楽しく遍路

四国遍路のアルバム

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2018-08-22 | 四国遍路

 
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  別宮大山祇神社

別宮大山祇神社 (H17撮影)
別宮大山祇神社は、現55番札所南光坊に隣接する神社です。
四国遍礼名所図会に、・・大三島へ渡らざる時は、此所(別宮)にて遙拝す。・・詠歌 此ところ 見しまに夢の さめぬれば 別宮とても おなじすいじゃく・・とあります。
かつて別宮大山祇神社は、 ’別宮とても’ 事実上の55番札所として、大三島に劣らず栄えていたようです。


別宮大山祇神社
祭神は大山積大神(おおやまづみ大神)です。
「おおやまづみ」の表記は、大山祇など、いろいろありますが、別宮大山祇神社では、大山積大神と表記しているようです。
「大山に住む神」「大いなる山の神」など、その解釈は、いくつかありますが、つまりは、山という山を統べる神さま、ということでしょうか。


奥殿
山の神・大山積大神はまた、和多志(わたし)大神という、別の名でも呼ばれます。
「わたし」は、「海を安全に渡してくれる」の「渡し」とか、「綿津見(わたつみ)」の「わた」であるとかで、和多志大神と呼ばれるときの大山積大神は、海を統べる神さま、ということになります。
前々号で、鵜茅葺不合命が山と海の霊力を引き継ぎ、その子神が初代天皇・神武天皇となる経緯にふれました。この例からもわかるように、山の神であり、また和多志大神としては海の神でもある大山積大神は、神格の高い神さまです。


阿奈婆神社
大山積大神には二柱の娘神・・磐長姫命と木花之開耶姫命・・がいます。
神格が天孫(天照大神の孫)と釣り合って、めでたく降臨の神・瓊瓊杵尊との縁組みが調ったのはよかったのですが、ここで事件が起こります。
次女の木花之開耶姫命は、(なにせご神体が富士山なので)怒ると怖いのですが、それはそれは美しい神様だったので、迎え入れてもらえました。ところが、長女の磐長姫命が、「醜女」なる理由で、送り返されてしまったのです。


阿奈婆神社
さて、その「醜女」の磐長姫命こそが、大山祇神社の摂社・当阿奈婆神社の祭神で、阿奈婆さん(あなば・さん)の愛称で親しまれている神様なのですが、・・
問題はフラれた阿奈婆さんよりも、むしろフッタ瓊瓊杵尊の方に起きました。なにせ大山積大神のメンツをつぶしてしまったのですから、ただ事ではすみません。


阿奈婆神社
瓊瓊杵尊の子孫である代々天皇に、あろうことか、人間並みの「寿命」が発生することになってしまいました。天皇の命は、(長きこと磐の如し、ではなく)、木の花のように儚いものとなってしまったのでした。
その上、天皇家には度々、揉め事が発生。代々天皇の御心を騒がせることになってしまいます。
磐長姫命は、その御名・磐長からも察せられるように、長生の神さまでした。加えて、福徳・円満の神様でもありました。その姫神を送り返したのですから、これはもう、仕方がありません。


阿奈婆神社 由緒
境内に次のような、阿奈婆神社由緒が掲示されていました。
・・このお宮は昔から阿奈婆さんといって親しまれているお宮で、大三島の阿奈婆神社から勧請申し上げたお社です。ご祭神・磐長姫命大神は本社の祭神・大山積大神のご長女にあたられ、大変ご長命にあらせられた上、福徳円満の神様で、「長生きの神」「福徳円満の神」としてご神徳の高い神様であります。また、特に「下の病」の治癒にすぐれた力をお持ちの神様として、崇敬者の祈願報賽のため遠近より参拝する人が四時耐えません。

  55番南光坊

南光坊本堂
55番札所は、88札所中、唯一、その名に「坊」がつく札所です。
55番札所は、88札所中、唯一、大通智勝如来を本尊とする札所です。
大通智勝如来には16人の王子がありましたが、その16番目の子どもは、来世、お釈迦様となるべき御子でした。つまり、大通智勝如来は、お釈迦様の、過去世におけるお父さんでした。


戦災碑
昭和20(1945)8月5日夜半、今治は三度目の空襲にさらされました。この空襲で市域の8割が灰燼に帰したと言います。
南光坊にも火が入り、本堂は焼失しました。上掲写真の本堂がようやく再建されるのは、昭和56(1981)です。
なお、今治空襲の余燼がまだ消えやらぬ、8月6日朝8時15分、広島に原子爆弾が投下されています。


大師堂
棟のライン、一の鬼、二の鬼が印象な、美しい建物です。
大師堂が、辛うじて焼失を免れたのは、奇跡と言ってもいいでしょうか。
おかげで、大師堂に施された、長州大工・門井友祐の彫刻を見ることができるのは、まさに不幸中の幸いです。長州大工・門井友祐については、前号をご参照ください。


大師堂の彫刻
納経所近くでたまたま出会ったお坊さんが、・・よう見て行ってください。皆、知らんのじゃろか、見ずに行きよる、・・と残念そうに話されました。・・回りに干支が彫ってあるけんね、グルッと回って見てください、とのことでした。


彫刻
彫刻の良さを写し出せないのが残念です。
1番いいのは、直にご覧いただくことですが、それがちょっと難しいときは、(前号でも記しましたが)枯雑草さんのブログで、「長州大工の心と技」をご覧いただくのは、いかがでしょうか。


彫刻
曲がり具合を海老に例えて、海老虹梁と呼ぶそうです。


彫刻
右が寅、左が卯です。


彫刻
羊です。


静道道標
境内に、なにげなく、静道道標が立っていました。
俳句が刻まれています。読み下しには、ちょっと自信がありませんが・・。
  暮かけて 一里もくれず 秋の山  光風亭静道
  是従 泰山寺 十八丁

  泰山寺から栄福寺へ

56番泰山寺
きれいに改修されています。H12(2000)の改修だそうです。
2種類の石が使われています。整形された石は、今治沖の大島で採れる、今や高級石として名高い「大島石」です。ゴロ石は、改修前にも使われていた石で、蒼社川が造った石です。


石垣
かつて蒼社川は暴れ川でした。川底が浅く、梅雨時、大雨の時など、増水の度に氾濫。田畑・家屋を流し、人命を奪っていたと言います。村人はこの川を「人取川」と呼んで、怖れていたそうです。


境内
弘法大師がこの地を訪れたのは、弘仁6(815)の頃だと言います。
村人の苦しみを聞いた大師は、村人たちと堤防を築き、「土砂加持」の秘法を修法されたそうです。
土砂加持とは、川の氾濫などで命をなくした、亡者を追善する祈祷だと言います。氾濫などの自然災害は、亡者・悪霊がなす仕業と信じられていましたから、災害を起こさぬためには、亡者を鎮める必要がありました。


本尊地蔵菩薩
土砂加持満願の日、大師は延命地蔵菩薩を感得。治水祈願成就を確信なさいました。大師は地蔵菩薩像を刻み、これを本尊として堂宇をお建てになりました。
・・ここに泰山寺が創まったという譚です。


大師堂
寺名の「泰山」は、「延命地蔵経」の十大願の第一「女人泰産」(安産を授かる)からとった、と言われています。泰産→泰山です。
また、寺があった裏山の金輪山を、死霊が集まる泰山になぞらえ、泰山寺とした、とも言います。
・・命は泰山に生まれ、泰山に帰り着く。・・


不忘松
寺名の背景には、「泰山信仰」があったと思われます。中国五岳の一、泰山への信仰です。
生まれようとする命を見守り、戻り来た死者を供養し、死霊を救済するお寺、・・そんな寺には、お地蔵さんがピッタリです。
不忘松は、大師お手植えの松と伝わります。何代目でしょうか。


不動明王 役行者  
「四国遍礼霊場記」に、・・此寺(泰山寺)大師の開基ときこゆ。隆弊しらず。・・と記されています。”隆弊しらず”は、 その歴史はわからない、という意味です。
寺社の歴史は、元々わかりにくい上に、神仏分離をくぐったことで、ますますわからなくなっているのですが、境内に祀られている不動明王や役行者は、泰山寺の歴史にどう関わっているのでしょうか。


龍泉寺へ
泰山寺奥の院・龍泉寺に向かいます。5分ほどの所にあります。


龍泉寺へ
ここでも蒼社川のゴロ石が使われています。
赤い幟には 南無十一面観世音菩薩 とあります。龍泉寺のご本尊は十一面観世音菩薩です。


本堂
龍泉寺は槾絵(こてえ)で知られています。鏝絵とは、漆喰を塗った上に鏝で風景や肖像などを描き出した絵、です。左官さんが鏝を使って浮き彫りにします。大工さんが鑿を使って彫刻を施すのに似た行為です。
破風の大きなこて絵は、残念ながら色が落ちてしまいました。今、これを修復できる人は、簡単には見つからないでしょう。


槾絵
観音像は向拝に守られ、見事に残っています。
本堂の建立は大正期だそうです。


阿奈波弁財天
阿奈波弁財天が祀られています。別宮大山祇神社で見た阿奈婆さん(磐長姫命大神)と同じだったと考えられます。
十一面観世音菩薩を本尊とする寺に、その垂迹神である磐長姫命大神が祀られています。ここにはそれとなく、本地垂迹・神仏習合の姿が残されているようです。


役行者
泰山寺同様、ここにも役行者さんが祀られています。
龍泉寺は大正期以前、およそ三代前までは、修験の寺だったようです。


栄福寺へ
栄福寺に向かいます。天保15(1844)の道標です。


栄福寺へ
弘化の年号が刻まれています。奈良原神社、和霊大明神も案内されています。
静道道標は、山路の分岐や南光坊でも見ました。静道は今治の人です。


遍路無縁墓地
この坂を上がると、蒼社川の堤防です。


道標
これも静道道標です。指差しは河原の方向を指しています。
見難いのですが、・・遠山に 眼のとどきけり 秋の月・・の句が刻まれているそうです。


道標
四国遍礼名所図会に、・・常に河原をとふる。大水の節ハ渡船す・・とあります。
河水の多くは伏流水や地下水となり、表流水は、細い幾筋か分かれ、流れていたようです。流れの筋に板橋を架けて渡った話が、えひめの記憶に採録されています。
今は、500㍍ほど上に架かる、山手橋を渡ります。


対岸の道標
目一杯ズームを効かせて対岸を写してみました。道標が見えます。
どんな案内が刻まれているのでしょうか。次号でご紹介しようと思います。


山手橋
山手橋です。これを渡ります。
写真奥の、一番手前に見える低い山は、八幡山です。山上に神仏分離以前の57番札所、石清水八幡宮があるので、八幡山です。
反対側の山裾には、現在の57番札所で、元・石清水八幡社の別当であった、府頭山栄福寺があります。八幡山は、栄福寺から呼ぶならば、府頭山です。
八幡山(府頭山)には他にも、興味深い寺社があります。私は時間をかけて、訪ねてみるつもりです。



山手橋をわたり、谷山川の堤防を歩きます。谷山川は、すこし下流で、蒼社川にそそぎます。


御旅所橋
御旅所橋を渡ると、先に、石清水八幡神社の御旅所があります。


御旅所
ここは八幡山の西端に当たります。


祭ポスター
祭の日には、こんな景色が見られるようです。


道標
上部が折れているのは静道道標です。「されい山へ 廿丁」のようです。58番 作礼山仙遊寺を案内しています。
右の茂兵衛道標は、百度目のものです。
ここから左の、山裾をたどる道に入ります。


山裾の道(天恢さん撮影)
かつては、こんな道だったのですが、・・



今度行くと、こんな風に変わっていました。
(前掲の写真は、天恢さんからいただいた写真です。更新直後、気づいた誤りを書き送ってくださった時、添付されていた写真です。きれいなので使わせていただきました)。


石清水八幡
石清水八幡宮への参道に立つ道標です。
「一国一社八幡宮」は「国府八幡宮」ともいい、国府の近くに創建した八幡神社をいいます。多くの場合、一国の総社として働いたとのことで、国府に新赴任した国司は、この一社参拝を以て、任国内主要神社巡拝に代替することができました。
ただ、同じ八幡山には、やはり総社として働いたと伝わる伊加奈志神社がありますので、伊予国の国司さんは、はたしてどうなさっていたのでしょうか。


石清水八幡
石清水八幡宮が57番札所であったことの証です。


石清水八幡宮への参道
順打ちの遍路は、山向こうから八幡宮に登り、この坂を栄福寺へ降りてきたようです。
八幡宮の様子は、次回、ご紹介したいと思います。


栄福寺
奥が本堂。手前が大師堂です。
開創は弘法大師と伝えられます。海難事故を鎮めんと、大師は海神供養の護摩を修したそうです。その満願の日、阿弥陀如来を感得。これを本尊とし、府頭山に栄福寺を開創されたと言います。


栄福寺
昭和8(1933)のことだと言います。足の不自由な少年遍路が、この箱車に乗ってやってきました。ところが連れていた犬に引っ張られて箱車が転倒。少年は身体を強打しました。
札所参りの身に不幸が、・・と危ぶまれましたが、事実は逆でした。少年の不自由な足は快癒。少年はご利益に感謝し、この箱車を奉納して、次の札所に向かったそうです。


彫刻
栄福寺の彫刻も、なかなかのものです。大師堂のものが、私は気に入っています。


犬塚池へ
58番仙遊寺へ向かいます。
写真奥に犬塚池の堤防が見えます。その上の山が、仙遊寺がある作礼山です。


犬塚池
犬塚池です。

  大須伎神社へ
さて、ちょっと遍路道から離れ、大須伎神社(おおすぎ神社)をご紹介します。長州大工・門井友祐さんの彫刻がある神社です。


山手橋
山手橋から大須伎神社へ向かいます。橋は渡らず、蒼社川左岸を溯ります。


八幡山
左手に八幡山が見えます。


バス停
大須木バス停です。


じぞう道
堤防道から降りると、「ちゝじぞう道」の道標がありました。
この先、高橋の円照寺に、乳地蔵さんが祀られているそうです。乳の出は、粉ミルクなどない時代、子の死活に関わる問題であり、母は、母たるを問われました。
「今治の伝説」というHPに、謂われなどが記されています。


大須伎神社へ
大須伎神社は、江戸時代は大次大明神と称し、蒼社川の堤防下にあったと言います。そのため、洪水で何回も流されたとのことです。
にもかかわらず、なぜ堤防下に置き続けたのでしょうか。洪水から堤防を護って欲しいと願い、あえてそうしたのかもしれません。



花蘇芳でしょうか。きれいです。


石段
大次大明神が当地に遷されたのは、明治44(1911)のことだそうです。
当地には元々は伊予熊野神社があり、これに小林八幡神社と、大次大明神など村内の諸神を合祀。大須伎神社と改めた、とのことです。
「大須伎神社」は、延喜式神名帳に記載のある社名です。


腰掛石
河上安固腰掛石だそうです。傍に立つ説明文を転載します。
・・昔蒼社川はこの権現山山嶺を流れて、現在の馬越付近の浅川に流れていました。またお城の方にも流れていました。川底浅く、台風など水害のたびに流れを変える、あばれ川でした。水害で農民は困っていました。宝暦元年(1751)、今治藩の5代藩主定郷公は河上安固を御用係として、川筋の付け替え工事をする事にしました。安固は毎晩この権現山に登り、この石に腰掛けて河の流れを描写して、水勢の順逆をつまびらかにして、治水の方法を上申しました。


鳥居
石段の先に山道が続きます。


石段
さらに石段です。


大須伎神社拝殿
大須伎神社拝殿に、長州大工・門井友祐の仕事が残っています。


門井友祐
 彫刻 大正二年 門井友祐 作 
と表示されています。屋代島は今の周防大島です。


破風部分
今回の遍路で三回目の門井友祐さんとの対面です。真名井神社、南光坊、そして大須伎神社です。


向拝部分
彫りに彫ったという感じです。
次は、丹原町の西山興隆寺で見ることができます。



制作年は、大須伎神社が大正2(1913)、南光坊が大正5、西山興隆寺仁王門が大正7、真名井神社が大正10です。


奥殿 
拝殿と奥殿が石橋でつながっています。


稲荷神社へ
大須伎神社のさらに上に、稲荷神社があります。
道を尋ねた女性に、上まで行ってくださいね、と念を押されましたので、登ることにしました。


稲荷神社
慶長の昔、藤堂高虎が山城国伏見稲荷神社から勧請したと言います。
初め、今治城内に祀られていましたが、高虎が国替えとなったのを機に、跡に入った久松・松平の初代・定房が、寛文10(1605)、今治城からこちらに遷しました。社殿工事は、伊予熊野神社(後、大須伎神社に合祀される)の再興と併せ行われたと言います。


雨乞い石
次のような説明があります。
・・古代から大干魃の年には、村民がこの石の許に集まって、雨乞い祈祷を行った。その時、不思議にも、この石が潤い、くぼみに水滴ができ、大降雨となって恵みの雨を戴いたと伝えられている。


展望塔
展望塔があり、上がってみましたが、木が茂っていて、見えませんでした。



ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新は9月19日の予定です。蒼社川を歩行渡りした昔の遍路たちの、足跡を追って見たいと思います。

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♪山裾の秋 ひとり会いにきた ただ あなたに謝りたくて・・・ (天恢)
2018-08-30 21:54:37
 どうやら酷暑も和らいで、暦の上で立秋も過ぎると秋の気配も感じられますが、8月にこんなに台風ラッシュが続くとなると二百十日、二百二十日も台風が続発するのでしょうか?
 
 さて、今回の今治の中心部にある「別宮大山祇神社~大須伎神社」の道中記を楽しく読ませていただきました。 コメントとしては阿奈婆神社の「醜女」の祭神である阿奈婆(あなば)さんも面白いのですが、今回は、何たって長州大工・門井友祐さんを取り上げねばなりません。 「楽しく遍路」さんが、10日に満たない春の遍路で、前回の真名井神社、今回の55番南光坊と大須伎神社、そして次回の丹原の西山興隆寺でブログに4回も登場します。

 彫りの技は、もはや大工技を超越。芸術の域に達したと言われている門井友祐なる彫刻師は、山口県の周防大島の出身で、長州大工は、自分の腕一本を頼りに江戸末期から大正にかけて伊予や土佐に出稼ぎに行ったとのこと。 この島は遍路の元祖と言われる中務茂兵衛さん生地で、門井友祐は民俗学者の宮本常一さんとは同村の出身となります。 宮本先生は、この時代、産児制限のなかった島では人口が爆発的に増えて、あまった人口は出稼ぎに行くしかなかったそうで、旅することや働くことを苦にしない島民は漁師、移民として海外まで活躍の場を求めたと記されています。 

 では、門井友祐が世に評価されるようになったのはいつ頃なのか? 「楽しく遍路」の 《 H24春遍路 ⑤ 実報寺 日切大師 興隆寺~ 》に興隆寺が登場しますが、彼の名はそこにはありません。 地方の片隅で、無名のまま消えていく彫刻師の存在が世に知られるようになったのは最近のことなのか? 生前に一枚の絵しか売れなかった天才画家・ゴッホ、「日本のゴーギャン」とも云われ、奄美に渡って独創的な日本画を描きながら、無名のまま生涯を閉じた孤高の画家、田中一村など埋もれかけた画業に脚光を浴びせ、世に訴えた支援者たちの熱き情熱が思い出されました。 長州大工・門井友祐の手掛けた見事な建築彫刻群が後世に大事に伝えられ、貴重な文化財となりますように。

 さてさて、タイトルの「♪山裾の秋 ひとり会いにきた ただ あなたに謝りたくて・・・」ですが、平成19年頃、すぎもとまさとさんが歌って爆発的に大ヒットした『吾亦紅(われもこう)』の一節です。 お墓参りの歌、結婚式では歌えない曲として有名なのですが、音痴の天恢が同窓会で歌っても、「母のことを思い出して涙が止まらなかった」と親不孝者には共感を呼ぶ不思議な歌です。
 で、タイトルがなんで『吾亦紅』の一節なのか? は、昔ながらの田園風景が今も残る永福寺への道で、天恢も記憶に残る好きな遍路道だったのですが、ブログにある「道標」、「山裾の道」、「道」を見比べて、無残に消えた山裾の道を懐かしく思い出されたからです。 生活居住地なので、昔からのへんろ道だから大事に残そうなんてことはできない話なのでしょう。 しかもこの辺りは四国高速道の建設予定地で、いずれはのどかな環境も、風景も一変することになるでしょう。 まっ、これじゃ四国88か所霊場と遍路道の世界遺産登録は無理なような気がします。 今回のお別れは、
🎶 今は黙して歩かん、何をまた語るべき  ・・・・・
♫迷い道くねくね (楽しく遍路)
2018-09-01 16:15:47
いつもながら楽しいコメント、ありがとうございました。
周防大島を二度も訪ねている天恢さんの関心は、やはり長州大工に向くのでしょうか。
私が門井友祐さんに出会うまでを、少々冗長かもしれませんが、記してみます。

長州大工なる存在を最初に知ったのは、北さんとのやりとりの中でした。何年も前のことです。
しかし二人とも、その関心は彫刻にはなく、「出稼ぎ大工集団」ということにありました。門井友祐さんのような優れた彫刻家を生み出していることなどは、知りませんでした。
平成24年 春、せっかく興隆寺を訪ねながら、長州大工の優れた技に一筆も触れていないのは、そういうわけでした。

平成28年 秋、大宝寺への途中、私は火主森(とぼしがもり)三島神社を訪れ、本アルバムに、次のように書いています。
・・拝殿、本殿とも、素晴らしい木組みであり彫刻です。文化財指定を受けていないのは、比較的新しいからでしょう。しかし、大切に後世に残したい建物です。
創建は永禄11(1569)。大山積神を大三島から勧請したとのことです。元の55番札所の神です。なお現55番南光坊の隣には、大山祇神社の別宮があります。

素晴らしい彫刻である、とまで書きながら、しかも南光坊にまで触れながら、門井友祐さんには触れていません。長州大工は知っていても、この社殿が長州大工の仕事であることは、知らなかったのです。
ブログには書きませんでしたが、その夜の宿で私は、彫刻の素晴らしさをご主人に力説しています。
後世に残したい・・は、土地の住人たるご主人に、話したことでありました。(実はご主人は、門井友祐さんのことはご存知だったと、今は思っています)。

平成29年 初夏のことです。
宮本常一さんについて分からないことがあり、周防大島文化交流センター(宮本常一記念館)にメールで問い合わせたことがあります。(これについては、天恢さんはご存知だと思います)。
経緯は省きますが、問い合わせへの学芸員からの返信に、次のような一節がありました。長州大工からの聞き取りの記録です。
・・正月の十日過ぎに伯父さんと一緒に島(=周防大島)を出て、伊予の三津浜へ着いてのう。
(中略)三坂峠まで来て後を振り向いたら、故郷の島(=周防大島)がちゃんと見えたそうなが、
『妙に難儀になって涙がポロポロ出て困った』と、いつもよく話してくれた。

本アルバム「H29春 1」での、三津浜と周防大島とのつながりに触れた記事は、この返信が基になっています。
記事では長州大工には触れませんでしたが、これを機に私の長州大工への関心は高まり、少しずつ調べるようになっていました。門井さんのことも頭に入ってきていました。

そんな時でした。絶妙のタイミングと言いましょうか、出会ったのが、平成29年 冬、枯雑草さんがアップロードした「長州大工の心と技」でした。
早速、翌年、平成30年の春遍路には、4ヶ所の門井友祐さん所縁の寺社が組み込まれることとなりました。・・という次第です。
以上、ぐだぐだと書きましたが、私が門井友祐さんにたどり着くまで、でした。思えば遠回りしたものです。


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