がりきれませんでした。


来島
前は、考えてみれば車で上がったのでした。右下の建物が、今回の撮影ポイントです。


来島から波止浜
来島から見た波止浜です。奥は展望台がある辺り、つまり上掲の写真を撮った辺りです。


来島から小島
来島から見た小島です。後ろに、薄く大三島が見えます。


城跡
来島は、三島村上水軍の一、来島水軍の根城でした。三島水軍とは、因島村上水軍、能島村上水軍、そして来島水軍です。
彼らは芸予諸島海域の制海権をにぎって、西瀬戸内海に縦の関門ラインを敷いていました。通行税を徴り、払った者には警護や危険水域の水先案内をし、払わない者には、逆に海賊行為を働いたりもしていた・・?
なお東瀬戸内海には塩飽水軍が盤踞し、やはり関門ラインを敷いていました。


城跡
三島村上氏の中で、江戸時代まで大名家として残ったのは、唯一、豊後森藩に封じられた久留島氏(来島から改姓)のみでした。ただし、森藩は豊後国の内陸にありましたから、この久留島氏は水軍力の一切を失っていました。
おそらくは、それが却って幸いしたのでしょう、江戸時代を生き抜くことを得、明治期には子爵家となります。


小島
糸山公園から見た小島です。


小島から波止浜
小島から見た波止浜です。


小島からしまなみ海道
小島から見た、しまなみ海道です。


要塞跡
明治35(1902)、小島に「芸予要塞」の砲台が築かれました。帝政ロシア艦隊の瀬戸内海進入を阻むめのものです。三島村上水軍が敷いたラインが想起されます。
小島には、要塞の弾薬庫、兵舎、司令塔、発電所など、赤煉瓦建造物が、きわめて良い状態で残っています。写真は、発電所跡です。


馬島
糸山公園から見た馬島です。しまなみ海道の橋脚の島になっています。


馬島
前に撮った、より高い所からの写真です。


近見山
近見山です。右に小さく写っている海が、波止浜湾です。

 波止浜 龍神社


龍神社鳥居
波止浜龍神社の龍は、代官郡奉行 園田藤太夫成連が、近江国勢多郷から勧請したと言われます。塩田築造のためには、海面を埋め立てねばなりません。この難工事の成功を祈念し、龍神の助けを得べく、勧請されました。
初め、工事の完成を祈って旭方に仮寓を建て(後述)、天和3(1683)、塩田の完成を見て、現在地に社殿を建立。遷宮したとのことです。神社が町場(波止)と塩田(浜)の境界に在ることは、前述しました。龍神社の創建を以て、波止浜が誕生したわけです。


鳥居
完成した塩田は、入浜式でした。潮の干満差を利用して塩田に海水を取り込む方法で、人力で海水をくみ上げた、それまでの揚浜式よりも、労力が大幅に軽減されました。
入浜式塩田は長く、昭和25年まで続きます。


龍神社
その後、より効率のいい流下式に変えるなど、改良が加えられますが、昭和34(1959)、塩田による塩作りに終焉が訪れました。
「自然塩」から「精製塩」に変わった、と言えましょうか。化学製塩の時代に移ったのでした


龍神社
祭神は、彦火火出見命と豊玉比賣命の夫婦神、その子神の鵜茅葺不合命、の三神です。
彦火火出見命(ひこほほでみ命)は、海彦山彦神話で山幸彦と親しまれている神で、海宮に赴き、海神の女、豊玉比賣命(とよたまひめ)と結婚します。


龍神社
豊玉比賣命は子を身ごもりますが、天津神の御子を海原で生むことは出来ないとして、地上にやってきました。
ところが、鵜の羽で屋根を葺いて産屋を建てようとしましたが間に合わず、出産してしまいます。その子神が、鵜茅葺不合命(うがやふきあえず命)です。


屋根の龍
鵜茅葺不合命は、山と海の霊力を継ぐ神、ということになります。
その子神が、神武天皇・神日本磐余彦命(かむやまといわれひこ命)、初代天皇です。


旭方の龍神社
波止浜龍神社の、波止浜湾を挟んだ対岸、旭方に、もう一つの龍神社がありました。
前述の「仮寓」に因む神社でしょう。


旭方の龍神社
裏手に回ると、小高いところに位置しているのが分かります。


汐止明神 顕彰碑
波止浜湾が塩田に適していることに気づいたのは、波方の浦役人であった長谷部九兵衛だと言います。九兵衛は、竹原(広島県)で製塩技術を密かに習得し、波止浜に持ち帰りました。
汐止明神は、人柱の代わりに牛一頭を埋めて、工事の無事完成を祈ったものだそうです。


クレーン 
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は波止浜の石中寺、大浜八幡から、県道38号上の真名井神社、延喜観音などに詣り、54番延命寺へ進みます。
更新は、7月25日の予定です。

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2 コメント

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コメントに代えて (天恢)
2018-07-11 22:27:49
 西日本を襲った記録的豪雨の被害は収まることもなく日ごとに増え続けています。 被害状況が確定しない中で被害に遭われた方々に通り一遍の「お見舞い」など心苦しいものがありますが、 この度の平成30年7月豪雨により、被災された皆様ならびにご家族の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。皆様の安全と被災地の一日も早い復旧、復興を、心よりお祈り申し上げます。

 いつもなら「楽しく遍路」が更新されたらコメントを投稿させていただくのですが、こんな甚大被害が広がっていくと、ついつい今回は投稿を躊躇してしまいました。 このところ数十年に一度の豪雨が毎年のように発生しています。 75年の私の人生で、古くは諫早大水害、狩野川台風など死者・行方不明者では今回を圧倒したのですが、被災地は限定しており、当時の貧弱な治水対策などが大きな原因でした。
 それが、こんな大規模で広域で長期間の豪雨が続くとなると、地球規模の異常気象変動の始まりで、これからも繰り返されるのかもしれません。 大は地球環境破壊から小は手抜きの宅地造成までに代表される世界的規模での経済政策が今後とも推進されれば、地球は当然終末を迎えることになります。 
 星野道夫さんの言葉を借りれば『人間の歴史は、ブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り続けている。 だが、もし人間がこれからも存在し続けてゆこうとするのなら、・・・・。』と、今、人類の英知が問われているような気がしています。

 今回の豪雨で、広島県や岡山県の甚大な被害が注目されがちですが、四国の愛媛・高知の両県の被害も深刻です。 昨年、今年と訪ねた梼原、大月村、宇和島、大洲、肱川流域なども被災が報じられています。 前々回にコメントしました美空ひばりさんのバス転落事故のあった高知県大豊町では高知自動車道の立川橋が崩落しました。 流通の大動脈の復旧が長期化すると高知県は「陸の孤島」になると心配されています。 こうした被災者、被災地だけの支援では解決できない問題も山積みで、国全体の総力を結集して、一日も早い復興が待たれます。 また、この豪雨で、旧へんろ道にも相当な被害があったようで、関係者の皆さまの復旧へのご苦労が偲ばれます。 私のできそうなことは、これからも四国遍路を歩き続けることで応援させていただきます。    
躊躇 (楽しく遍路)
2018-07-14 14:22:09
・・ついつい今回は投稿を躊躇してしまいました。
きっとそうだと思っていました。それで遅れているのだと。
コメントは、それは楽しみではありますが、今、この時でなくてもかまわないのです。
今は、被災地の悲しみに思いをやり、生きてほしいと願うときでしょう。
またよろしくお願いします。

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