楽しく遍路

四国遍路のアルバム

井の岬巡り 松山寺跡 朝鮮国女墓  四万十川 幡多国一宮神社

2018-04-05 | 四国遍路

 
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高知駅の「歓鯨」
申し訳ありません。今回も「古い遍路アルバム」からのリライト版をご覧いただきます。
私の遍路は昨秋以降、なかなか、実現の運びとなっておりません。もう少し待つ必要があるみたいです。・・待てば海路の日和あり、・・とか。きっと遍路の日和もあってほしいと、願っております。


土佐佐賀内港
平成22(2010)秋、土佐佐賀から宿毛まで、大月経由で歩きました。
その時の記録から、「新しい遍路アルバム」で未だ触れていない箇所を取り出し、掲載してみました。


佐賀の街 鹿島が浦
よろしければ「新しいアルバム」の( H27秋3 H27秋4 ) と併せて、ご覧ください。

  井の岬巡りから松山寺跡へ


井の岬へ
井の岬の遍路道は、一般的には国道56号をゆきますが、今回私は、岬廻りの道を選びました。少々遠回りになりますが、松山寺跡を訪ねてみたかったからです。56号からも行けますが、どうせなら海沿い道の景色を楽しみたい、と考えました。


井の岬 
井の岬の西灘地区です。岬の付け根にあります。


剱神社
西灘の剱(つるぎ)神社。
簡素な社殿が静謐を保っていました。集落の方たちが守っておられるのでしょう。祭神は、社名からは素戔烏尊などが考えられますが、わかりませんでした。



西灘を過ぎると、反対側の付け根にある伊田集落まで、民家はありません。狭い土地が畑に利用されています。


トンネル
トンネルの向こうにも、小さな畑がありました。


照葉樹
山側に、照葉樹が自生する道です。


小祠
段の間隔が、まことに使い勝手のいいものになっています。


ゴミ袋
道端にビニール袋が、風で飛ばないように石で止めて、置いてあります。
・・ゴミが落ちていたら、拾ってこれに入れておいて、少したまったら持って帰るんよ、・・散歩の人が、そう話してくれました。


足摺岬
安芸の大山岬から見た足摺は豆粒ほどで、前途遼遠たるものを感じていたのでしたが、近づいてきました。大きく見えてきました。

井の岬標識
江戸時代、佐賀で捕鯨が行われていた頃、井の岬に遠見所が置かれていたそうです。
水平線が丸みを帯びています。さもありなんと思わせる、海の広がりです。なお、太平洋戦争中は、軍の監視所があったとのこと。米軍の土佐湾への上陸が、想定されていました。


井の岬
岬を廻ってきました。
やがて井の岬温泉(閉館)の建物が見えてきて、56号に通じる道との合流点に出ます。松山寺跡への登り口が、そこにあります。

  松山寺跡


松山寺跡登り口
説明看板によると、清岸山来光院松山寺と号する真言の寺がありました。高い社格の寺だったと言います。本尊は釈迦如来、地蔵菩薩。空海の開基と伝わるそうです。
明治の廃仏毀釈政策で廃寺とされ、今は歴代住職の墓石などが残るのみです。



登り道の左右に、今は雑木が密生していますが、堂宇が建っていたと思われる平らな土地がありました。
堂宇は寺山の西面に建っており、その夕映える姿は美しかったと言います。


跡地
・・明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝は優に3倍はあったろう。・・廃仏毀釈による仏教破壊の凄まじさを伝える、梅原猛さんの言葉です。
廃仏運動に功罪があるとして、もし功を挙げるなら、これにより日本仏教は、ようやく近代化への覚醒の機を得た、ということでしょうか。それにしても大きな損失であり、犠牲でした。

白浜辺りの磯
四国遍礼名所図会に、こんな記述があります。
・・白浜村(磯辺にて支度)、松山坂(佐賀より麓迄二里、内一里磯辺坂ニ右へ上ル) 峠ニ休足。足摺の御崎見ゆる。
かつて遍路は、山道で行き詰まれば、海に降りるほかありませんでした。もちろん、今のように海沿いの道があるわけではありませんから、引き潮時をねらって磯を歩き、ふたたび山に上がる道を模索しました。
白浜は、今は民宿さえ建っていますが、かつては磯歩きを強いられた所だったようです。


白浜で身支度をし、磯歩きを一里。そこから右上へ、松山坂が始まったことが記されています。
松山坂は中村街道(土佐西街道)の、この辺での呼び名で、松山寺に因んだ名前だったのでしょう。松山寺坂だったかもしれません。



かつての中村街道は、国道56号に寸断されたり塗りつぶされたりして、とりわけこの辺では、その姿をとどめていません。
聞いた話では、井の岬トンネルの北に、一部、その痕跡を残す所があるそうですが、その両端が塞がっているため、容易に確認することは出来ないようです。実は、私も探してみたことがあるのですが、結局は地道を歩いて終わりました。


被爆地の碑
大略次のような碑文が添えられています。
昭和20(1945)7.22、夜、23:40、空襲警報発令。B29が大挙来襲し、当所を中心に爆弾を投下した。
ここには上川口国民学校があり、本土決戦に備えて部隊が配備されていたが、宿営中の78名、負傷者搬送中の15名、住民2名が、爆撃により戦死・死亡した。



  朝鮮国女の墓



上川口の、国道56号から200メートル北に、「朝鮮国女の墓」があります。文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)で、朝鮮国から連れ来られた女性の墓です。



女性は朝鮮国の進んだ機織り技術を近郷近在に広め、土地の人々に慕われつつ亡くなったそうです。
そのやるかたなき望郷の念を思い、連れ帰った人の四代の孫が墓を建立。子孫が今も護っています。



当初は、建立者の家の菩提寺に建てられていましたが、寺が廃寺となったため、建立者家の墓と共に、現在地に移されました。


線路下
写真は、お墓への途中にある、くろしお鉄道線路下、お年寄りのための常設集会所です。ここで奇遇とも言える出会いがありました。
たまたま出会って立ち話をすることになった若者に、前回、この集会所で会ったお婆さんの話をしました。・・どこから嫁に来て、いくつでご主人を亡くし、一人で何人の子を育て、・・
そんな話をしていると若者が、・・それウチのバアチャン!今、ウチにいるから、会ってやって!・・若者はお婆さんの孫なのでした。
会いに行ったのは、言うまでもありません。お婆さんは、もう忘れているようでしたが、とても喜んでくださいました。孫を介してなのが、また嬉しかったようです。

 四万十川から


四万十川の朝
四万十川沿いの宿に泊まりました。


四万十川
堤防沿いの道を歩きます。


大師堂
女性がお堂の掃除をしていました。近所にお住まいの方です。これが1日の始まり、と彼女は言います。
気持ちのいい朝でした。


四万十川
四万十川は’下田の渡し’で渡りたかったのですが、残念ながら運休となっていました。最近の台風で川底の様子が変わり、安全運航が確保できないため、とのことでした。


四万十大橋
そこで四万十大橋を渡ります。
四万十川にはアカメ(赤目)という巨魚が棲んでいるそうです。マンガ「釣りキチ三平」で一躍有名になりました。成魚の魚体は1メートル30センチにもなるといいます。


赤目
これがアカメです。フラッシュ撮影したとき毛細血管が写って「赤目」になることがありますが、四万十の怪魚「アカメ」は、フラッシュ無しでも赤いのだそうです。



昔は、アカメに追われたボラの大群が、四万十川を跳ね回っていたといいます。写真は鮎でしょう。


四万十川
橋を渡り、伊豆田坂を目指しますが、その前に幡多の国・一宮神社に寄ります。

  幡多の国・一宮神社へ


標識
川を渡り、国道321号で四万十川右岸を下ります。
この国道は、以布利から足摺岬を横断。土佐清水から竜串。大月を経て宿毛に出ます。足摺宇和国立公園を巡るには便利な道で、321=サニーロードの愛称を持っています。


大樹と子供たち
下手な写真ですが、大好きな写真なのです。


大文字
幡多国を築き、小京都中村の繁栄をもたらした一条氏の二代目・房家が、祖父兼良、父教房を供養して始めたと伝わります。現在も旧盆の16日には、間崎地区の人々の手で焚かれるといいます。


景色
応仁2(1468)、幡多荘の領主、関白一条教房は、在地領主として幡多に下向。自領の直接経営を始めました。都の戦乱を嫌がったから、とも言われていますが、とまれ、ここに「幡多国」は始まりました。長宗我部元親に滅ぼされるまで続きます。


四万十川河口辺
幡多国は、「土佐国の幡多地方」ではなく、土佐国とは文化的にも経済的にも一線を画した「国」でした。大まかには、宿毛と中村を結ぶライン以南に存在していました。
土佐国の一宮神社は30番善楽寺の所にあり、幡多国の一宮は、四万十川河口、初崎にあります。


津蔵渕水門
四万十川支流・津蔵渕川の水門です。津波逆流を防止するため設けられています。


一宮神社鳥居
一宮神社への接近を試みますが、四万十川の支流に阻まれます。鳥居が見えてはいるのですが・・。
下田の渡しを使うことが出来れば、船は初崎に着きますから、もっと簡単にアクセスできたでしょう。


一宮神社
主祭神は阿遅鉏高彦根命(あじすきたかひこね命)。農耕神と考えられています。「すき」は「鋤」かもしれません。
合祭神として祀られる三姤神(椎名御前、徳益御前、鉾名御前)は、対岸にある不破八幡宮の秋季例大祭で催される占い神事、「神さまの結婚式」の結婚相手となっています。


一宮神社奥殿
不破八幡宮の男神が、椎名御前を選ぶと、椎名御前にはビス(頭のはげ)があるので、今年は雨がよく降ります。ビスを隠すため、椎名御前が雨を降らせるのです。徳益御前が選ばれると、(得が増しますから)今年は豊年。鉾名御前なら、(鉾は武器ですから)喧嘩が多い年になると言われています。


不破八幡
不破八幡宮は、土佐一条氏の初代・教房が石清水八幡宮から勧請した、幡多の総鎮守です。
総鎮守と一宮が結婚で結ばれるという神事は、一説には、略奪婚への戒めだったとも言います。


七星剣
一宮神社が伝える七星剣(レプリカ)。中村城の郷土博物館所蔵。
北斗七星が銀象嵌されています。材質分析の結果、5C、朝鮮半島で作られたものとされ、四天王寺、東大寺、法隆寺、正倉院が伝える七星剣に次ぐ、貴重な品といいます。



ご覧いただきまして、ありがとうございました。
できれば伊豆田坂越えまで載せたかったのですが、長すぎてしまいそうです。別の機会に回したいと思います。
次回更新は、5月2日を予定します。内容は未定です。

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♪今日も暮れ行く 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ~ (天恢)
2018-04-18 18:44:22
 厳寒の冬だったのに、春の訪れは早くて、満開のサクラをゆっくり楽しむ間もなく散ってしまいました。 今回も「古い遍路アルバム」からのリライト版ということで、平成27年秋に歩かれた 「井の岬巡り~幡多国一宮神社」の道中記を楽しく読ませていただきました。 どうやら「楽しく遍路」さんも春遍路へ出掛けられたようで、いずれ新シリーズでの掲載を期待することにしましょう。

 さて、今回の舞台は足摺岬と四万十川を擁する幡多(はた)地区ですが、戦国時代に京より下向した一条氏が中村を本拠とし、京都を模した街作りが行われたことから「土佐の小京都」とも呼ばれています。 四国の辺境にありながら独特の文化が栄えたこの地にはどこか人を惹きつける魅力があります。 天恢も四国遍路2巡目が終って、もう3巡することはとっくに諦めておりますが、ここ最近の5年間のうち4回は幡多地区を歩いています。

 さてさて、タイトルの「♪今日も暮れ行く 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ~ 」ですが、昭和23年、ビクターレコードから発売された『異国の丘』です。 シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われていたそうで、非常に強い望郷の思いを歌っています。 戦後間もない頃の内地も、外地も辛い、厳しい時代のことで、「♪我慢だ待ってろ. 嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる 春がくる~」と続きます。

 戦争という悲惨な思い出は忘れてしまいたいのですが、今回のブログにも戦争の傷跡が紹介されています。 一つは遍路道沿いにある黒潮町の上川口小学校にある「被爆地の碑」で、昭和20年7月22日のB29による爆撃で100名近い兵隊さん、地元の方の戦死、死亡を伝える碑です。 
 もう一つは、同じ上川口にある「朝鮮国女の墓」で、これも秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役、壬辰・丁酉倭乱)ですから彼女も戦争被害者です。その『女性は朝鮮国の進んだ機織り技術を近郷近在に広め、土地の人々に慕われつつ亡くなったそうです。』とあります。 読んでいて、これって「拉致」ですよね? 歴史書に、「文禄・慶長の役で倭軍は引き上げるに際して5~6万の朝鮮人を捕虜として連行 した」とありますが、その中には優れた陶工や彼女のような技術者が含まれていたことは事実です。 「拉致」は許されるべきものではありません。 本人から家族を、人生を奪い去り、『そのやるかたなき望郷の念』を踏みにじり、『他国で死ぬ身の辛さ』を嘗めさせることにあります。

 今、日本では北朝鮮による「拉致事件」をことさら大々的に取り上げて、核やミサイルの脅威を煽り立て、憲法改正を急ごうとしています。 三四半世紀を生きる身としては、戦後間もない頃の混乱と貧困に窮した時代を忘れることはできません。 近隣諸国への侵攻・侵略によって、国内外問わず多大な被害と犠牲を強いたあの戦争で、どれほどの尊い命が失われたことか? その反省に基づいて、日本は恒久平和を願い、不戦を誓っての再出発ではなかったのか? 憤まんやるかたない思いです。
♫我慢 黙ってろ 嵐が過ぎりゃ (楽しく遍路)
2018-04-20 11:12:44
今春の遍路も見送りかと思い、リライト版の土佐シリーズを始めたのでしたが、うれしや、ありがたや、ようやく伊予路を歩くことが出来ました。もはや春というより初夏のような遍路で、すっかり日焼けして帰宅しました。
そこで早速にも伊予路シリーズを始めたいところではありますが、しかしリライト版とはいえ、土佐シリーズは始めたばかりです。次号はこれを継続し、伊予路シリーズは、次々号あたりから、とさせていただきます。

さて、♪我慢だ待ってろ. 嵐が過ぎりゃ・・ ですが、私は長らく、♪我慢 黙ってろ 嵐が過ぎりゃ、だと思っていました。ブツクサ文句を言わず、じっと我慢の口を閉じていろ、そうすれば、いつかは嵐も過ぎて、・・というわけです。
しかし黙っていてはいけないのです。私もまた、憤まんやるかたない思いでいます。

集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法が可決した日(2015/9/19)、北さんからメールが届きました。(北さんは一巡目をすべて共に歩いた、私の友人です)。
曰く、・・今日よりは、もはや戦後ではない、戦前である。
以来3年、戦前的状況が深化しています。
なお、「もはや戦後ではない」は、1956年版経済白書の中の文言として知られています。

「朝鮮国女の墓」について、補足、ありがとうございます。
・・歴史書に、「文禄・慶長の役で倭軍は引き上げるに際して5~6万の朝鮮人を捕虜として連行 した」とあります・・
あるいは「朝鮮国女墓」は一人の墓ではなく、「朝鮮国女たちの墓」だったかもしれない、私はそんな可能性を考えています。

・・その中には優れた陶工や彼女のような技術者が含まれていたことは事実です。
私たちが、古来、いかに多くのことを朝鮮半島から学んできたか、改めて想起したいと思います。そのことを最初に、私に気づかせてくれたのは、金達寿さんの「日本の中の朝鮮文化」という本でした。もしまだお読みでなかったら、ぜひお薦めします。

「異国の丘」に果てるほかなかった彼女(たち)。同じ悲劇が、今、北朝鮮にいる拉致被害者の方々に起きませんよう、帰る日が来ることを、強く強く願います。

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