楽しく遍路

四国遍路のアルバム

西條・室川から旧街道を 新居浜・喜光地 関ノ戸を経て 千枚通本坊・延命寺へ

2019-08-28 | 四国遍路

 
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上室川橋
室川に架かる上室川橋です。遍路道はここから、旧国道(さぬき街道)に入ります。
現・国道11号は300㍍ほど下流を走っており、川には室川橋が架かっています。


室川
室川について、えひめの記憶に次のような記述があります。
・・今から数十万年も前、加茂川・中山川・室川などの河川は、北に開いた湾の海底に土砂を運びました。その遠浅の上に干拓が行われたわけです。この三つの川の集まりこそ、この地方の被圧地下水の構造をつくり、豊富な水量の涵養に大きく貢献していると私は考えております。
*「被圧地下水」は、圧力がかかった地下水の溜まりで、管を通すと、それだけで地下水が自噴します。


西条駅近くの湧水池
西条は、「水の都」と呼ばれるほど、豊かな地下水に恵まれた街です。湧水池や、「うちぬき」と呼ばれる自噴井は、西条の景色となっています。
加茂川・中山川・室川などが造った扇状地は、予讃線、国道11号が走る辺りに扇端があり、湧水池や自噴井は、その辺に分布しています。写真は西条駅近くにある湧水池です。手前に自噴井「うちぬき」があります。


飯岡郵便局
上室川橋を渡った先は、飯岡地区です。飯岡郵便局があります。


西原の大地蔵
郵便局の向かいに、地蔵堂があります。「西原の大地蔵」です。当所の字(あざ)が西条市飯岡西原であることから、「西原の・・」と呼ばれています。
地蔵像は、飯岡の念仏講中が宮島参りの帰途、広島に立ち寄って購入。持ち帰ったものだそうで、「大地蔵」と呼ばれるのは、その際、よほど重かったからでもあるでしょう。


地蔵堂
えひめの記憶に、興味深い記事があります。
・・旧地蔵堂の裏は物置になっていて、葬式道具が納められ、組内に不幸があれば、組中で助け合い子どもも加わって野辺の送りをしていた。
また昭和初期までは春の行事としてお遍路さんのお接待をお堂の前でしていた。お祭りの時は、青年団の素人芝居、時に浪曲などの催しがあって、親類知人を招待し、楽しくにぎやかであった。


お接待堂跡
さらに進むと、こんぴら道標(大門まで17里)が建ち、六地蔵さんが並び、大師堂が建つ一角があります。ここにはかつて、接待堂もあったそうです。
銅板の由来書に、次のようにあります。
・・江戸時代の中頃(1780年代)・・信仰篤き地元の先人たちが浄財を持ち寄り、旅人のひとときの憩いの場所・休息の場所として接待堂を建立し・・側に、旅人が無事結願されることを願い、また行く旅先での安全を祈って六地蔵を、またお大師さんの休憩の場所として、お大師堂を建立した・・


社日宮 八街命
六地蔵、大師堂の向かい側には、社日様と八街命(やちまた命)の小祠が建っています。右が社日様、左が八街命です。
八街は、道が八方に分かれ、迷いやすい所をいいますから、その名を冠した神は、旅人の安全を守る道祖神でしょう。社日様については、たびたび記してきましたので、略します。


くみじ
懐かしいものがありました。所により呼び名は違いますが、この辺では「くみじ」と呼ぶそうです。土地の人に尋ねると、・・字はわからんが、「汲み路」じゃろか、・・とのことでした。
まだ上水道が通っていない頃、家々は水路に沿って並び、各家は「くみじ」から、飲用水など生活用水を得ていました。


くみじ
その利用は、下流の住民への配慮がなされねばならず、厳しく管理されていたといいます。汚水は「吸い込み」と呼ばれる穴を掘り、かならず、そこに捨てました。
・・子供の頃、水道の魚が捕りたくて、つい入ったら、そりゃあ、ひどい目に怒られたんよ。そりゃまあ、そうじゃわいね、飲み水じゃけんね。水争いもあったそうじゃし。・・土地の人の思い出話です。


 
あるお宅の前に菊の鉢がずらり、並んでいました。
これを見て思い出しました。


大輪
以前、秋に歩いた時、見事に咲いた菊を見たのでした。


堂の本の地蔵屋敷
堂の本の地蔵屋敷、と表示されています。
かつて地蔵尊を祀る「屋敷」があり、そこは、お接待の場として使われていたようです。古く、延宝9(1618)建立の記録があるといいます。


道標
側に徳右衛門道標が建っています。
   是より 三角寺マデ 八里・・


祖父崎池
地蔵屋敷の側に、溜め池があります。祖父崎池です。
水面の浮き葉は、ハナジュンサイだそうです。夏、黄色い花を咲かせます。


合流
旧国道と現国道が合流します。
あまり楽しい道ではありませんが、コンビニがあるので、水などの補給には便利です。


国道11号
国道歩きの途中、行政区が西条から新居浜に変わります。
新居浜市大生院(おおじょういん)にある石鈇山正法寺については、 →H30秋4 をご覧ください。


旧街道
国道を2キロほど歩くと、ふたたび道が分かれます。もちろん旧街道を行きます。


祇園社
旧街道に入ると早速、祇園社がありました。
説明看板から引用させていただきます。・・昔、この辺りに一枚のお札が落ちていました。拾い見ると祇園神社のお札でした。その当時、この部落一帯に疫病が流行していて、住民は大変困っていました。住民達はこれを神のお告げだと思い、祇園神社を建立して篤く信仰しました。疫病は治まり、その後も流行ることはなかったそうです。昭和12年(1937)6月に当地知名人・古老が発起人となり、この地の守り神として、祇園神社と彫り込んだ石燈を建立して崇め奉りました。


遍路道標
岸ノ下地区の商店がある角に、遍路道標が建っています。
  是より西 前神寺へ・・
      東 三角寺へ・・
えひめの記憶によると、この辺にはかつて、遍路もよく利用した数軒の宿屋が集まっていた、とのことです。


岸ノ下地蔵堂
さらに進むと、消えかかっていて読みにくいのですが、岸ノ下地蔵堂があります。新居浜八八ヶ所の47番だそうです。
右に、一字一石塔が見えています。


一字一石塔
   天下泰平 国土安全  奉納大乗妙典一字一石塔
と刻まれています。一字一石塔とは、大乗妙典の経文を、小石ひとつに一字づつ書き写して地中に埋め、その上に建てた塔をいいます。
この塔は、萩生の酒造会社が鬼門除けに建てた、といわれています。


こんぴら道標
一字一石塔の側のこんぴら道標は、ブロック塀で見えなくなってしまいました。
この前に見た道標が十七里でしたから、たぶん、大門まで十六里、でしょう。


休憩所
一字一石塔の向かいに、休憩所があります。オーナーさんの愛読書なんでしょうか、広い分野の本が、図書館のように並んでいます。
えひめの記憶によると、一字一石塔の西隣りの小さな空き地に、かつて接待のための茶堂があった、とのことですので、この休憩所は、もしかすると茶堂の記憶を継いで、ここに在るのかもしれません。


農学校跡
新居農学校は郡立として、明治34(1901)に設立され、大正9(1920)、現在の新居浜商業高校の地に移されました。
新居浜商業高校は、その沿革をHPで見ると、昭和35(1960)、旧県立農村建設青年隊舎を校舎として設立された、とあります。新居農学校は昭和30年代まで、農村建設青年隊に姿をかえ、存続していたようです。
なお近隣では、新居郡の西隣、宇摩郡にも明治34に、東隣の周桑郡には明治37に、それぞれ農学校が設立されています。


中萩小学校
へんろみち保存協力会の黄表紙地図68-1が、ここ中萩小学校で終わり、遍路道は次の段に移ります。
小学校の手前、萩生(はぎゅう)の北の坊と南の坊は、行ってみたいと思いながら行けないでいる寺です。次回こそは、初日の半日を使って、お参りするつもりです。


喜光地商店街
喜光地(きこうじ)は地名です。喜光寺から来ているといいます。かつて喜光寺という寺があったそうです。
喜光地商店街は、讃岐街道に形成された両側街です。新居浜-別子銅山間の物資輸送路(あかがねの道)と交差するという地の利を得て、古くから栄えてきました。


商店街
今は、ご覧のように、閉じた店も多いのですが、喜光地商栄会は頑張っているようです。
その様子を、次のブログからどうぞ。
  →まちづくり喜光地のブログ


ふれあい広場
ふれあい広場を中心に、夜市・稲荷市、また日曜市など、イベントも催され、賑わっています。

 
水利記念碑 
アーケード街に、水利記念碑が建っていました。
・・當高庭地部落は古来より水利の便悪く、干魃に悩み、部落民一同、常に用水に苦しみたるも、各位の熱意により水源地を当地に設置し、部落民の宝庫として子孫に伝ふ。茲に碑を建て、永久に之を記念す。昭和26年3月
水源地の設置とは、地下水汲み上げ用の、ポンプの設置を意味するのでしょう。ようやく水源を得た喜び、成し遂げたことへの誇り、それまでの苦労が、しみじみと伝わってきます。
そういえば新居農学校の写真にも、背景にポンプ室が写っています。


国領川
その地下水の供給源となっていたのが、国領川です。上流から肥沃な土砂を運んで新居浜平野を造り、山間部に降った雨を伏流水として地下に貯めました。
水を吸い込みやすい地質なので、元々、地表の水量は多くなかったのですが、上流に鹿森ダム(昭和37竣工)ができたことにより、今はほとんど水無川になっています。


国領橋
国領川は、新居浜を分ける縦軸です。橋を渡った先が川東地区(住宅・田園地帯)、手前が川西地区(中心街)です。
横軸にあたるのは、予讃線です。予讃線付近から南側を、上部地区と呼びます。
なお上部地区のさらに南は、別子山地区です。



通学途中の小学生が見えます。船木小学校の子供達です。


観音像
やがて旧道は、またまた国道11号に吸収されます。
すぐ、右側に交通安全祈願の観音像が見えてきます。観音像の先には、坂之下大師堂があります。


坂之下大師堂
坂之下大師堂には、親不孝息子の譚が伝わっています。
・・親不孝の息子にバチが当たり、五右衛門風呂の底板がお尻にくっついてしまいました。お大師さんのご利益をいただいて、底板をとってもらおうと、息子は四国88カ所巡拝に出かけました。
・・そして、ここ20番に来たところで、お大師さんの許しを得ることができ、底板がとれたといいます。しばらく前までは、その底板が奉納されていたのだとか。
坂之下大師堂は新四国88ヶ所の20番です。


国道11号
長い登りです。


金毘羅道標
こんぴら道標です。
  こんぴら大門まで 十四里
十五里の写真がとんでいることに、お気づきでしょうか。喜光地商店街の駐車場にあったそうなんですが、見落としました。



峠に着きました。峠が関ノ戸と呼ばれているのは、ここに関所があったからのようです。
峠は、かつては新居郡と宇摩郡の郡境。今は新居浜市と四国中央市の市境です。


旧道へ
峠を越えるとすぐ、旧道への分岐があります。現国道から離れます。


関川
やがて川を渡ります。その名は、(前述の)「関」に因んで、関川です。


弘法の館
関川に架かる橋(熊谷橋)を渡った先に、弘法の館があります。休憩所です。中は、整理整頓、清掃が行き届いていました。
トイレは、右に見える民家(おそらくご自宅)に寄せて、建ててあります。さりげないお心遣いを感じます。


熊谷地蔵堂
熊谷地蔵堂です。遠く鎌倉室町時代より、広く人々が無事平安延命長寿を祈願してきた、とのことです。


熊谷地蔵尊
・・大水害の時も、熊谷地蔵尊が自ら御身をもって人々をお救いくださり、常に事故無く私たちを御護り下さる、霊験灼かな地蔵尊・・と刻まれています。


関川の戦い
関川河原で水鉄砲合戦をするのだそうです。ここが古戦場というのでは、ないようです。


関川小学校 校門の桜
樹齢は百年を超えるという桜で、「校門の桜」と呼ばれているそうです。
校内へは、たまたま居合わせた方のお許しを得て入りましたが、門は(かつてどの学校でもそうであったように)広く開かれていました。うれしくなる景色でした。


道標
関川小学校のすこし先に、道標が建っていました。 


道標
 中に大きく、金毘羅へ拾三里
 右に    前神寺へ六里
 左に    三角寺へ五里
 下に    當村 深川幸治清薫建之 



雨が似合うアジサイの道ですが、今年の四国地方は梅雨入りが、なんと6月26日でした。
中旬に歩いた私は、6月というのに、一度も雨具を使いませんでした。


三度栗大師堂
三度栗伝説は各地に伝わっており、ここはその一つです。
弘法大師は、子供たちから栗をもらったお礼に、この辺りの栗の木を三度栗にしてくださいました。年に三度実を結ぶ栗です。
栗は食糧として、また木材資源として、古くから人々の生活に欠かせないものでした。三内丸山縄文遺跡で大規模な栗栽培の跡が発見されていることは、よく知られています。


三度栗大師堂
三度栗大師堂は三度栗山地蔵院といいます。大師堂ですが、地蔵菩薩を祀っています。


予讃線 
国道11号を横断し、関川の支流に架かる木之川橋をわたります。
渡るとすぐ、予讃線の踏切です。


道標
 左 上野を経て 角野 松山道
私が歩いてきた道です。角野は、国領川の左岸にあります。


道標
 右 北野を経て 多喜浜 新居浜 西条
今日の県道138号・新居浜-土居線に相当する道でしょう。多喜浜で壬生川新居浜野田線・県道13号につながります。


県道138号
私は半分迷い気味に、この道を歩いたことがあります。


安養寺
その時に訪ねた安養寺をご覧ください。
阿島川(あしま川)沿いにある真言宗のお寺です。


安養寺
興味深いのは、新居浜八十八か所の札所番号の付き方です。安養寺は2番札所で、その境内に在る大師堂が1番札所になっています。
札所番号から察するに、大師堂が大師聖跡に建ったのが、そもそもの創まりのようです。その後、大師堂を中心に、安養寺が建ちました。寺の創建は、約350年前だといいます。


安養寺
大師堂に伝わる譚を、境内の「護摩池大師霊水功徳記」からご紹介します。
・・当所護摩池大師は宗祖大師廻国修行の砌、里人悪龍の水害に悩めるを哀れみて、護摩秘法を修してこれを封じられ、里人等水害の難を救われし霊跡にして、この聖跡に自ら清水沸きて尽きず。
・・のちの人この清水万病に功験ありとして、四隣より来って汲み皈り(帰り)服する風習、今日に及べり。


写し霊場と大師堂
というわけで、ここのお大師さんは護摩池大師、または地名から阿島大師、と呼ばれています。


大師堂
「寺」と「堂」の関係を語るかのように、両者は、同じ境内に在りながらも、離れています。



閑話休題。話は旧街道に戻ります。
浦山川に架かる、ときわ橋を渡り、・・


踏切
予讃線を越えると、・・


延命寺
延命寺の角です。


延命寺
歌碑や道標を集め、並べています。
是よりこんぴら大門へ十三里、の道標もあります。


延命寺
延命寺は別格二十霊場では、十二番になっています。


道標
かつては「いざり松」また「千枚通し本坊」の名で通っていたようです。
その名の由来を、延命寺公式サイトは、次のように記しています。
・・イザリ松 千枚通本坊は、弘法大師四国御巡錫の際、当寺にて一人のイザリ、松の辺りに有りしを憐れみ給いて、千枚通し霊符を創札され、一枚をイザリにさずけ給いしに、微妙の霊験によりたちまち全快したれば、・・


橋川
・・(イザリは)大師に誦従し、遂に得度を受け法忍と僧名されたり。之より千枚通しの名、我国内外に高く、其の当時の千枚通し今に寺宝として現存す。


誓松  
大師お手植えの松とされ、大松に育っていましたが、昭和47(1972)、残念ながら枯死したとのことです。
いざり松は、また誓松とも呼ばれます。一切衆生を救わんとの、大師の御誓願から来る呼び名でしょうか。
「四国遍礼名所図会」には、・・誓の松(道の左 接待店次にあり、名木結構なり)・・とあります。


藩領境界石標
誓松の側に領界石が建っています。
  従是西 西条領
江戸時代の宇摩郡は、幕府領(天領)と藩領が入り組んでいました。例えば、三角寺村は幕府領で、松山藩の預地でした。延命寺がある土居村は西条藩領で、三島村は今治藩領といった具合でした。
そんなわけで、この先でも思わぬ所で、従是西 西条領の石標に出会います。


藩領境界石標
小林集会所前に石標が立っていました。これより東・・と、これより西・・の二本が立っています。


藩領境界石標
すこし先の寒川郵便局側にも、これより西・・、が立っています。藩領が複雑に入り組んでいることがわかります。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
できれば三角寺までは書き進めたかったのですが、三島までも届きませんでした。
次号は、場合によっては三島までをスキップし、三角寺への登りからはじめることになるかもしれません。
更新は9月25日の予定です。

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♪ああ 川の流れのように おだやかに この身を まかせていたい~ (天恢)
2019-09-01 20:44:26
 この夏は遅い訪れでしたが、やはり処暑が過ぎれば、もう小さな秋が・・・。 夏が終わるこの時季は、「晩夏」とも呼ばれたのですが、異常気象なのか? 秋雨前線の停滞や台風の襲来が早まって、「ひと夏の思い出」を感傷的に浸る間もなく初秋を迎えそうです。

 さて、今回の「西條・室川から~延命寺へ」ですが、南に石鎚山系を望みつつ、旧さぬき街道に沿って歩く遍路を楽しく読ませていただきました。 天恢も7年前にほぼ同じコースを歩きました。 有り難い時代になったもので、今回の道中をGoogleマップのストリートビューで追跡・再現?できました。 「楽しく遍路」さんが「十五里の金毘羅道標」を見落としたそうですが、ストリートビューで探したら、喜光地商店街のアーケードを出たところの駐車場の脇にありました。 旧街道から20mも離れ、視線が前方の街道筋に向く場所で、これじゃ誰も気づかずに通り過ぎてしまいます。 かつてあれほど栄えた喜光地商店街も頑張っているようですが、7年前に比べてもお店が閉まって。空き地も増えていました。
 遍路を始めて13年、時代は確かに変わりつつあります。 遍路道沿いにあった小学校も過疎化でずいぶん閉校に追いやられました。 今回の「関川小学校 校門の桜」の写真をみて、天恢も同じ場所で撮っていましが、その時は校内の出入りはまったく自由でした。 しかしながら喜光地商店街の手前にある中萩小学校の写真にある閉ざされた校門の重厚な扉に隔世の感があります。
 ブログを読み終えての感想ですが、文中に『小学校の手前、萩生(はぎゅう)の北の坊と南の坊は、行ってみたいと思いながら行けないでいる寺です。 次回こそは、初日の半日を使って、お参りするつもりです。』と、ありましたが、幾つになっても次につながる遍路の夢は持ち続けたいものです。

 さてさて、今回のタイトル『♪ああ 川の流れのように おだやかに この身を まかせていたい~』は、ご存知昭和の歌姫・美空ひばりさんの生前最後に発表されたシングル「川の流れのように」です。 1989年(平成元年)1月に日本コロムビアより発売されましたが、同年6月24日、ひばりちゃんは52歳で亡くなられています。 この歌の誕生には数々のエピソードがあって、ちょうど30年前のことなので、今話題になっているようです。
 実は、このタイトル名の発想は、文中の「今はほとんど水無川になった国領川」から思い付いたものです。 一番霊山寺から歩かれた方は、吉野川、那賀川、仁淀川、四万十川、肱川など、とうとうと流れる水辺の景色を思いだされることでしょう。 ところが48番西林寺の手前にある重信川から川の流れが一変し、川の水が干上がった状態の水無川が多くなります。 主な理由は、①降水量の少ない瀬戸内式気候と②間近に四国山脈があっても、河川が短く急勾配のため、水を保てず、水を吸い込みやすい地質も重なって水無川になるようです。 
 チコちゃんに叱られそうな言い訳となりましたが、やはり川の流れは、ひばりちゃんが唄う「おだやかにこの身をまかせていたい」ほどの流れがあってほしいものです。
♫いつでも夢を・・ (楽しく遍路)
2019-09-06 09:24:45
なるほど喜光地商店街は讃岐街道ですから、ストリートビューで再現できるのでした。アーケード街では駄目だろうと、つい思い込んでいました。
起動してみると、確かに道標は在りました。次回は見逃すことはないでしょう。
むろん「次回」が約束されているのではありませんが、♫いつでも夢を・・、後期高齢者の私たちといえども、夢の一つや二つは、やはり持つべきでしょう。

美空ひばりさん、惜しい人を早くに亡くしました。
彼女が逝ったあの6月24日を、私はよく覚えています。雨が降る土曜日でした。土曜にもかかわらず出勤していましたので、訃報を知ったのは昼休み中だったのですが、帰り、飲みにいこう、すぐそう決めました。だれも誘わず、一人で「美空ひばり」を偲びました。
思うに、天恢さんにも私同様、「美空ひばり」への愛着があるようです。人生の思い出のあちこちに、彼女の歌がBGMとして流れているのではないでしょうか。
というのも、天恢さんが美空ひばりにふれるのは、二度目だからです。一度目はまだ四国の田舎を「どさ回り」中の、加藤和枝と名乗っていた頃のひばりさん。二度目が、文字通り渾身の遺作、「川の流れのように」を歌ったひばりさんです。彼女の始めと終わりに触れています。
彼女が歌う情緒の世界を、天恢さんもまたくぐってきたのだなあ、そんなことを思ってみました。

つまらぬ話です。
私は子供の頃、「河童の川流れ」を、泳ぎの上手な河童が川の穏やかな流れに、・・この身をまかせ・・、両岸の景色や空の雲を楽しみながら流れ下る様、だと思っていました。
だから河童にあこがれて、できれば自分も河童になって川下りをしてみたい、気持ちいいだろうなあ・・。
そんな夢を描いておりました。川から海に出て、黒瀬川に乗って世界旅行も・・。
天恢さんのコメントが、ふと、そんなお馬鹿な自分を思い出させてくれました。

台風13号が先島諸島から朝鮮半島、日本海をうかがっています。南の海には、いくつもの熱帯性低気圧があり、昨日は15号がうまれています。
安定した秋の空になるのは、まだまだ先のことのようです。体調の管理に気をつけられて、この季節の変わり目を乗り越えてください。

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