楽しく遍路

四国遍路のアルバム

伊予小松 氷見の街 篤山遺跡など 63番吉祥寺 石岡神社

2019-07-03 | 四国遍路

 
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茂兵衛道標
初日の半日を使って、小松から氷見の街を歩いてみました。
写真は、珍しい中務茂兵衛道標です。小松駅西側の、一本松踏切側にあります。
鳥居の柱を再利用したらしい円柱道標で、しかも上にお大師さんの座像が乗っかっています。


茂兵衛道標
宝寿寺と香園寺の方向を、指差しで案内しています。
ただし、この「宝寿寺」は、一之宮神社の南に隣接して在った頃の宝寿寺です。讃予線(当初は予讃線ではなかった)敷設に障るとして、宝寿寺が現在地に遷されたのは、大正10(1921)のことでしたから(H30秋 2)、道標が建立された明治34(1901)には、まだ宝寿寺は、一之宮神社の南隣に在ったわけです。


茂兵衛道標
江戸期まで一之宮神社の別当寺であった宝寿寺は、明治初期、神仏分離→廃仏毀釈で廃寺となりました。
しかし明治10(1877)、神社の南隣に寺地を得て再興。
その後、大正10(1921)、現在地に遷されるという経緯をたどりました。それにしても札所を移動させてまで線路を通すとは。讃予線建設熱の高さが、わかろうというものです。


小松小学校
小松小学校は、旧藩校・養正館の流れを汲む、「一番学校」を前身とするそうです。(H30秋 1)でもふれましたが、明治5(1872)、学制発布を受けて設立された学校です。
その後、養正学舎など、いくつかの改称を経て、明治23(180)、小松尋常小学校となり、小松小学校に至っています。
校地は、当初は養正館の跡地に在りましたが、昭和11(1936)、現在地に移転しています。


小松小学校の近藤篤山像
小松小学校校門脇に、近藤篤山先生(とくざん先生)の肖像が在ります。後述しますが近藤篤山は、藩校を養正館(ようせい館)として再生した、江戸期の儒者です。
像には、「伊豫聖人 近藤篤山先生肖像」のプレートがあるのみですが、察するに、子たちに「孝養」の大切を教えているのでしょうか。



小松小学校から、古い道を通って、西方向に向かいます。


西の地蔵
讃岐街道沿いに、地蔵堂がありました。
この地蔵について、えひめの記憶は次のように記しています。
・・(地蔵は)、享保8(1723)に天然痘が流行した際、町人町の人々が藩の許可を得て、悪病の侵入から小松の町を守ってもらうことを祈願して建立したものです。
小松の街を守っていただくべく、お地蔵さんは、街の四方、東西南北に建立されました。それらは今も全部、残っており、写真は、西の方角を守ってくださる地蔵さんです。


西の地蔵
・・「お地蔵さん」が建立された場所を地形図上に示してみると、現在の小松町の中心街の領域とほぼ変わらないことが分かる。
現在の小松町は広い範囲にわたっていますが、藩政時代の「小松」は狭く、現在の小松町の中心街のみを指していました。その範囲を守るべく、町人たちは地蔵菩薩を建立し、結界を張ったわけです。


小松川橋
小松の西を限ったのが、小松川でした。
写真は、小松川に架かる小松川橋です。(H30秋 3)でもご覧いただきましたが、この橋を渡り香園寺に参ったのでした。


墳墓入り口
橋の傍に「篤山先生墳墓」の案内があります。
この道を入ると、(写真を撮り忘れたのですが)、前方に県立小松高校が見えてきます。丘の上に建っています。
   小松の芽立ち さはやかに
   道前の野は展けたり
   若人集ふ この岡や
   名も養正と 呼ばれつつ
この丘を小松高生は、「養正ケ丘」(ようせいケ丘)と呼んでいます。小松高校もまた、近藤篤山が築いた藩校・養正館の流れを汲む学校であるようです。
なお私たちは遍路として、小松高校が一時期、子安高校と呼ばれていたことを、知っておきたいと思います。小松高校は養正館とは別に、子安大師=香園寺とも、深いかかわりを持っていました。


篤山近藤先生墳墓
篤山先生墳墓は、養正ケ丘の中腹、小松高校通学路の脇に在ります。
案内してくださった処の人が、・・実はこの方との話に夢中で、写真を撮りはぐったのですが・・いろいろ話してくれました。
・・小松高校は、ええ学校よ。受験勉強もするけど、「養正チャレンジ」いう勉強(探求活動)もしとるんよ。それに、県立で夏の甲子園にも出たし。文武両道よ。
・・夜8時頃、部活の子らがねえ、この道を帰るんよ。今どきの子じゃけん、懐中電灯じゃなく、ケータイで道を照らしてな。皆、挨拶してくれるよ、ハッハッハッ。


近藤篤山墳墓
墓地には、養正館教授を継いだ篤山の長男・近藤南海、次男・近藤簣山(きざん)など、篤山に連なる方々の墓も見えます。ただし(後掲しますが)、ご両親の墓は、ここにはありません。


顕彰碑
近藤篤山は江戸後期の朱子学者であり教育者。「徳行天下第一」と評され、「伊予聖人」と尊称されたといいます。
藩校である養正館の門戸を、藩士のみならず農家や商家の子弟にも開いたことは、特筆すべき功績であったと思います。
写真は、墓地の脇に立つ、篤山顕彰碑です。「昌平」などの文字が見えます。養正館を昌平黌式に整えたことに、かかわるのでしょうか。


仏心寺へ
養正ケ丘を下り、小松川沿いに仏心寺に向かいます。
案内してくださった処の人たちが、遠くになるまで見送ってくださり、”そっちじゃない、川沿い川沿い!”などと、声を送ってくださいました。
因みに、この方々は私と同い年でした。”健闘”を誓い合って、お別れしました。


ハグロトンボ
川沿いの道を、ハグロトンボがヒラヒラと飛んでいました。
近頃はトンボ自体が珍しくなっていますが、中でもハグロは、久しぶりに目にしました。これはオスのようです。


仏心寺
小松藩2代目藩主・一柳直冶が、慶安3(1650)、一柳家の菩提寺として建立したとのことです。
慶安3年は、初代藩主・直頼の、七回忌の年でした。


山門
山門は四脚門です。藩政時代は小松陣屋の城門でした。明治に入って、仏心寺に移築したと言われます。やはり惜しんだものと思われます。
保存を願って移築した同様の例は、今治城の城門を54番延命寺に移築したなど、けっこう多くあります。


扁額
山門にかかる扁額は、三代藩主・一柳直卿(なおあきら)の揮毫になる、真筆だそうです。直卿は書家として知られていたといいます。


本堂
仏心寺には「ちんちゅう狸」の譚が伝わっているそうです。
・・剣道好きの狸がいて、夜な夜な本堂に入り込んでは、練習していました。誰もいないはずの本堂から聞こえてくる音に、すっかり小僧さん達は怯えていたといいます。
和尚さんが一計を案じ、道場代わりの小屋を建ててやると、「ちんちゅう狸」はそっちが気に入ったらしく、本堂での稽古はピタリと止んだのだそうです。
ただそれだけの、なんてことない譚ですが、なんとも可愛い狸の譚ではあります。


沙羅双樹
境内の沙羅双樹(対になった沙羅の樹)です。
・・釈迦がインドのクシナガラ城外で入滅したとき、その床の四辺にはえていた沙羅双樹のうち、各一本は入滅を悲しんで枯れ、別の各一本は枯れず、花を咲かせつづけたと言われています。


供待ち
「供待ち」が残っています。仏心寺は藩主家菩提寺でしたから、お供が待っている所(供待ち)が必要でした。


御霊屋門
境内から墓地につづく門を、御霊屋門(みたまや門)というそうです。藩主家墓所に通じる道に建っていたものを、明治に入り、仏心寺に移したといいます。
藩主家の御紋が鴨居に抜かれています。


仏心寺橋
山門を出ると、小松川に仏心寺橋が架かっています。
渡った先が、行き止まりであるかに見えるけれど、・・


枡形
実は、道が鈎の手に折れているのでした。
小松の街は小松藩陣屋を中心とする、いわば城下町でしたから、当然、外敵への備えとして、道は通り抜けにくくなっています。この道は、菩提寺と小松陣屋を結ぶ道ですから、なおさらです。


一直線の道
小松の街に初めて、障害のない一直線の道が通じたのは、大正15(1926)のことでした。小松橋の竣工とともに、旧国道11号(讃岐街道)が通ったのでした。
大正末期、おそらく国鉄小松駅開業を大きな契機として、小松の街は激変したようです。


常磐神社
その様子を簡単な年表で示してみます。
  大正10(1921) 宝寿寺移転
  大正12(1923) 国鉄予讃本線開通、伊予小松駅設置
  大正13(1924) 常磐神社を創建。
  大正15(1926) 小松橋竣工。初めての一直線の道(旧国道11号)が小松を貫通。
写真は、大正13に創建された、常磐神社です。えひめの記憶によると、・・小松の各所に奉齋されていた夷子社、天満宮、金刀比羅社、飯積社、荒神社を合祀して、・・創建されたといいます。有り体に言えば、開発の邪魔になるので「まとめた」ということでしょうか?


伊予小松教会
常磐神社の隣にある伊予小松教会について、えひめの記憶が次のような記事を載せています。ぜひ知っておきたい話なので、そのまま転載させていただきます。
・・小松においては、町民の有志が集まり「善道会」なる団体を組織し、各戸の軒々に「善道会員の章」なる木札を掲げ、キリスト教の集会ごとに罵言・乱暴、石を投げ込み、ために鮮血を流すものもあり、また、信者の家(中水真則)に火をつけ、危うく焼失するところ、家人これを知って未然に防いだということもあった。
・・しかして、投げ込まれた大中小の石は数百を超えたが、これを敷石として小松教会は教会堂を建築した。これはキリスト教史上、有名な話となっている。


本禅寺
小松駅前通を南に進むと本禅寺があります。浄土宗の寺です。


篤山両親墓
ここに篤山の父母が眠っています。左が父、右が母とのことです。
墓石は、篤山墳墓のものと同じ、屋根型をしています。わかりませんが、儒式なのでしょうか?


近藤篤山邸
本禅寺の道を挟んだ側に近藤篤山邸があります。
が、私が訪ねたときは、残念ながら開いていませんでした。


近藤篤山生誕の地
なお篤山先生生誕の地は、この先、土居町の遍路道沿いにあります。


集会所 神輿倉
進路を東に変え、旧小松藩の藩政の中心・陣屋跡に向かいます。
集会所と神輿倉が見えてきました。


旧藩集会所
「旧藩集会所」とあります。「旧藩」は地名です。この辺が、旧藩の中心中の中心だったということでしょう。


陣屋跡
小松藩の陣屋跡です。


陣屋見取り図
小松藩は明治までつづきましたから、この陣屋も、初代藩主・直頼が築いたものが、基本的には残っていたはずです。
明治に入って壊されましたが、その時、陣屋門などいくつかは、仏心寺などに移されています。


養正館跡
篤山が築いた養正館が、ここに在りました。


藩境
旧藩を東に少し行くと、小松と氷見の境となる道があります。つまり小松藩と西条藩の境でもありました。
右が西条藩領、左が小松藩領でした。写真奥に小さく、常夜灯と藩領境界石標が写っています。


常夜灯 藩領境界石標
常夜灯と領境界石標です。


藩領境界石標
是従東 西条領 とあります。
今は小松も氷見も西条ですから問題はありませんが、この石標は、かつての小松藩領に立っています。本来は道の反対側に立っているべき石標ですが、道路を拡幅したとき、こちら側に移したのでしょう。詳細が、手前の石柱に刻まれています。


東の地蔵
小松藩領に入ってくる’悪しきもの’を見張るように、東の地蔵さんが立っています。おそらくこの地蔵さんは移されていないでしょう。


大庄屋高橋家
小松から氷見に入り東進すると、大庄屋高橋家があります。大屋根に櫓がついています。
高橋家は江戸時代、19カ村を取り仕切る大庄屋でした。先祖は、氷見高尾城主・高橋美濃守政輝ともいわれています。天正の陣(秀吉の「四国征伐」)で討ち死にしたと伝えられる武将です。(後に再び登場します)。
なお、高橋美濃守に高尾城籠城を命じたのが、トンカカハンに唄われる金子の殿こと金子備後守元宅でした。(H30春 8)郷土軍の総大将です。


高橋家
さて、高橋家の塀沿いに道を下ると、・・


真宗の寺
浄土真宗の覚法寺があり、その門前に米穀屋さんがあり、小さな公園があり、そこから少し入ると、・・


柴之井
柴之井(しばのい)があります。水大師さん、お加持水、長寿水などとも親しみ呼ばれているとのこと。
野菜を洗ったり洗濯したり、また井戸端会議をしたり、日常的に生活上の水場として使われていたようです。
霊場記に、・・(宝珠)寺を去ること一町ばかり上に、柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸き溢る。村民大いに利とす。・・とあります。


安政の道標
柴之井から63番吉祥寺へ向かうと、安政の道標がありました。
「左 へんろ」と見えます。反対側には「逆 へんろ」と刻まれています。


吉祥寺山門
63番札所吉祥寺のご本尊は、札所で唯一、毘沙聞天です。寺名の吉祥は、毘沙聞天の妃神とされる、吉祥天に因んでいるのでしょう。
左右の象は、浄水を金瓶に汲んで吉祥天に浴びせるという、天の象かもしれません。


本堂
吉祥寺の興りは、寺伝では次のようです。
・・弘仁年間(810-823)、光を放つ檜を見つけた大師は、毘沙聞・吉祥天・善賦師童子(ぜんにし童子)の像を刻み出し、小祠に安置。ここに吉祥寺は始まる、とのことです。善賦師童子は毘沙聞と吉祥天の子とされています。


福聚閣
その後の吉祥寺について、四国遍礼霊場記(寂本)は、次のように記しています。
・・当寺、むかしは今の地より東南にあたり十五町ばかりをさりて山中にあり。堂塔輪奐(りんかん)として梵風(ぼんぷう)を究む。
 *輪奐は、建築物が広大でりっぱなこと。 梵風は、大般若経の転読がおこす風。


題 巡りゆく思い
現在地より南東の地にて、吉祥寺は栄えていましたが、
・・天正十三年毛利氏当初、高尾城を攻めるの時、軍士此寺に乱入し火を放ち、此時本堂一宇相残り、仏具典籍一物を存せず燬撤す。
秀吉軍(具体的には毛利氏の小早川軍)は、高橋美濃守(大庄屋高橋家の先祖とも言われる)が籠もる高尾城を攻め、そのとき、同じ山中にあった吉祥寺にも火を放ちました。寺は本堂のみを残して焼失。仏具典籍は破壊されてしまいました。


成就石
・・それより今の地に本尊を移し奉る。
本尊は助け出されて、(霊場記には記されていませんが)麓の大師堂に移され、祀られていたようです。
現在地に吉祥寺が再建され、本尊を迎え奉ったのは、万治2(1659)になってのことといいます。


寺の下
吉祥寺から北に下ると、「寺の下集会所」があります。「寺の下」は、この辺の地名です。
「寺」はもちろん、吉祥寺を指しており、この地域が吉祥寺を中心に構成されていることがわかります。


徳右衛門道標
吉祥寺の北側に徳右衛門道標があります。
  これより前神寺へ二十丁
次の札所、前神寺を案内しています。


茂兵衛道標
やはり北側の角に、茂兵衛道標があります。
右面の指差しは宝寿寺、左面は吉祥寺方向を指しています。
北側に在るこれら二基の道標は、いずれも今では、遍路が目にすることの少ない道標です。


苗代
6月中旬から下旬にかけてが、この辺の田植えの時季です。
多くの場合、麦を取りいれ、この時季に、田植えをします。刈り入れは10月頃のようです。麦ではなく、ホーレンソウなどとの二毛作もあるようです。
写真奥に吉祥寺本堂の大屋根が見えています。



植えたばかりの田です。ちょっと寂しいのは、田圃に虫たちがいないこと。いないから、ツバメの姿も見えません。水面すれすれに飛ぶツバメを、よく見たものでしたが。


天恢さんが見た、伊予桜井駅のツバメ
天恢さんのコメントにある、伊予桜井駅で撮ったツバメ夫婦の巣作りです。
ツバメは、カラスなどを近寄らせないよう、ギリギリ人間に接近して、子育てをします。人間の怖さを利用して、子を天敵から守るのです。
しかし近頃、人はツバメが近寄るのを嫌います。写真でも以前の巣が払われています。こういうことは、昔はしなかったものです。なにせツバメの巣は、家運隆盛の印でしたから。


石岡神社鳥居
吉祥寺が別当を務めていたという、石岡神社(いわおか神社)を訪ねてみました。
「いわおか」は「祝いケ岡」の転だと言われています。新羅征伐から凱旋し、応神天皇を無事出産した神功皇后は、その帰途、当地にて天神地祇の奉祀をおこないました。そのことから当地は「祝いケ岡」と呼ばれるようになり、それがやがて「いわおか」に転じたのだと言います。
応神天皇(誉田別尊)など諸神を祀ることから、江戸末期までは、石岡八幡宮と呼ばれたそうです。


石岡神社参道
石岡神社の社叢は見事です。
またまた天正の陣の話ですが、この辺一帯に火がかけられたとき、社叢は延焼を食い止めるに役立ったと言います。多くの耐火樹が含まれているのでしょう。


石岡神社の社叢
遠方から見た石岡神社の社叢です。


石岡神社
石岡神社は西条ダンジリ発祥の神社といわれ、西条祭のなかでも石岡神社大祭は、伊曽乃神社の祭りに次ぐ、大きな祭だとされています。
・・享保19(1734)のこと。石岡神社の宮司が河内の誉田八幡宮と応神天皇陵を奉拝した折、同宮のダンジリを見て帰り、吉祥寺住職の協力で竹のダンジリを作ったのが、西条氷見ダンジリの始まりである。その後、小松西条へと広がった。(境内の由緒書より)
宮司と住職が協力し合っているのが、面白いですね。


参道
一週間という短い時間での更新作業でした。そのため、やや手抜きの感もあります。ご容赦ください。
次の更新は、7月31日の予定です。氷見から東進します。

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♪死にたいくらいに憧れた 東京のバカヤローが 知らん顔して・・・ (天恢)
2019-07-07 22:25:15
 今年も早いもので、2020年まで半年を切りました。 「楽しく遍路」さんが梅雨の晴れ間を縫うように遍路へ出掛けられ、戻られて直ぐなのに予告されていたリメーク版でない、フレッシュな道中記を吾々読者に提供してくれました。 手抜きなんかはありません、本当にご苦労さまでした。

 さて、今回の出来たてほやほやの労作 「伊予小松 氷見の街 ~ 石岡神社」ですが、通常の遍路では宝寿寺から吉祥寺まで国道11号線を歩けばわずかの道のりです。 それが、ちょっと脇道に入るだけで、こんなに楽しい歴史散歩が待っていたのです。
 現在は、西条市に編入されていますが、小松は江戸時代、一柳氏一万石の陣屋町として栄えました。 3万石以下の大名は城を持てず、城下町より小さい陣屋となりますが、それでも小松藩は小さいながらも立派な「一国」です。 大大名支配地と同様の政治、経済、社会生活がここでも営まれ、江戸末期の状態が凝縮したカタチで残っていますから、この陣屋町を回るだけでも歴史を垣間見ることができそうです。 歴史的建築物や寺社だけ見て歩くのでなく、城下町特有の通り抜けにくくなっている道にも目を配りたいものです。 それと幕末の思想家佐久間象山が「徳行天下第一」と称えた郷土の誉れ近藤篤山先生のことです。 「伊予聖人」と尊称されたといいますから、今も地元の人達から慕われ、誇りとされているに違いありません。 
 天恢も、昨年、今年を含めて、これまで三度ほど「ビジネス旅館小松」に泊まりました。 遍路だけではなく、移動の途中にわざわざ下車しますが、理由は、ここに泊まれば旨いお肉と、たくさんの遍路の仲間に会えるからです。 今回の道中記を読んで歴史ある小松の町を詳しく知って、機会があればじっくり歩きたくなりました。 ちょっと息苦しさを感じたのは、クリスチャン迫害で投げ込まれた石を敷石として建てられた伊予小松教会の箇所です。 狭さ故の閉鎖性、歴史ある故の保守・封建制からでしょうか? これも小松の町が持つ宿命的な光と陰、表と裏、清と濁なのでしょうか?

 さてさて、今回のタイトル『♪死にたいくらいに憧れた 東京のバカヤローが 知らん顔して・・・・』は、シンガーソングライター長渕剛さんが歌う「とんぼ」の一節です。 都会生活での生きづらさを歌っているようですが、ブログに、『川沿いの道を、ハグロトンボがヒラヒラと飛んでいました』から「トンボ」のタイトルになりました。 遠い昔の故郷で暮らしていた頃によく見馴れた光景が懐かしく蘇りました。 
 今回の遍路は田植えの時季だったそうで、「季節のない街」に住む者にとって遍路は四季折々の自然を教えてくれます。 残念ながら田圃の水面すれすれに飛ぶツバメは見かけなかったそうですが、この地にはツバメは絶滅したかというと、そうでもなさそうです。 10年前にここ伊予小松駅より今治寄りの伊予桜井の駅舎で子育て中のツバメの親子を微笑ましく観察しました。 それから10年経った今年の5月、白砂青松が続く今治の海岸を散策して立ち寄った伊予桜井駅で、せっせと巣作りに励むツバメのカップルに出くわしました。 もしかしたら最初のツバメの子孫?かと、思うと不思議な感動を覚えました。 今は無人駅となって管理も行き届かない駅舎でずっと続く営み、これも利用者や地元の方の理解がなければできないことです。 いつまでもこの情景が続くことを願っております。
♫ツバメが ひくくとんだ あした あめじゃ (楽しく遍路)
2019-07-09 13:42:33
コメントありがとうございました。
四国九州中国の入梅が(かつてないほど)遅れていることを知って、急遽、思い立ち、思い立ったその翌々日には出発していました。出かければいいだけというところまで、計画は詰っていましたので、慌てることはありませんでした。
天気予報は、これから一週間ほどは曇か曇ときどき晴、気温は28度、高くて31度、と告げていました。その先は長雨、そして猛暑。もう秋まで歩けそうもありませんでしたので、歩くなら今しかない。
実際、予報は当たり、ぱらつく雨は二度ほどありましたが雨具を着けることはなく、強い日差しの日もありましたが、ほどよく乾燥した風があり、快適な遍路を楽しむことが出来ました。

帰宅の翌々日、四国は梅雨に入り、けっこう荒れ模様の天気が続きましたので、もしかしたら今回の遍路行は、お大師さんのご褒美だったかなと、密かに思ってみたりもしました。
ただ、弘法も筆の誤りとか申します。察するに、お大師さんのちょっとした手違いで、他の方に行くはずだったご褒美が、たまたま私に来てしまったのでしょう。

帰宅後一週間で新しい記事を仕上げるのは、やや厳しかったですけれど、天恢さんも書かれているように、小松の街の面白さに助けられ、なんとか間に合わせることが出来ました。
ひとつ、残念なのは、小松には「ビジネス旅館小松」の他にもう一軒、宿があったのですが、その宿の電話がもう使われなくなっていたことです。営業を止めたのでしょうか。

ツバメの数には地域差があるようでした。私の大雑把な観察では、壬生川、小松の辺は少なく、代わりに雀がチュンチュンと、うるさく鳴いていました。氷見以東になると、以前ほどではありませんが、けっこう飛んでいる姿を見ることが出来ました。ある調査によれば、2000年代には、1900年代の1/3に減っているともいいます。
原因はいろいろなのでしょうが、まず思いつくのは、エサが少なくなってきたこと。エサとなる虫を、人が駆除してしまっていることがあるでしょう。ツバメは益鳥と習った時代は、遠い過去となったようです。もう益鳥はご用済みのようです。
またツバメは、カラスなどの天敵が近づきにくい場所、人が住む民家の軒先などに巣を作りますが、最近の民家には軒がなかったりで、巣作りが難しくなっていることもあるようです。ツバメが巣作りをする家は栄える、といわれ、ツバメは大いに歓迎されていたものでしたが、今は、家を汚すツバメは、敬遠されるようです。
いただいた桜井駅のツバメの写真、本文中に掲載させていただきます。

昨年11月、私は麦まきの準備をしている風景をみました。今回は、その麦を刈った後の、田植えの風景を見ています。
二毛作の狭間を、私は歩くことができました。出来れば次回は、実る稲穂を見ながら、歩きたいものです。その次は、青い麦畑の中を。

タイトルは童謡です。次のようにつづきます。
ツバメが ひくくとんだ あした あめじゃ あめふりゃ カエルが さわぎだす ゲッコ ゲッコ ゲッコ ゲッコ カエルがおどりゃ たんぼのタニシが でんぐりかえる
作曲は、なんと、才谷梅太郎という人です。作詞は福尾野歩(のぼ)さん。

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