楽しく遍路

四国遍路のアルバム

土居構え 眞導寺 保国寺 伊曽乃神社 前神寺 石鎚神社 黒瀬峠 極楽寺 正法寺

2019-04-03 | 四国遍路

 
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  土居構え 眞導寺 保国寺 伊曽乃神社


西条の、加茂川沿いのビジネスに1泊。
三角寺方向へ進む前に、近くの伊曽乃神社周辺を歩いて見ることにしました。



田んぼ道を北方向へ進みます。
朝散歩の方がいて、挨拶がてら、道を教わりました。


土居構え
見事な「土居構え」、中世城郭の遺跡です。
高峠城(たかとうげ城)に拠った河野通直(通堯から改名)が、平時の居館として築造したものとされ、東之館と呼ばれています。むろん館とはいえ外敵を想定していますから、高みの所に石垣を巡らせ、城郭として構築されています。
東之館という呼称は、西之館の存在を示唆していますが、その所在はわかっていないようです。


土居構え
高峠城は、当遺跡から南東方向へ直線距離で1.4キロ、標高233㍍の所にあった城です。河野通直は南朝方としてこれに籠もり、北朝方・細川頼之に対抗していました。
しかし1379年・・北朝元号で康暦元、南朝元号で天授 5・・、高峠城は落城します。代わって入城したのは、細川氏の代官・石川氏でした。石川氏の支配は「天正の兵乱」(秀吉の四国征伐)まで続き、その間、高峠城と東之館の主は石川氏でした。


虎口
(H30春 7) 世田山合戦の記事でも記しましたが、この地域一帯は長い間、河野氏VS細川氏がせめぎ合う戦場でした。
高峠城落城の15年前、1364年・・貞治3(北朝)、正平19(南朝)・・には、通直の祖父 ・ 通治(通盛)と父 ・ 通朝が世田山城に籠もり、やはり細川頼之と戦っています。
また時代が下がって室町時代、文明11(1479)には、河野通生とVS細川義春の戦もありました。



説明板によると、寛永19(1642)以降、・・東之館に久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承し今日に至る。家屋はその後改造を重ねながらも、なお旧態を保っている。・・とのことです。
母屋の構体も、基本は、江戸時代初期のものだといいます。



漆喰塀が外側に反っています。雨水がなるべく塀を伝わないように、との工夫でしょうか。



土居遺跡は、昭和23(1948)、愛媛県の史跡に指定されています。


塞神
東之館入り口の向かいに、日明(ひあけ)集会所があり、そこに小祠等が集まっています。
左の小祠には「塞神」と刻まれています。真ん中は「連夜燈」だそうです。
塞神が祀られているのは、ここが加茂川が造った低地と、高峠につづく台地との境になっているからかもしれません。
写真左の道をゆくと加茂川河岸段丘に上がり、さらに上がれば、寒風山越えの土佐街道につながるとのことです。下れば古代官道・南海道(現代でいえば国道11号)につながったでしょうから、ここは交通の要衝だったと思われます。


眞導寺説明板
土居構えの上は、寺社地になっていました。
眞導寺の所在を知らせる説明板が立っています。
・・眞導寺の由緒: 伊予守・源頼義や高外木城主・石川氏との因縁を語り伝える医王山真言院は天正の兵乱に焼亡したが、保国寺51世玄英和尚の時、古来の霊仏薬師如来を祀った眞導寺を建てた。昭和の初、旧寺跡から奈良時代の古瓦、石経、礎石等が発見されたことにより、伊曽乃神社の神宮でであろうかということになり、新しく研究が進められている。 文 久門範政氏 神戸文化財愛護教室


参道
「天正の兵乱」で石川氏が滅んでから、寛永19(1642)に久門氏が入居するまでの、およそ50年間、東之館はどうなっていたのか、疑問に思っていましたが、すこし事情がわかった気がします。
なお、高外木城(たかとぎじょう)は、高峠城の別称です。
また、説明文を書かれた「久門範政氏」は、庄屋家のご子孫と思われます。


薬師堂
本尊薬師如来を祀っています。


景色
加茂川大橋方向です。手前は西条市の浄水所。


保国寺へ
前方に保国寺(ほうこく寺)が見えてきました。


脇門
保国寺は禅寺です。
高峠城の最後の城主、石川備中守通清が、ここに祀られているそうです。


本堂
禅寺の佇まいです。ご本尊は阿弥陀如来。


山門
脇門から入り、山門から出る格好になりました。


伊曽乃神社の杜
左方に伊曽乃神社の杜がみえます。


本殿
伊曽乃神社本殿は、総檜の神明造です。
天照大神と武国凝別命(たけくにこりわけ命)が祀られています。
社伝では伊曽乃神社は、武国凝別命の子孫が、天照大神と武国凝別命を祀ったことに、始まるとのことです。


本殿
伊曽乃神社は、延喜式による名神大社です。奈良時代には、大山祇神社をしのぐ社格であったともいいます。


木花佐久夜比売命像
伊曽乃神社の境内に古茂理神社(こもり神社)が在ります。木花佐久夜比売命を祀り、旧中野村の産土神とされています。
古茂理(こもり)は子守に通じるのでしょうか、子供の守り神、安産の守護として、篤く信仰されているそうです。



伊曽乃神社の参道には石段はなく、バリアフリーのスロープになっています。だんじりを降ろすためのスロープです。


だんじり
H17(2005)に撮った、加茂町のだんじりです。新調お披露目の日に、ラッキー、行き会わせました。
伊曽乃神社例大祭は、西条祭のなかでも最大規模を誇り、市内各町のだんじり、神輿が80台、神社に奉納されるといいます。


大樹の杜
さて、私が伊曽乃神社を再訪したのは、前回見落とした「石鎚さんの投げ石」を、ぜひ見たかったからです。
「石鎚さんの投げ石」とは、石鎚山山頂から石鎚山の神さんが投げたといわれる石で、伊曽乃神社が伝える神婚説話に基づいています。
・・石鎚の男神に恋した伊曽乃の女神は、ずっと一緒にいたいと思い、石鎚山へも一緒に登ろうとしました。ところが如何せん、お山は女人禁制です。


石鎚の神の投げ石
・・だだをこねる女神に、石鎚の神はいいました。ワシが山の上から石を三つ投げるけんの、落ちた真ん中の石の所に宮居を建て、そこに住んどれや。ほしたら、ワシが通うて行くけん。
・・伊曽乃の女神は仕方なく、石が落ちたところに家を建て、石鎚の神を待ったのでした。
・・ところが、待てど暮らせど、石鎚の神はやって来ません。伊曽乃の女神は怒ってしまいました。


石鎚の神の投げ石
・・伊曽乃の女神は怒ると怖いけんの・・以来、石鎚の神は、いつでも女神から逃げられるよう、右足を高く上げている癖がついてしまいました。
そういえば、役行者が写しとられた(後述)石鎚の神のお姿は、右足が今にも駆け出さんばかりに、高く上がっているではありませんか。


つぶて石
神様が岩を投げて、その落ちた所を住まいと定める譚は、他でも聞く譚です。
写真は、浦ノ内湾の奥にある鳴無神社(おとなし神社)の神様が投げた石で、石が落ちた当所には、今、土佐神社があります。

  前 神 寺


かつて日本の神々は名前をもたず、また姿もありませんでした。ただ気配のみがあって、気配が感じられる所を「磐座」(神が降りてこられる所)として拝んでいました。
神は今日のように、神社に常在しておらず、呼びかけに応じて、磐座に降りてこられたのでした。巫女や神官が必要とされたわけが、ここにあります。


前神寺
神に名前がつき、姿が描かれ、神社にゆけば必ず会えるようになるのは、仏教(とりわけ仏像や寺院)の影響を受けてからでした。
ただの山の神さんであった石鎚の神も、中世にはいり「石鎚金剛蔵王大権現」という名前を得、その像が形作られました。役行者が石鎚金剛蔵王大権現を感得。尊像を霊木に刻んだという「物語」も流布されます。


石鎚山大権現 蔵王大権現
上掲写真を拡大したものです。白い立て札には「石鈇(金+夫)山大権現」の文字が見えます。右の石柱には「蔵王大権現鎮座」とあります。
石鈇金剛蔵王大権現の本地仏は、阿弥陀如来です。すなわち、阿弥陀如来が利益衆生のため、神の姿に変化なさったのが、石鈇山金剛蔵王大権現であるということです。石鈇山お山開きで、信徒たちが繰り返し「ナンマイダンボ」(南無阿弥陀仏)と、阿弥陀仏への帰依を唱えるのは、だからです。民衆は石鈇山金剛蔵王大権現を通して、阿弥陀如来の大慈悲にあずかります。


本堂
役行者が石鎚山中で修行中、阿弥陀三尊が顕現されました。中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩と勢至菩薩が随っておられます。
役行者は、蔵王大権現のお姿を深く心にとどめ、それを霊木に刻み奉ったといいます。
おかげさまで私たちは今日、右足を高く上げた、蔵王大権現のお姿を拝むことが出来るわけです。もちろん右足は逃げの姿勢ではありません。利生のお覚悟を表しています。


成就の奥前神寺
写真は、成就にある奥前神寺です。江戸以前、成就が常住と呼ばれていた頃は、単に前神寺と呼ばれていました。その頃はまだ、里(下)の前神寺は存在しなかったからです。
(宗教民衆化の流れのなかで)前神寺が里に遷されて以降、常住の前神寺は奥前神寺となり、そこに常住僧はいなくなったので、地名も、常住から成就と代わりました。常住の標高は1450㍍もありますから、(修験者のものであった)石鈇山信仰を、民衆に流布するための場としては、不向きだったのでしょう。


石鎚権現堂
現在の前神寺の、本堂に向かって右側の石段上に、石鎚権現堂があります。
明治初期、前神寺は廃寺となってしまいました。神仏分離策は廃仏毀釈と一体のものだったからです。ようやく明治11(1878)、再興はされましたが、寺名に「神」は馴染まないとして、前「上」寺とするよう、寺名変更を迫られる有様でした。神仏分離は執拗でした。


石鎚権現堂
石鎚権現堂は、明治40(1907)、前上寺を元の前神寺に戻すことが許されて以降、かつての前神寺と石鎚の神との関わりを取り戻すべく、再建されました。
なお前上寺は、かつての前神寺の末寺・医王院が在った所に再興されました。前神寺の現在地が、そこです。


石鎚権現堂
提灯に三つ葉葵が描かれています。前神寺は藩政時代、西条藩松平(徳川)氏から、この紋の使用を許されていました。
前神寺と徳川氏との関係は深く、かつての前神寺には東照宮もあったほどですが、さすがに御一新の中、「徳川」とのつき合いには、厳しいものがあったのでしょう。東照宮は、明治5(1872)、西条市大町に西条神社として遷されています。 (H24春 6)

  石 鎚 神 社

石鎚神社鳥居
石鎚神社の大鳥居です。緩やかに坂を上り、口之宮・石鎚神社本社に至ります。
石鎚神社は、山麓にある石鎚神社本社と、成就にある中宮成就社、頂上にある奥宮頂上社、昭和46(1971)に竣工した土小屋遙拝所、から成っています。これらを総合したものが、石鎚神社であるといわれています。


口之宮本社山門
石鎚神社本社は、かつて石鈇山蔵王大権現とその別当・前神寺が在った跡地に建てられています。
むろん仏教的要素は一切取り除かれ、石鎚山の神は、今は石鎚毘古命とか石鎚大神と呼ばれています。「権現」ではなくなりました。


中宮成就社
写真は、成就に在る、石鎚神社の中宮成就社です。
この社地には、かつては(奥)前神寺が在りましたが、里前神寺と同様、寺地を石鎚神社に譲り渡しました。前掲の奥前神寺は、前神寺復興後、成就の別の場所に寺地を得て建てたものです。


遙拝所
中宮成就社は遙拝所です。役行者(役小角)のお姿が見えます。
かつて当地・成就は「常住」であったと前記しましたが、初めから「成就」だったという譚もあります。
・・石鎚山で厳しい修行を終え、当地まで降りてこられた役行者は、石鎚山頂をふり返り、「我が願い成就せり」とおっしゃられた。この故事に因んで、当地は「成就」と呼ばれるようになった。


神門
かつては遙拝所より上は、お山開きにの日以外は閉ざされていました。お山開きの日のみ、神門は開きました。


孝行
話を本社に戻します。
親孝行の姿を写させていただきました。



本社への石段を上ります。
手すり代わりの鎖は、石鎚山鎖禅定の鎖が使われています。つまりこの石段は、足弱にとっての鎖禅定ということでしょう。
鎖をしっかりと握って、ゆっくりと、この難所を上りなされや、この上に、石鎚の神はいらっしゃる。


本殿
本社本殿です。平成17(2005)撮影。今は、だいぶ朱が抜けてきています。


景色
瀬戸内海が見えます。


登拝道へ
祖霊殿の近くに鳥居があり、石槌神社の扁額が架かっています。
石鎚山頂 ・ 頂上社につづく長く険しい道が、ここから始まっています。本社が口之宮ともよばれる所以の道です。口之宮→中宮成就社→奥宮頂上社。
標高50㍍ほどの当所から、標高418㍍の二並山に上り、黒瀬峠に降りてゆきますます。黒瀬峠は標高177㍍ほどで、ここには石鎚神社一の鳥居が建っています。


登拝道
二並山は東の遙拝所(因みに西の遙拝所は星が森)でしたが、それはまた、頂上を目指す人たちに与えられる、最初の「試練」でもありました。
はるか遠くに霊峰石鎚を拝み、前途の多難を思いつつも、登るべき山とこれを見定める。二並山の遙拝所は、そんな場であったでしょう。


図面
・・道は何年か前に整備したんですけどね、今はもう、草が茂って、・・二並山の道は今は通りにくいと、神社の方が話してくださいました。
けれど、整備の計画はあるそうです。いつか歩いてみたい道です。

  黒 瀬 峠

黒瀬峠
黒瀬峠には、石鎚神社一の鳥居が建っており、すこし高い所に、光昌寺と森岡神社があります。
写真は、光昌寺への登り口です。森岡神社は、光昌寺の奥です。


光昌寺
光昌寺は、補陀落山光昌寺といいます。宗派は石鎚山真言宗です。後述する極楽寺の末寺になっています。
長く無住で荒れていましたが、今は見事に復活しています。私はここで、楽しい時間を過ごさせていただきました。・・あまりの楽しさに、うっかりバスの時間が迫っていることに気づかず、森岡神社と一の鳥居を見逃すことになってしまったのですが・・。それも又よし。


黒瀬湖
加茂川を堰きとめて、昭和47(1972)、黒瀬ダムが竣工。黒瀬湖が誕生しました。
光昌寺と森岡神社は、ダム湖に沈んだ集落から、昭和45(1970)、ダム湖を見下ろす当地に、遷されたのだといいます。


第一福王子社
一の鳥居を過ぎ、これより石鎚山三十六王子社をたどる、登拝道が始まります。
第一福王子社については、前号で記しました。


第二桧王子社
第二桧王子社についても、前号で記しました。(第一と第二の間は、私はズルをして、車道を歩いています)。


民家
第二桧王子社の先に民家が在り、幸いお話しすることができました。
第三王子社への道を尋ねると、・・桜を下にゆくんよ。ほやけど、今はどうじゃろか、止めといた方がええよ。・・と言います。
ここで「桜」といえば、旧大保木小学校校庭の染井吉野大樹をいうんだそうです。そこから、下に行く道があるのだといいます。


大保木小学校
民家の人は、・・私らも通いよったけん、昭和60年頃までやっとったんとちがうか、・・と話してくれました。


遊具
今はもう、子たちの声は聞こえません。
この桜は、民家の方がいう「桜」ではありません。



これが「桜」です。


第三王子社へ
仰るとおり、王子道を示す札があります。



これが「下」です。
一目見て、止めました。奈落の底に落ちるようです。
大保木は、古くは大崖(おおほき)とも表記されたとのことですが、なるほど、であります。
上の道を歩き、極楽寺に向かいます。


校門
なんと、この石段は通学路だったようです。
左の石垣は、校庭の平地を作り出すため積んだものです。昭和29(1954)校庭拡張工事が、近辺大字の人たちの献身により成されたと、校庭片隅の記念碑(昭和42建立)に刻まれています。昭和39(1964)には校舎が改築されたことも記されていますが、残念ながら開校年は、わかりません。

  極 楽 寺

極楽寺
九品山極楽寺は石鎚山真言宗の総本山。前述の光昌寺は、極楽寺の末寺です。
ご本尊は阿弥陀三尊と、その変化たる御三体の蔵王大権現です。
 阿弥陀如来  その変化たる 石鎚金剛蔵王大権現
 勢至観音菩薩 その変化たる 無畏宝吼蔵王大権現(むいほうく蔵王大権現)
 正観音菩薩  その変化たる 龍王宝吼蔵王大権現(りゅうおうほうく蔵王大権現)
それでは、修行階段333段を上り、極楽浄土を垣間見させていただきましょう。


極楽寺
石鎚信仰は初め、瓶ヶ森、笹ヶ峰に創まり、次第に石鎚山に収斂されてきたといいます。この辺のことについては、 (H30春 3) 石土宗総本山石中寺の記事でふれていますので、ご覧いただきたいと思います。
石土宗の「石土」が、この場合、瓶ヶ森を指していることは、前に記しました。


石中寺
石中寺は今も毎年、7月1日より「石土入峰」を催行しています。西之川の石中寺別院から石土(今日でいう瓶ヶ森)山頂へ、石土大権現を遷し奉ります。


本坊
さて極楽寺ですが、この寺もまた、瓶ヶ森への信仰にかかわっています。
今は廃寺となっていますが、天河寺(てんがい寺)という寺がありました。瓶ヶ森信仰の別当寺で、石鎚山でいえば常住の前神寺に相当する寺だったといいます。
平安から室町時代にかけて隆盛を極めましたが、室町末期、兵火に遭って炎上・焼失。かろうじてご本尊のみは持ち出すことを得、(焼土から掘り出されたともいう)、これを安置し奉るために建てたのが、極楽寺であると伝わります。
かつては、正法寺(後述)→天河寺→弥山(瓶ヶ森)とつづく、登拝の道があったとのことです。


重森
極楽寺から加茂川をはさんで南東方向に、「重森」という山があります。写真の一番高い山で、標高は1040㍍あります。
重森から手前方向に伸びる尾根上、標高800㍍ほどの所に「龍王山」があり、そこに天河寺は在ったとのことです。残念ながら写真上で、そのポイントを示すことは出来ません。


極楽寺天狗堂
場所が飛びますが、ケーブル乗り場(下)の近くに、極楽寺の天狗堂がありました。石鎚山大天狗法起坊堂とあります。
法起坊は八大天狗の一で、役行者の天狗名です。

  石鈇山正法寺

正法寺
石鉄山 往生院 正法寺です。
新居浜市の大生院(おおじょう院)に在る正法寺(しょうほう寺)は、 (H30春 8) で記した小松の法安寺と並ぶ、伊予の古代寺です。大生院(地名)は往生院(寺名)から来ています。
笹ヶ峰を行場とする修験の寺で、かつては笹ヶ峰信仰の別当寺として機能していました。


正法寺
笹ヶ峰への信仰は、瓶ヶ森よりも早い時期に衰退しましたが、正法寺は今も毎年7月には、笹ヶ峰お山開きを差配、催行しています。黒森山越えの登拝道を行くようです。
(信徒高齢化のためでしょうか)ご本尊三体の内、一体のみを笹ヶ峰山頂にお遷りいただき、鎮座いただいているといいます。いつまでも続いてほしいものです。


石鈇山勧請文
正法寺の石鈇山勧請文です。
・・石鈇山大権現、米持大権現(よねじ大権現)、満山護法大権現(まんざんごほう大権現)・・・数満騎天狗に至る迄、此の所に勧請し奉る。仰ぎ願わくば諸願成就せしめ給え。敬白す(つつしんでもうす)。
中頃に神変大菩薩(じんぺん大菩薩)とありますが、これは役行者です。眷属法起坊は役行者の天狗名。石仙大菩薩について四国遍礼霊場記(寂本)は、「此石仙は役行者の再来とす」と記しています。
いろいろの譚が、「役行者」に集約されているのでしょう。こういうところが面白いのです。

さて、ご覧いただきましてありがとうございました。大きなテーマがやや手に余り、散漫の嫌いがあります。いかがだったでしょうか。
次回更新は5月1日の予定です。
が、4月は遍路のハイシーズンです。そのため場合によっては、一週間ほど遅れることがあるかも。その場合は、ご容赦ください。

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3 コメント

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新・土を踏み 風に祈る。 それだけでいい。 (天恢)
2019-04-08 16:33:44
 今年も桜咲く季節の到来です。 当年とって75という年齢はいつ死んでもおかしくない歳ですから、『あと何回散る桜を見ることができるだろうか?』と、しんみりした気持ちにもなります。
 さて、今回遍路の「土居構え~極楽寺」ですが、「石鎚信仰」という大きなテーマに沿って、そこから派生する興味深い譚(はなし)に思いをはせながら道中記を楽しく読ませていただきました。 
 先ず石鎚信仰ですが、山伏の元祖とされる役行者(役小角)によって開山された霊峰石鎚山に山裾の口之宮本社から中腹の中宮成就社を経て、山頂の奥宮頂上社へ登拝する山岳信仰です。 この役行者という方は、飛鳥時代の大和に実在したといわれる呪術者だそうで、鬼神を使役し、呪術を自由自在に操ったといわれ、全国各地に神秘的な伝説を残しています。
 天恢も、つい最近、「日本一危険な国宝」で知られる鳥取県にある三徳山三佛寺投入堂を登拝してきたばかりです。 この投入堂は、役行者が法力で断崖絶壁にある岩窟に投入れたと伝えられていますが? 「楽しく遍路」さんも 『いろいろの譚が、「役行者」に集約されているのでしょう。こういうところが面白いのです』と、紹介されています。
 それにしても、石鎚山にも王子がいらっしゃったんですね? 三十六王子も! 熊野古道を歩いた頃を懐かしく思い出しました。 修験道・山岳信仰である石鎚信仰も、熊野信仰も、奈良・平安時代以降、脈々と続く日本人の信仰の主流となった神仏習合で、「神も仏も一緒」というカタチでした。 この穏やかな宗教秩序が明治政府の神仏分離策によって「廃仏毀釈」と呼ばれた蛮行まで発展したことは、日本人として悔やんでも悔やみきれない史実です。
 このテーマは大きく、手に余り、散漫なコメントになりそうなのでここらで止めますが、いよいよ「平成」の御代から「令和」に改元されます。 『日本の神々は名前をもたず、また姿もありませんでした。ただ気配のみがあって』という存在で、『かたじけなさに涙こぼるる』ところで留めておきたいものです。

 さてさて、今回のタイトル『新・土を踏み 風に祈る。 それだけでいい。』は、元朝日新聞記者で、『四国遍路』(岩波新書)など遍路に関する著作も多い辰濃和男さんのご逝去を悼み、今回で最終のコメントをさせていただきます。
 辰濃さんの著書を読んで、「民宿久百々」、「みっちゃん民宿」、「栄屋旅館」、「民宿岡田」に泊まりました。 また俳人・山頭火、歌人・吉井勇、詩人・野口雨情や三好達治などの文芸作品にも遍路を通してふれてみました。 その中でも、ほぼ100年前に24歳の女性ながら四国を遍路した高村逸枝が一番心に残っています。 その著『娘巡礼記』(岩波文庫)には、テントも寝袋もない野宿や病苦に苛まれながらの凄まじい遍路が描写されています。 こんな辛苦を味わっても彼女を遍路に駆り立てたものは何か? 時代がどんなに進化しても、遍路の本質を知るためにこれもお勧めしたい一冊です。
 天恢も2巡目の遍路が終わって、終わりのない3巡目の遍路をダラダラ続けております。 もしかしたら、『ただ旅をしたいだけ』なのかもしれません。 日本で四国だけは、誰にも怪しまれずに好き勝手に歩き回れる聖地ですから・・・。
 3回にわたっての辰濃さんへの追悼コメントになりましたが、最後に『四国遍路』の「結ぶ」にある
『遠くない日、「ただ旅をしたいだけ」というのびやかな気持ちでまた、四国路を踏みしめることができればと思う。四国路は、私の生涯の師になってくれるだろうか。』 を結びの言葉とします。
百人百様 (楽しく遍路)
2019-04-12 08:37:03
前回は親子遍路のことを書きました。今回は、若い遍路のことです。
阿波路で若いお遍路さんと出会い、3日間にわたって、前になり後ろになりしながら歩きました。本来ならとっくに先に進んでいるはずの人なのですが、その時はちょっと足を痛めていたようでした。

たまたま同宿が二人だけだったので、いろいろと話しました。
なぜ歩いているか、という話になったとき、彼はいいました。
・・四国遍路を歩き通したと言えば、周りから、根性があるヤツだと見られるじゃないですか。自分、来年が就活なんすけど、四国遍路、これ絶対、面接でウリになると思うんですよ。

聞いた当座は、あからさまな自利心の開陳に、やや私は辟易としていました。
しかし、よくよく考えてみれば、彼は偽りを語ろうとしているのではないのです。現に彼は今、足を痛めながら歩いています。
それもまたよし、と私は思いました。
見事歩き通して、就職面接では堂々と、四国遍路を語ってほしいものだ。1200キロを歩いた彼の自己アピールは、それなりの重みを持っているに違いない。彼はたいしたヤツなんだ。

もしかしたら遍路では、初めの動機なんか、どうであってもいいのかもしれません。
ただ歩き通したいと願って、歩けばいい。歩けば遍路道が、なにかを教えてくれる。なにかを変えてくれる。歩けば、それは祈りに通じる。
  土を踏み 風に祈る。 それだけでいい
さて、辰濃さんはなんとおっしゃるでしょうか。

天恢さん、コメントありがとうございました。ちょっと遅れてすみません。役行者などについても書きたかったのですが、書き切れませんでした。
投入堂参拝、お疲れ様でした。よく登れたものです。桜、この後、何回も見ましょうね。
セーカイセーカイダイセーカイ (楽しく遍路)
2019-04-12 20:21:58
天恢さんから、次のようなメールをいただきました。
読者が私だけではもったいないので、転載します。

・・辰濃さんは、どんなに迷っても、一度決めたら、何事も「よかった、正解だった」と思うそうです。
・・今日もいろいろあったけれども、まあ、なんとかいい一日を過ごすことができたと思う。失敗も数々あったが、上出来の日だったと思いこむ。自分をそう思うように仕向ける。
・・そのための呪文が「セーカイセーカイダイセーカイ」
(正解 正解 大正解)

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