楽しく遍路

四国遍路のアルバム

民宿おおひら 琴弾八幡 68番観音寺 69番神恵院 70番本山寺 71番弥谷寺

2022-06-29 | 四国遍路

 
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 三日目(平成19年1月25日)

出発
67番大興寺側の「民宿おおひら」さんを発ち、まずは68番69番を目指します。出来れば今日中に、71番弥谷寺くらいまでは行きたいのですが、どうでしょうか。昨日の歩きは14キロほどでしかありませんんでしたが、膝の症状は、少し悪い方に進んでいるようです。
とはいえ同宿の和歌山さんは、アキレス腱手術の跡が擦れて痛むにもかかわらず、早発ちしたそうです。と聞けば、私も頑張らなければ・・。


道標  
和歌山さんは昨晩の夕食時、私を大いに喜ばせる、こんな話をしてくれました。
・・脚は痛いんですけど、遍路はとても楽しいのです。私は虫が好きで、歩きながら虫がいると、(と言ってポケットから虫眼鏡を取り出し)これで虫観察をするんです。「昆虫」観察ではなく「虫」観察なのは、例えばミミズなども観察対象に含まれるからです。


道標 
それを見て、私が喜んだのは、言うまでもありません。私もおもむろに自分の鞄を開け、そこから虫眼鏡を取り出したものでした。私は(前号に記した巻き尺の他に)虫眼鏡も持ち歩いていたのです。私の観察対象は、(虫の時もありますが)苔であったり、土佐備長炭であったり、指に刺さったトゲであったりもして、和歌山さんとは異なるのですが、しかし、共に虫眼鏡の携帯者であることの喜びは大きく、大いに意気投合したのでした。


集落へ
遍路道が集落に入り込むとき、必ずと言っていいくらい思い出す、地元の方の話があります。
・・私らは今でも、隣の集落に入るときには、おじゃまします、通してください、といった気持ちで入って行きます。顔見知りとはいえ、他人様の土地に入るのですからね、勝手気ままには歩けません。


地蔵さん  
考えさせられるお話でした。他人様の土地を歩かせてもらっていることを、はたして私は(私たち遍路は)、きちんと意識して歩いているでしょうか。そこに住む人たちのお気持ちを慮ることなく、ズカズカと入り込んではいないでしょうか。
あのお話を私は、・・心して歩けとの忠言・・と聞きました。


大平正芳記念館
元総理の大平正芳さんは、この近く、三豊郡和田村(現観音寺市)の出身です。この辺は大平姓が多いのです。そう言えば、民宿も「おおひら」でした。
「アーウー」とか「暗闇牛」とか云われた政治家で、同じ香川県の社会党の論客・成田知巳さんとは、対照的でした。
なお大平正芳記念館は、今は引っ越して、琴弾公園の世界のコイン館に同居しています。


工夫
農業と全く無縁に過ごしてきた私には、農家のこんな工夫も新鮮でした。


仁池
溜め池の名前を地図で調べていると、歩き遍路が追いついてきました。お名前は後に分かりましたが、渋谷さんです。
彼は立ち止まり、昨日、三島から雲辺寺まで歩いたことや、「青空」(前号)に泊まったことを話してくれました。そこで私たちの「青空」通過(昨日)が13:00頃だったことを告げると、・・さすがにその時刻には未だ歩いていて、宿に着いたのは16:00すぎだった、・・とのことでした。それにしても、すごい健脚です。私たちの二日分の行程でしょうか。


酒屋
道路脇の空き地でミカン箱をお借りし休んでいると、休憩所で休んでいた渋谷さんが追いついてきました。彼はまた立ち止まり、私たちに加わりました。聞けば、「久しぶりの人との会話がうれしい」とのことでした。
どちらかといえば過去を見ながら歩いている私たちとは違い、彼はこの遍路を、将来に向けての「試練」と設定しているようでした。いわば遍路に「挑んでいた」といえましょうか。そんな彼にとって、私たちと過ごした時間がよき息休めの時になっていたとするなら、それは私たちにとっても、悦ばしいことでした。



そこへ女性遍路がやってきました。雲辺寺で見かけた方でしたが、ここに来て、同郷・埼玉の毛呂山さんとわかりました。
四人での話になりました。毛呂山さんの唐揚げをご馳走になりながらの話は、なんと50分に及んでいます。
誰もがそれぞれの理由で、話すことを欲していたのでしょう。私の理由が、膝を休めたいという姑息な理由であったのは、いうまでもありませんが。 


マンホール
いくらなんでももう歩かないと、ということになり、納札を交換。写真を撮りあって出発しました。ただし、渋谷さんはカメラを持っていませんでした。おそらくカメラは、彼の遍路目的には不要なのです。
なお、この後のことですが、渋谷さんとは、ある経緯で(後述)、今晩は同宿になります。毛呂山さんとは弥谷寺で再会し、埼玉に帰ってからも、お会いする機会がありました。(この集まりにはもう一人、埼玉の遍路が加わるのですが、そのことは、また後に記します)。


財田川
財田川(さいた川)です。その名は財田川事件で知っていましたが、ここを流れているとは、知りませんでした。
財田川事件は、昭和25年(1950)、旧財田村で起きた殺人事件ですが、むしろ冤罪事件として、全国に知られました。被告は死刑判決を受けていましたが、昭和59年(1984)、ようやく無罪判決を得ることができます。
なお、この時期に起きた冤罪事件には、免田事件(昭和23→60無罪)、徳島ラジオ商殺人事件(昭和28→60無罪・但し死後判決)などがあります。


琴弾神社
財田川を渡ると、かつての68番札所・琴弾(ことひき)八幡です。
札所の変遷や「琴弾」の名の由来などについては、→(R1初夏6)→(R1初冬1)で触れていますので、よろしければご覧くだ1さい。


狛犬
北さんが、「この文化圏なんだなあ」とつぶやきました。
四国の瀬戸内海沿岸も、備前焼の文化圏に入るのだなあ、というような意味でしょう。石鎚神社でも備前焼の狛犬を見たことから、そんな感想を持ったようです。


石段
長い石段です。300段ほどまでは数えましたが、あとは分からなくなりました。帰宅後調べてみると、381段なのだそうです。
私は途中、左膝に違和感を感じ始めていました。階段は膝に悪いのです。


鳥居
源義経が寄進したという木の鳥居です。屋島の戦いでの戦勝祈願でしょうか。古いので覆い屋がついています。
この地点は未だ石段の半ば辺り。まだまだ登ります。琴弾山は標高58.3㍍で、琴弾八幡神社は琴弾山の一番高いところに在ります。


伊吹島
展望所からの景色です。伊吹島=イリコの島が見えています。→(H25初夏4)
展望所で、一人の女性遍路に出会いました。「どちらから?」と尋ねると、「埼玉から」との答です。
ピンとくるものがあり、「あなたは浦和さんですか?」と尋ねると、「ど、どうしてですか」と、名前を知られていることに驚かれました。
そこで種明かし。「実は昨日、毛呂山さんから、この辺を同じ埼玉の浦和さんが歩かれている、と教わっていたのです。私も埼玉です」


観音寺港
浦和さんはたちまち打ち解けてくれて、いろいろの話をしてくれました。なかでも、札所番号が80に達した(国分寺)辺りから、やがて遍路旅が終わることへの、さみしさのようなものを感じるようになったという話は、私たちも同じようなことを感じていたので、興味深く聞かせてもらいました。
別れ際、埼玉でぱったり出会ったら、お茶でも飲みましょう、と話し合いましたが、残念ながら浦和さんとは、未だ会えていません。


寛永通宝
白砂青松の有明浜の、砂に描いた寛永通宝。
斜め上方から見て円形に見えるようにするには、横罫を縦罫よりも長くとらなければなりません。横罫122㍍、縦罫90㍍だそうです。周囲は345㍍とのこと。大きいです。
高松藩の若き藩主・生駒高俊公を慰める目的で、造られたと言われています。高俊公は、後に御家騒動(生駒騒動)に巻き込まれ、出羽に流罪となります。結果、生駒高松藩は天領となり、その後、ご存知・水戸黄門様の兄・松平頼重が常陸下館藩から入封。松平氏高松藩が始まります。


68・69番霊場
二札所が、山門を同じくしています。
明治の神仏分離で、68番札所であった琴弾八幡が札所からはずされることになり、琴弾八幡宮の本地堂に祀られていた八幡大菩薩の本地仏・阿弥陀如来は、琴弾八幡神社の別当寺であった、69番観音寺の西金堂(さいこんどう)に遷されました。これをご本尊として誕生したのが、新68番札所・神恵院です。


お杖
自分たちの杖がどれくらい短くなっているか、お店の杖と比較してみました。握りに袋が被さっているのが、北さんのお杖です。
常時携帯の巻き尺で測ってみると、未使用の杖は130センチ、北さんのものは110センチほどでした。20センチほど減ったわけです。因みに、北さんと私の杖は、北さんの方が私より、3センチ短くなっていました。北さんによれば、この差は、「大師に恃む心」の差だと言います。北さんの方が、深く大師に帰依していると、言いたいのでしょう。



大師に恃む心の弱さ故か、私に大ブレーキがかかりました。何回も休みはじめたのです。休むと歩き始めが痛いので、これまでは極力休まずに来たのですが、今回の痛みは、それでも休まなければならないほどの痛みだったのです。
どこかで大休止しなければなりませんが、北さんと相談し、本山寺まで頑張ることにしました。もう本山寺の五重塔が見えています。


予讃線
予讃線をくぐります。この下り坂は、痛かった。


本山寺
ようやく着きました。70番札所・本山寺です。
本堂は、国宝です。弘法大師が一夜にして建てたという「一夜建立」の伝説があります。この伝説に因む観音霊場・砥石観音については、→(R1初夏6)をどうぞ。


五重塔
納経所に向かおうとすると、同宿だった和歌山さんがいました。ここに泊まって、明朝、一時帰宅するのだと言います。まだ早い時間なので宿が開いておらず、ここで開くのを待っているのだとか。やはり脚の調子がよくないようです。
時間をもてあましている和歌山さんと、大休止したい私に、やはり閑らしいお寺の方が加わり、(北さんは仕方なく加わって)、またまた取り留めもない話が始まったのでした。話はお寺の方が主導したらしく、メモには「本山寺の歴史など。ガイドブックの域を出ない」と、生意気に記しています。


国道11号
ゆっくりと歩きはじめました。のんびりと休憩したのがよかったのでしょう。歩き始めの膝は、だいぶ楽になっていました。
歩けなくなったら、タクシーで和歌山さんがいる宿にもどればいい、そんなつもりで歩けばいい・・とは、北さんの有り難い助言です。


スーパー
年配の女性から、ジュースのお接待をいただきました。私が埼玉からだと言うと、「娘が埼玉の入間郡に住んでいたんです。何回も荷物を送ったので、覚えているんですよ」と、ちょっと恥ずかしそうな表情で、話してくれました。「実家からの荷物は、うれしいものですよ」と応じると、「そうでしょうか」と、うれしそうでした。
それにしても、今日は「埼玉の日」です。


笠田小学校
やはり歩くのがきつくなりました。頑張れなくもありませんが、宿着が遅くなるでしょう。タクシーで移動することとし、笠田小学校の一隅をお借りし、宿に電話しました。
ところが、最初の一軒は、現在休業中。和歌山さんが泊まっているはずの宿は、今日は休業とのこと。もう一軒は満室。近くのビジネスも満員でした。和歌山さんは、どうしたのでしょう。


タクシーへ
仕方なく、弥谷寺近くの「弥谷ふれあい温泉パークみの」をとりました。高瀬の宿をとらなかった理由は二つです。一つは「温泉」の名につられたこと。もう一つは、今朝知り合った渋谷さんと毛呂山さんが、「みの」泊まっていること。
タクシーは、すぐ呼ぶことが出来ました。明朝、またタクシーで、この写真の地点まで引き返して歩きます。


弥谷ふれあい温泉パークみの
ばったり、ロビーで渋谷さんに会うことが出来ました。
彼はとても驚いて、開口一番、「ずいぶん頑張りましたネ」と褒めてくれました。もちろん正直に、「実はタクシーで」と話すと、「では頑張りませんでしたネ」とのこと。明日、引き返して歩くつもりと話したら、「あゝ、それなら許される範囲内ですネ」とのこと。
なお毛呂山さんは、渋谷さんによると、観音寺で道を間違えたので、観音寺で連泊するとのことでした。連絡をもらったとのことでした。

  四日目(平成19年1月30)


朝食を渋谷さんと一緒にとり、そこで別れました。よい結願を!とエールを交換し合いました。
私たちは、タクシーで引き返します。ドライバーは先達さんだそうで、車中、いろいろ話してくれました。
なかでも、国道11号から県道221号に入るポイントを教わったのは、助かりました。
歩き始めの膝は、温泉の効果か、とりあえずは快調です。


麦畑
農家の友人から聞いた話です。
・・子供にも出来る畑仕事の代表が麦踏みで、子供は皆、喜んでやったものだったが、今は子供もいないし、いても、やりたがらないだろうしね。
・・知ってる?そこで子供の代わりに、麦踏みローラーってのが、発明されてるんだ。人力でローラーを引いたり、機械で引いたりするんだが、頭いいよな。


景色
遍路道から左方向の景色です。七宝連山の北端部ではないかと思います。
 

蝋梅
ろう梅が咲いていました。


子供SOS
子供と話していて嬉しかったことのひとつに、土地の子の多くが、「を」(wo)の音を引き継いでいることがありました。唇を(口笛を吹くように)丸めて発する「ゥオ」という音で、日本では、とりわけ東日本では、ほとんど失われている音です。
この音が残っているのだから、やっぱり四国はウレシイ。


弥谷寺門前
ちょっとスキップして、71番弥谷寺まで来ました。この間の道中でのことども、これからの弥谷寺境内でのことなどについては、→(R1初冬5)→(R1初夏6)を、ご覧ください。
階段上に見える「俳句茶屋」で荷物を預かってもらい、まずはお参りします。ご主人によると石段の段数は、計540段とのこと。膝には注意して登らねばなりません。


山門
仁王門から法雲橋までの参道は賽の河原を通る道と擬せられています。すなわち法雲端は、灌頂川(三途の川)に架かる橋なわけです。


香川氏歴代の墓
香川氏歴代の墓がありました。香川氏は、香川県の名の興りとなった一族です。弥谷寺から登った所にあった天霧城を居城としていましたが、秀吉の「四国攻め」で滅亡しました。
墓は、これより上方100㍍、本堂西の「西院」旧跡に埋もれて在ったものを、昭和59年(1984)、現在地に移したのだと言います。おそらく北さんは、少なくとも西院跡までは登ってみたかったでしょうが、黙っていてくれました。私の膝を心配してのことです。


比丘尼谷
大師堂辺りから本堂にかけての空間は比丘尼谷(びくに谷)とかお墓谷とよばれるそうです。
岩壁上部の弥陀三尊像の作者、作年はわかっていませんが、比丘尼谷に籠もる霊を慰めんと彫られたのは、間違いないでしょう。


磨崖仏
弥谷寺には、「弥谷参り」という風習が、古くからあったと言います。あるいは「弥谷参り」が、弥谷寺の興りとも言われます。
死者が出ると、その家の家人は死者の霊を背負って弥谷山に入り、霊が「里心」をおこさぬよう、注意しながら、帰るのだそうです。霊とは、具体的には遺髪、生前の着衣で、これらを岸壁の納骨穴に納めたと言います。
仁王門前の俳句茶屋は、かつては、「弥谷参り」の一行が帰途、精進落としをするために上がった、茶店だったといわれています。そのための食器や足付き膳が多数残っていると、ご主人からききました。


本堂
お参りしていると、女性遍路がやって来ました。道に迷って観音寺に連泊した、毛呂山さんでした。観音寺からトップスピードで歩いてきました、とのこと。
その他、昨日からの顛末の一部始終を聞きました。毛呂山さんも、誰かに話さないではいられなかったようでした。その後、一緒にお参りすることとし、大師堂に向かいました。



本堂近くからの景色です。旧三野町(現三豊市)を見下ろすことができます。
手前から二番目の山が火上山で、その山裾を巻くように、薄く写っているのが高松自動車道です。


大師堂
大師堂の入口です。弘法大師が真魚の頃、修行したという「獅子の岩窟」が大師堂になっています。
靴を脱いで上がり、正座して読経しました。
さて、帰ろうとすると、毛呂山さんからご注意をいただきました。「帰る時は、振り返っちゃいけないよ」と言うのです。霊界に引き込まれるかもしれないからね。霊がついてくるかもしれないし。むろん「弥谷参り」を踏まえたご注意です。


茶屋
俳句茶屋に帰り、「あめゆ」や甘茶で精進落とし?をしました。ご主人によれば、三代受け継いだ味だとか。美味でした。
話していると、女性遍路が通りかかりました。聞けば、埼玉から来た和光さんだといいます。またまた埼玉です!毛呂山さんも大喜び。話がはずみました。



ご主人が風邪を押して話してくれました。
埼玉の(また埼玉だ)、自由を標榜する私立高校の女の子がやって来て、
「おじさん、私も書いていい?」と言うので、「いいよ」と気軽に答えたのさ。
しばらーく経ってから、「おじさん、できた」と言うんで見たら、これさ。小さく俳句でも書いてるんだろうと思っていたら、まあ、びっくりしたね。でも、まあ、しばらく置いといたら、これが評判がいいんさ。フランスのテレビが取材に来たりしてな。


遍路道
さて、そんなこんなを話しているうちに、和光さんは弥谷寺のお参りへ、毛呂山さんも次なる札所・72番曼陀羅寺へ先発しました。私たちもそろそろ、発たなければなりません。
(弥谷寺の俳句茶屋は、令和元年12月段階では、・・現在、改築計画中・・と掲示があり、休業していました。海岸寺での営業については、→(R1初冬7)をご覧ください)。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。できれば宇多津までを今号に載せ、平成19年冬遍路シリーズを今号で締めくくりたかったのですが、ブログの字数制限にかかってしまい、はたせませんでした。今シリーズの完結は次号、7月27日更新予定、へ持ち越しです。
異例の早い梅雨明けで、今年は格別に長い夏となるようです。皆さま、くれぐれも健康には留意され、ご自愛くださいますように。

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天恢の一期一会の四国遍路 第4回 (天恢)
2022-07-10 19:30:01
 早いもので、何もしないまま? 今年も半分終わりました。 あっけなく梅雨明けとなりましたが、こんな年はいろいろ後を引くことも多く、またぞろコロナ感染は増加の傾向、ウクライナは膠着。 そして、世の中は梅雨空よりもどんよりした暗雲が広がってきました。

 さて、第4回は、四国で石鎚山と並ぶ霊峰・剣山(つるぎさん)にひっそり咲く 天涯の花 「キレンゲショウマ」です。 どんな花であるかは、ネットで「キレンゲショウマ」&「画像」で検索していただければ、『誇り高く咲くさわやかな月光の花は凛として気高い』と詠われた花をご理解されることでしょう。 
 この「天涯の花」は剣山を舞台とした、宮尾登美子さんの小説です。 徳島新聞にて1996年8月25日から1997年2月23日まで連載され、その後出版、テレビドラマや舞台でも上演され、これによって「剣山」と「キレンゲショウマ」の存在が全国に知られるようになりました。
 あらすじは、 吉野川沿いの養護施設で育ち、15歳で霊峰・剣山の神社の神職夫婦の養女となった主人公の少女。 厳しくも美しい自然、不自由な山奥での暮らしの中で、心優しき人たちとの交流。 そして、出会い、別れ、再会のある初恋。 剣山の豊かな自然を舞台に繰り広げられる一人の無垢な心を持ち続ける少女の成長の物語です。
 ひょんなことから読んだ「天涯の花」でしたが、「この高山の崖にひっそり咲く花を見るために、剣山に登りたい」との思いは日増しに強くなりました。 開花時期に合わせて2016年8月4日~5日、池田から祖谷渓ルート」で、路線バスと登山リフトに乗って剣山へ。 リフトを降りて、登山道を離れて脇道に入り、足場の悪いところに初めて見る黄色い小さなキレンゲショウマが群生していました。 土砂崩れと鹿害で群生地が年々狭まって、絶滅危惧種に指定されていますが、この花がいつまでも咲き続けて欲しいものです。
 ここでの泊まりは頂上ヒュッテでしたが、剣山の山頂は剣(つるぎ)と真逆の丸みを帯び、草原になっていて、展望は360度広がる大らかな山でした。 剣山頂で見た美しい夜空、天の川、北斗七星、カシオペア座、白鳥座・・・ こちらも忘れられない夜空になりました。 帰路、再度、キレンゲショウマをじっくり観賞し、写真を撮って、夏だけの1日1便のバスで見ノ越から穴吹へ。 この「木屋平ルート」は、急坂の細道で、観光化した祖谷渓より、もっと秘境感がありました。

 さてさて、この忘れられない花と山は、きっかけは小説「天涯の花」でしたが、夢の実現には、10年前に遍路で出会った立花悟さんの大きなサポートがありました。 立花さんは関東出身の山男で、剣山頂上ヒュッテに長年勤められ、休暇中に歩き遍路をしていた時にお接待を受けた経験から、ご自身もお遍路さんの力になりたいと2008年に、5番札所地蔵寺近くでギャラリーカフェ・ブリッサをオープンされました。 趣味の域を超えた写真、絵画、デザイン、俳句などに秀でたアーティストでもあったので、地域に根付いたギャラリー活動も続けられました。
 立花さんとは10年間で4回の出会いでしたが、特に思い出深いのは、およそ文芸には縁がない不粋者の天恢に、ギャラリー主催の文芸展・『四国のみち 一期一会展』への参加を依頼され、「思い出の『四国のみち』―寄り道、脇道、まわり道―という写真の拙作を第1回(2015年)、第2回(2018年)と二度も出品させていただきました。 
 惜しむらくは、立花さんが2020年暮れに81歳で急逝され、ただただ驚くばかりでした。 今はご冥福をお祈りし、沢山の想い出を遺してくれたことに感謝しております。 ギャラリー喫茶は、奥様がご意志を引き継がれています。
Unknown (楽しく遍路)
2022-07-14 09:40:49
天恢さん、コメントありがとうございました。
気候不順、コロナ、ウクライナ、そして銃撃テロ。これでは時候の挨拶なんて、書けたものじゃないですね。
察するにコメント投稿の直前、銃撃テロを耳にされたのでしょう。毎号きれいにまとまっている、天恢さんの時候の挨拶に、今号のみは乱れが見えます。
福沢諭吉は大砲の音を聞きながらも講義を続けたそうですが、私たち凡人は、そうはまいりません。銃砲の音をテレビ越しに聞いただけで右往左往、心は千々に乱れてしまうのです。

キレンゲショウマは、私たちも見たいと願っていた花です。(この場合、私たちとは、北さんと私ではなく、我妻と私です)。石鎚山に咲くそれをねらっていましたが、花期が短いことや天候に左右され、ここ何年も、先延ばししてきたのでした。今にして思えば、なぜもっと早く剣山に変更しなかったのか、残念な思いでいっぱいです。おそらくはもう、今のような状況下では、「天涯の花」を見ることはできないのでしょう。

さて、『天涯の花』といえば宮尾登美子さんですが、宮尾さんの自伝的四部作、『櫂』『春燈』『朱夏』『仁淀川』を熱心に読む女性に出会ったことがあります。彼女は、今は廃業していますが、ある遍路宿の女将さんでした。
私が泊まった晩、たまたま宿泊者が私一人だったので話し相手になってくださり、話はいつしか、宮尾さんが『朱夏』に描く、渡満→敗戦→帰国の、悲惨な体験に及んでいったのでした。
彼女は、宮尾さんの体験に重ねて、自身の体験についても語り始めていました。

彼女は宮尾さんより3-4才下でしたが、宮尾さん同様、すでに日本の敗色濃い中、家族に連れられて満州に渡りました。乗っていた汽車が高松に着くころ空襲を受け、持って行くはずの荷物の大半を失ったといいますから、そんな時期に、なぜそこまでして渡ったのか、今どきの人はもちろん、私にもよくはわかりません。私は戦前生まれですが、育ちは純粋戦後育ちです。戦中の記憶は、空襲で炎のトンネルを抜けて逃げた場面など、格別恐かったり悲しかったりする場面が数駒、画像となって残っているのみです。

満州では、植えた作物を一度も収穫することなく、「敗戦」を迎えました。彼女が「敗戦」と言って「終戦」と言わないのは、8月15日を境に、敗戦国民の逃避行が始まるからです。それは、「悲惨」では言い足りぬほど、悲惨なものだったといいます。彼女にとって、戦争は決して終わってなんかいなかったのです。
彼女は言います。
・・・私は何回も、「もう殺して」と親に頼みました。でも殺してくれませんでした。後に親が話してくれたところでは、殺さなかったのは、殺せなかったからだそうでした。殺して楽にしてやりたいと、何回も何回も思ったけれど、殺せなかったのだそうです。

帰国後も、彼女は波瀾万丈の人生を送りますが、それは宮尾さんと離れてしまうので、ここでは記しません。
ただ、夜も更けて、この長い話もそろそろ終わろうとする頃、二人がひっそりと「インター」を歌ったことだけを、記しておきます。私は大学で、彼女は職場で聞き覚え、何回も歌った、若い頃の歌でした。

立花悟さんとの出会いは、得がたいものでしたね。私も一度、お目にかかりたかったです。
奥様が引き継がれたというギャラリー喫茶は、近くを歩く機会があれば、必ず寄ってみようと思います。

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