楽しく遍路

四国遍路のアルバム

60番前札所清楽寺  三嶋神社 61番香園寺 子安大師  62番宝寿寺 一之宮神社

2019-02-06 | 四国遍路

 
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60番前札所・清楽寺
明治期の、清楽寺と横峰寺との関わりを、年表から抜き書きしてみました。
 明治 4(1871) 60番横峰寺が廃仏毀釈により廃寺となり、清楽寺が60番となる。
 明治12(1879) 横峰寺が大峰寺の名前で復興する。→60番問題が起こる。
 明治18(1885) 大峰寺を60番とし、清楽寺を60番前札所とすることで決着。 
 明治42(1909) 大峰寺が、横峰寺の名に戻される。


清楽寺
明治12、横峰寺が大峰寺として復興すると、60番問題が起きました。大峰寺が(俗な言い方をすれば)60番を返せと主張すれば、清楽寺は、嫌だというわけです。
その決着がついたのは、明治18(1885)でした。
その前年の明治17(1884)に、60番(横峰寺)の前札所であった妙雲寺(大頭道の登り口にある)が火災で焼失。廃寺となったのを機に、清楽寺を前札所とし、大峰寺が札所となることで、問題を決着させたのでした。


妙雲寺門前
その後、妙雲寺は復興されましたが、そのときはもう前札所の「席」は塞がっており、前札所に復することは出来ませんでした。
妙雲寺は今は、(前札所ではなく)「元の前札所」「前札所旧跡」などと称ばれています。
写真は、妙雲寺門前の道標です。左は「ぎゃく 生木地蔵」と逆打ち道を案内。右は「六十番 前札・・」と読めます。元は60番前札所であったことがわかります。


清楽寺の道標
清楽寺境内に道標があります。次のように刻まれています。
・・四國六十番札所大峰寺道 四國六十番前札清楽寺道 仝寺ヨリ六十一番ヱ四丁 仝寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカ二六十番前札ナシ
えひめの記憶は、・・この道標は30年ほど前までは、国道11号大頭交差点に立っていた・・という証言を採録しています。とすると、大頭交差点から妙雲寺までは約500㍍の所ですから、・・ホカ二六十番前札ナシ・・の道標は、まさに妙雲寺の鼻先に立っていたことになります。


清楽寺の横峰寺遙拝石
なんらかの事情で横峰寺に参拝できない時は、ここから遙拝します。


清楽寺門前の予讃線
清楽寺の門前を予讃線が走っています。前号のコメント欄で天恢さんは、予讃線から見る清楽寺の景色を書いてくださいました。
香園寺へは、この高架をくぐり、直進します。


道標
直進すると国道11号にぶつかり、そこに円柱道標があります。
  四国六十番前札所清楽寺
60番前札所としての清楽寺が案内されています。建立年は明治20(1887)です。清楽寺が前札所になったのは、(前記のように)、明治18(1885)でした。


三嶋神社
11号を渡った向こう側に三嶋神社があります。
社伝によれば、和銅5(712)の創建。国司・河野伊予守越智玉興、玉澄の兄弟が、大山祇神社より勧請したとのこと。また、河野益雄が天平年間に勧請した、との別伝もあるようです。
とまれ古社であり、山神、水神、雷神を主祭神として祀っています。
  大山祇大神(おおやまづみ大神)
  高龗大神(たかおかみ大神)・・闇龗大神と対、あるいは同体とされる神。
  雷大神(いかづち大神)


三嶋神社
神社は、舟山という独立丘陵の上に建っています。舟山という名は、丘陵を俯瞰した姿が舟形であることから来ています。
上掲写真からもおわかりと思いますが、大鳥居が立っている所が、舟の水押に当る部分で、丘陵の先端部です。
なお舟山丘陵は、6-7世紀の小規模古墳(横穴式円墳)が密集する、群集墳遺跡でもあります。墳墓の多くが、神社造営で潰されたそうですが、それでもまだ10数基、残っているとのことです。古墳が神社地に利用されるのは、よくあることです。


利平道標
丘陵の水押部分に、三基の道標が立っています。順に記してゆきます。
まず最初は、円柱型の利平道標です。前号では四角柱の利平道標をみましたが、今号では円柱です。利平道標では、円柱道標の方が多いようです。
この円柱道標には、円柱の利点を生かし、3つの情報が刻まれています。この写真では、・・松山道 いわやさん・・が案内されています。「いわやさん」は、岩屋山でしょう。
松山道は、(松山に向かう人は松山道と言いますが)、松山から来る人にとっては、讃岐街道となります。直前の霊場は生木地蔵です。道後平野と道前平野を結ぶ道で、この道については、前号、土田之木さんのところでもふれました。今は国道11号に、その姿を変えています。

金毘羅道標
讃岐街道は、金毘羅詣りの人にとっては、金毘羅街道です。
ですから、利平道標のすぐ傍に、金毘羅道標が立っています。
  こんぴら大門まで 七里
これが二基目の道標です。


利平道標
利平道標に刻まれた二つ目の情報は、
  今治道 こくぶんじ 
えひめの記憶は、・・三嶋神社入口右の灯ろう前に立つ利平道標は、ここが讃岐街道・今治街道・遍路道の結節点であることを示している。・・と書いています。
今治街道は、基本、私が歩いてきた道です。古代南海道をベースにし、今は国道196号に姿を変えています。


利平道標
利平道標がくれる三つ目の情報は、
  手印 こうおんじ 文久四年甲子二月・・
香園寺への道を案内しています。文久4年は1864年です。利平道標は、文久4(1864)と明治14(1881)のものが多いようです。


茂兵衛道標
利平道標があり、金毘羅道標があり、三基目の道標は、茂兵衛道標です。鳥居に向かって左側の通りを隔てた所に在ります。
61番香園寺へ行く道と、打ち返して62番宝寿寺へ行く道を案内し、句が添えてあります。
  旅う禮し太 ゝ 一寿じ尓法の道 ( 旅うれし ただ一筋に 法の道 )  


道標
茂兵衛道標や利平道標に従い250㍍ほど進んだ五差路に、道標が三基、まとめられています。
右の利平道標は、前札所の清楽寺への道を示しています。真ん中の小さな道標には、「右へんろ」と刻まれています。左は、香園寺、宝寿寺、横峰寺への道を示しています。


子安大師
・・大同年間(806-10)のある日、香園寺門前で身重の婦人が苦しんでいました。そこにやって来られた大師が、婦人の安産を願って加持祈祷をすると、有り難や、婦人は無事、元気な男子を出産することができたといいます。
子安大師の興り譚です。以来、香園寺は子安大師として知られ、大師が焚いた栴檀に因んで、山号を栴檀山と号するそうです。


子安大師堂
子安信仰の形態は多様です。
子安大師の他に、・・子安観音、子安地蔵、子安八幡、鬼子母神、子安神としての木花開耶姫、・・子安石、子安貝、乳授けの大銀杏の気根、張子の犬人形や赤い御幣(疱瘡除け)、・・帯祝い(多産の戌にあやかる)、お七夜、宮参り、お食い初め、初節句、節分豆まき(魔滅)、柊鰯(ひいらぎいわし)、七五三、十三詣り、・・などなど、
まさに鰯の頭も含め、さまざまです。


子安大師
かくも多様かつ広範に子安信仰が隆盛した背景には、乳幼児の高い死亡率がありました。例えば江戸時代には、生まれた子供達の20-25%が、満一才になるまでに死亡。10歳になるまでには、4割近くの子供が亡くなっていたとも言われます。
江戸時代の平均寿命は30-40才だったといわれますが、30-40才で亡くなる成人が多かったのではなく、乳幼児の死亡率の高さが、全体の平均寿命を押し下げていたのでした。それほど多くの子供が死んだということです。
その状況に歯止めが掛かるのは、ようやく戦後になってからでした。昭和22(1947)、乳幼児の死亡率が下がった結果、日本人男性の平均寿命が50才に達しました。以後、日本は、問題を積み残しながらも、急速に長寿化。今や世界有数の長寿国です。


子安大師
しかし日本は良くても、世界の多くの国や地域では今もなお、・・5.6秒に1人の小さな命が、5歳の誕生日を迎えられずに消えゆく・・といいます。(日本ユニセフ協会HPより)
  シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた
  シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた
  風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ


香園寺・大聖堂
この建物には本堂と大師堂が含まれ、大聖堂と呼ばれています。 昭和51(1976)の建設だそうです。
内部は、信は荘厳から、と言われるとおり、まさに荘厳です。


魔除け
小松で見かけた厄病・災難除けの札と粽(ちまき)です。戸口に吊されています。
札は、陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社の、魔除け呪符です。晴明神社の神紋である五芒星が描かれています。
厄除け粽は、祇園祭の山鉾巡行で先頭をゆく長刀鉾(なぎなた・ぼこ)と、二番目を進む函谷鉾(かんこ・ぼこ)のものです。「蘇民将来之子孫也」は、災厄をもたらす魔物に過越を命じる呪符です。魔物よ、この家は牛頭天王によって護られておる、立ち去れ! というわけです。牛頭天王は除災神で、京都・八坂神社(祇園社)が祀る素戔嗚尊の、本地ともされています。蘇民将来伝説については、機会を改めて記します。


62番宝寿寺一之宮へ
香園寺門前に道標が二基あり、そのうちの左は、武田徳右衛門道標です。
次の霊場への距離・・是より 一ノ宮迄 八丁・・が刻まれています。真念さんの「遍路道指南」でも八丁になっていますから、この道標は元から、ここに在ったと思われます。なお、道標左の道を写真奥に進むと、高鴨神社です。かつて香園寺は高鴨寺と称し、高鴨神社の別当寺でした。(次号参照)


中司茂兵衛道標 
四國第六十二番一之宮道を案内しています。
この道標は、中司茂兵衛道標です。「中務」ではなく、「中司」が使われています。
この使い分けについて、えひめの記憶は、いつ「中司」から「中務」に変わったかは、はっきりしない、としながら、次のように記しています。
・・喜代吉(榮徳)氏が紹介している茂兵衛の道標石220基を調べてみると、「中務」と刻しているものが184基、「中司」は24基、不明なものが12基あり、80%以上が「中務」である。


62番宝寿寺
・・一國一宮 別當 寶壽寺・・と寺名碑に大書されています。
「一国一宮」とは、天平の昔、聖武天皇が諸国に建てた神社で、その国で最高の格式をもつ神社をいいます。律令時代、任地に着任した国司の最初の仕事は、国司奉齋(任地の神々へのご挨拶)でしたが、そのとき、まず最初に詣でる神社が、一宮神社でした。


宝寿寺
「別当」は、この場合、別当寺の略で、神社の境内に在って、その神社を管理する寺をいいます。(その任に当たる僧を別当といいます)。宝寿寺は、一宮神社を管理する別当寺だったわけです。
神社が祀る祭神は、仏や菩薩が衆生救済のために、権(かり)に現れた姿=権現、であると考えられていました。祭神には、その本源たる本地仏が想定されていますから、寺から見れば神社も、寺の範疇の一でした。
とすれば、寺が寺を管理することに、なんの不都合がありましょう。そればかりか神社祭祀も仏式でおこなわれ、僧(社僧)が神前で読経するなどのことが見られたといいます。


道標
宝寿寺門前の道標です。
一番右が徳右衛門道標で、・・これより吉祥寺まで七丁・・とあります。「遍路道指南」の記述、・・(一之宮より)吉祥寺まで七町・・と合致します。その隣は、横峯寺、香園寺を案内する道標です。
円柱道標は、明治14年の利平道標で、香園寺、吉祥寺を案内しています。左端は、順 吉祥寺、逆 香園寺、と刻まれています。
これら道標は、記述内容から察して、宝寿寺移転の際(後述)、一之宮門前辺りから、こちらに移されたと思われます。


ダラスケ
小松駅前のお店に、「ダラスケ あります」と表示されていました。
石鎚土産といえばニッケですが、ダラスケ(陀羅尼助)も知られていました。腹痛などに効く漢方薬で、修行僧が長い陀羅尼経文をダラダラと読むとき、口に含んで、その苦みで睡魔を払ったことからついた名前といいます。入って見せてもらおうと思ったのでしたが、あいにく、お留守でした。


線路際の道標
予讃線敷地際に、文久4(1964)の利平道標が建っていました。予讃線・・当時の路線名は讃予線でしたが、・・敷設工事の時、線路を避けて、ここに設置したのでしょう。
予讃線開通は当地にとって、最優先の事項だったようです。大正10(1921)、当時は一之宮神社境内(予讃線の北側)に在った宝寿寺が、予讃線計画に障るとして、現在地(線路南側)に移されています。札所を移して、線路を通したわけです。
西条-壬生川間の開業は、その2年後の、大正12(1923)でした。


線路際の道標
右方向が63番吉祥寺です。右折するとすぐ国道11号にぶつかり、これを左折します。国道11号は、前述しましたが、元の讃岐街道です。
一之宮神社は、左方向に踏切を渡った、100㍍ほど先に在ります。


一国一之宮神社
創め一之宮神社(一国一社)は中山川河口付近の・・かつての河口は今よりも上流にあった・・白坪という処に創建されたといいます。天平宝字年間(757-65)のことだそうです。このとき合わせて、金剛宝寺が建立されています。後の宝寿寺です。
寺名が宝寿寺と変わったのは、大同年間(806-10)のことでした。その背景を伝える、男子誕生譚があります。
・・国司・越智氏の夫人が難産で苦しんでいましたが、大師が玉の井の水で加持したところ、無事、珠のような男子(おのこ)を出産することができた。・・という譚です。香園寺が伝える子安大師の興り譚と同様の(おそらく同根の)譚です。「宝壽」は、「宝珠」を含意するのでしょう。


鳥居
宝寿寺はその後、天正13(1585)、秀吉の四国攻めで焼け落ち、寛永13(1636)、今は一之宮神社となっている処(新屋敷)に移転して再興されます。
ところが、ここで不都合が生じました。一之宮神社は白坪に残されましたから、以後、巡拝者は、白坪の一之宮で納札し→宝寿寺(新屋敷)で納経→香園寺→横峰寺と、遠回りの巡拝を強いられることになります。


拝殿
一之宮神社が白坪から現在地に遷ったのは、万治年間(1658-61)でした。度重なる中山川の氾濫を避け、同時に、巡拝する遍路に便宜をはかるねらいがあったようです。
一之宮神社の移転先には、別当寺・宝寿寺が在りましたから、巡拝者は参拝と納経が一ヶ所で出来るようになり、ずいぶん「楽に」なったわけです。
その後、宝寿寺は前述のように、大正10年、予讃線をさけて現在地に遷りましたが、この時点ではすでに神仏は分離されており、巡拝に不便をきたすことはありませんでした。 


宝寿寺墓地
一之宮神社に「宝寿寺墓地」の石柱が立っていました。かつて、ここに宝寿寺が在ったことがわかります。
なお、宝寿寺跡の碑もあるそうですが、気づきませんでした。


靖国神社
境内社に靖国神社がありますが、その辺が、宝寿寺跡地になるそうです。


白坪
一之宮神社歴代宮司墓所の碑を写したつもりでしたが、その後ろに、より重要なものが写っていました。
「白坪基助墓」とあります。この白坪姓は、一之宮神社の故地・白坪に因む、白坪姓でしょう。


境内社
伊予国の一宮神社は、大三島の大山祇神社です。誰もがそう思っています。しかしまた、一宮神社を名乗る神社が他にあるのも、これまで見てきたとおり事実です。
では、宝寿寺が別当寺であったという「一之宮神社」とは、どんな神社だったのでしょうか。大山祇神社でしょうか、それとも他の神社でしょうか。


祭神
拝殿に祭神の御名が並んでいます。1番右には大山積之大神の御名が記されています。これは、一之宮神社が大山祇神社(大三島からの分社)であることの、有力な根拠です。それかあらぬか、四国八十八ヶ所霊場会HPの宝寿寺のページに、(この文責が今、どこにあるのかわかりませんが)次のような文があります。・・往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。


一之宮神社
しかし、では大国主之大神については、どう考えればいいのでしょうか。「空性法親王四国霊場御巡行記」(寛永15/1638の遍路記録)は一之宮神社を、・・「大国主の一の宮」・・と記しています。「大国主の一の宮」は、大山祇神社ではありません。
論証抜きに記せば、現在の一之宮神社は、大国主之大神を主祭神とする神社と、大山積之大神を主祭神とする大山祇神社との、合祀された姿なのかもしれません。
なお事代主之大神は、大国主之大神の子神として祀られているのだと思います。静岡の三島大社では、大山祇命に並んで積羽八重事代主神が祀られていますが、これは大山祇神社とは別の由緒に基づくものです。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
今号はやや短めですが、ここで切らせていただきます。
次号では、香園寺から横峰寺に上がり、車道を大保木(おおふき)へ降りてゆきます。できれば、極楽寺や黒瀬峠の光昌寺、加茂川沿いに下ったところの伊曽乃神社などについても、記したいと思います。
更新予定は3月6日です。

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2 コメント

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土を踏み 風に祈る。 それだけでいい。 (天恢)
2019-02-08 18:35:05
 今年も早いもので、梅の香ただよう春近しで、もうすぐ本格的な春を迎えます。 
 さて、今回の遍路の「清楽寺~一之宮神社」ですが、人口1万人ほどの旧・周桑郡小松町には三つの札所があります。 その中で香園寺と宝寿寺の二つの札所はあまりに対照的な札所なので、その思いを巡らせながら楽しく道中記を読ませていただきました。 
 先ずは61番香園寺ですが、大聖堂と呼ばれ巨大なビルのような建物に、「こんな札所もあるのか?」と、お遍路さんもビックリです。 さらに大聖堂の真ん中に、黄金色の輝きを放つ光々しい大きい大日如来が鎮座しており、その荘厳さに圧倒されます。 次に62番宝寿寺ですが、これまで二度ほどお参りしました。 気になったのは古びた旧本堂が傾きかけて、立ち入り禁止の状態でした。 「あまりに対照的な札所」と書いたのは、二つの札所が「金持寺」と「貧乏寺」を如実に物語っていたからです。
  断っておきますが、「金持寺」とか「貧乏寺」などの表現は見た目だけで、大事なことは日ごろの宗教活動の中身が問題なのです。 四国88ヵ所遍路は、お遍路さんの多くは88ヵ所すべての札所を巡礼します。 この札所は気に食わないのでパスするなど考えられません。 檀家数や一般参拝者の差はあっても、少なくとも納経料の安定収入は全札所公平のはずです。 それがどうして一方は荘厳な大聖堂で、他方はお堂の修理代もままならぬほどの格差が広がるのでしょうか?
その一つの答えがブログにありました。 『 ・・・シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた 風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ 』 、野口雨情の「シャボン玉」ですが、生後間もなく亡くなった娘さんへの雨情の切ない想いが込められているとの解釈もあるようです。 さらに『かくも多様かつ広範に子安信仰が隆盛した背景には、乳幼児の高い死亡率がありました。・・・』 香園寺境内の一隅にある子安大師堂。 この粗末な?堂内にゴザを背負い、微笑みをたえ、左手で赤ん坊を抱いた子安大師像がありますが、ご本尊の大日如来より多くの信仰が集まっているとか。 これは香園寺ご住職が国内外を行脚して「子安講」を広め、全国規模で広く信仰を集めた結果が荘厳な大聖堂建造につながったとのことです。

 さてさて、今回のタイトル『土を踏み 風に祈る。 それだけでいい。』は歌詞ではありません。 朝日新聞のコラム「天声人語」を長きにわたって執筆された辰濃和男著の「歩き遍路」のサブタイトルです。 その辰濃さんが87歳で、2017年12月6日に亡くなられていたことをごく最近知りました。 その死去を報じる朝日新聞の紙面は小さく、それも1週間後の38面に、簡単な業績紹介と葬儀は11日に近親者で営んだとありました。
 天恢にとっての辰濃さんは、遍路に行く前から、行った後も常に著書の『四国遍路』」(岩波新書)を遍路手引書としていつも傍らにあり、心の拠り所でした。 広く深い知識を持ったジャーナリストの視点で、「人はなぜ四国を歩くのだろうか?」 というお遍路の本質を指し示してくれました。 遍路を志す方、遍路された方も未読ならばお勧めしたい一冊です。
 辰濃和男さんのご逝去を悼み、次回も同タイトルでコメントさせていただくことにします。 終わりに
『歩き遍路』(海竜社)の最終章⑥結願にある 『四国を回りながら、ときどき、死を間近にした自分が、山道で倒れ、そのまま死んでゆく姿をふと想像することがあった。・・・・・死後のことについていえば、たとえば20年後30年後、たった一人でもいい。一人の未来人が私の書いたものを読んでくれて、万一なにがしかの感想を日記にでも書いてくれれば、これに優る歓びがあるだろうか。』 を結びの言葉とします。
♫ The answer is blowin' in the wind.  (楽しく遍路)
2019-02-10 11:56:36
平成29年12月6日、
辰濃和男さん逝く  87才。

平成29年12月16日
早坂 暁さん逝く  88才。

相次いで大切な方を亡くしていたのですね。知りませんでした。
私たちがそうであるように未来人達もまた、「遍路」なるものに理会したいと思うとき、お二人が残された作品群を指標とし、模索することでしょう。
ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

・・土を踏み 風に祈る。 それだけでいい。
読みながら、なぜかふと、ボブディランが頭をよぎりました。
♫ The answer is blowin' in the wind. 
だから、それだけでいい、のかもしれません。

「金持寺」と「貧乏寺」については、いましばらく考えさせてください。

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