若い人達へ

若い人に夢を託してお願いをする

たった1坪、2品で、年商3億!ー資産はなくても経営は出来るー経営の極意を学ぼう

2010-12-09 15:49:50 | 意見発表
たった1坪、2品で、年商3億!“幻の羊羹”を求めて、40年以上早朝から行列がとぎれない奇跡の店。78歳社長がはじめて明かす 吉祥寺「小ざさ」味と仕事
2010年12月7日(火)10:30ダイヤモンドオンライン

 JR中央線・吉祥寺駅北口から徒歩2分。「ダイヤ街」と呼ばれる商店街に、小さな小さな和菓子店、「小(お)ざさ」がある。店舗面積はわずか1坪にすぎないが、年商は3億円超。一般の菓子製造小売業の年間坪当たり販売額が約231万円(2007 年)なので、おそらく坪当たり売上高は日本一だろう。

 しかも、売っている商品は「羊羹(ようかん)」と「もなか」の2品だけ。羊羹は1日150本限定(1本580円)で、“幻の羊羹”ともいわれている。早朝4時、5時頃から、羊羹を買うために必要な番号札を求めて行列がとぎれない。この行列は40 年以上続いているから驚きだ。1個54円のもなかも、年末には1日4万個、年間通しても1日平均1万個売れ続けているという。


お店の前には、早朝から「幻の羊羹”を求めて」列ができる

 小ざさの創業は1951年。小さな屋台の団子販売から始まった。屋台には1日12時間、 365日休みなく、たった1人で店に立ち、その後、創業者である父・伊神照男氏の薫陶を受けて、羊羹づくりに人生を懸けてきたのが、稲垣篤子社長である。 12月3日には、78歳にして初めての本、『1坪の奇跡―40年以上行列がとぎれない 吉祥寺「小ざさ」味と仕事―』(ダイヤモンド社刊)が刊行された。

 それにしても、これだけの人気があれば、生産量を増やし、多店舗展開して、商いを大きくしようとは考えなかったのだろうか。

稲垣社長:店を大きくしますと、目が行き届かなくなりますね。昔の人はよく「身の丈の仕事」と言っていましたが、商売を大きくして大雑把になるよりも、いまやっている自分の仕事をきっちりと、ということでございます。

商売を長く続けるには広くよりも「深く」

稲垣 篤子(いながき・あつこ) 東京・吉祥寺にある和菓子店、「小ざさ」社長。 1932年、東京都生まれ。1956年、東京写真短期大学(現東京工芸大学)卒。 1951年11月19日に吉祥寺で父が「小ざさ」を創業。当時、畳み1畳の屋台の店で、19歳時から1日12時間、365日休みなく、団子を売り始める。 1954年、現在の店舗がある吉祥寺・ダイヤ街に移転後、品数を羊羹ともなかの2品に絞る。以来、現在も羊羹を練り続けている。
全国6500社超の会社を見続けている、法政大学大学院教授・坂本光司氏の著書『ちっちゃいけど、世界一誇りにしたい会社』でも、「小ざさは、本物のなかの本物」と紹介された。第1回「吉祥寺ダイヤ街みんなで選んだいい店大賞」受賞。本書が78歳で初の著書となる稲垣社長:先代の父が、それはよく言っておりました。「名物にうまいものなし、と言われるが、名物になるまではおいしかったんだ。それが名物になって、どんどんつくっているうちに、同じようにつくっていても、ついつい大雑把になってしまう。商売を長く続けるためには、広げるよりも『深く』」と。

 羊羹は「和菓子の王様」といわれるが、材料は小豆(あずき)と砂糖と寒天だけ。前日から小豆を洗い、早朝にそれを炊き、水にさらして絞ったものを「呉(ご)」という。砂糖と寒天を煮詰めておいたものを銅鍋に移し替え、呉を入れて熱しながら、ヘラを使って練り上げる。この「練り」こそが、職人の腕が問われる最終工程だ。

稲垣社長:それはなんと言いますか、ただただ、少しでもいい品物をつくるということなんでございます。これも父が言っていたことですが、「お菓子にはつくり手の気持ちや性格が丸ごと出てしまう」と。

 本当に、それぞれの性格が出ます。みないいものをつくろうと思っているのですが、つくり手によって微妙なところが違ってまいります。私などは性格が一直線なので、まっすぐな味、になりますし、亡くなった叔父はおっとりした性格なので、おっとりした羊羹、ができていました。

30年以上にわたって続いた2人だけの試食
 同じ1分間でも、力の入れ方とか、練りを何回にするかでも、味が違ってきます。ですから、従業員には、「ゆっくり、ゆっくり、焦がさないギリギリのところで、餡(あん)をゆっくり練るように」と言っております。

 現在のダイヤ街に店舗を構えたのが1954年。そのおいしさが評判を呼び、羊羹を求める列ができ始めたのが1969年頃からだ。父の照男氏は、細かいことは何も教えてくれなかった。父と娘は、父が亡くなる直前まで、30年以上にわたって、2人だけで前日につくった羊羹の試食を毎朝続けた。しかも、お腹いっぱいにしてから。父は血糖値が450になっても“毎朝の儀式”をやめようとしなかった。そのときにも、「もうひと練り」とか、「呉の絞りがなっとらん」と、ただひと言、手短な批評を発するだけだったという。


創業者であり父であった伊神照男氏稲垣社長:「ああだ、こうだ」と、手取り、足取り教えると、そのときはできますが、それはただ形を覚えただけのことです。和菓子づくりは形だけではできません。今日のように雨が降り出して、気温や湿度が変化すると、それで条件が全部違ってきますから、その変化を体で感じないといけないのです。

 いまの若い人は、みんな急ぐんですね、気持ちが。すべてすぐに結果を出したい。順序を覚えたら、すぐに次をやりたい。だから、形だけ覚えてもダメなのです。「気持ちはゆっくり、ゆっくり」と言っているんです。

機械は人間の五感にはかなわない
自分が一番だと思ったら天国に行かないといけません
 羊羹の試食現場で、照男氏が「うん」とだけ言って、首をタテに振ったことがある。稲垣社長が羊羹を練り始めて、30年ほど経ったとき、それは照男氏が亡くなる前日だった。羊羹づくりで、100点満点と感じるときはあるのだろうか。

稲垣社長:自分が一番だと思ったら、天国に行かなければいけません(笑)。100点満点まで行ったことはありませんが、餡(あん)が一瞬だけすごくいい色になることがあるんです。

羊羹づくりに取り組む稲垣社長。かま場は火を使うので、冬でも室内の温度は30度を超す 餡をずっと練っていると、初めは白っぽい紫色なのですが、それがだんだん澄んできて、一瞬紫色に輝くのです。そのときはすごくうれしい。でも、自分でよかった、よかったと思っていると、すぐにダメになっていまいます。

 火の加減にしても、鍋をかける前は炭(小ざさでは釜の燃料に炭を使っている)が見えますが、鍋をかけてしまうと、もう炭が見えない。そうすると、火の強弱が、手のひらを通して伝わってくる。手のひらがセンサーなんですね。鍋の中のあぶくが小さいものから大きくなってきたり、餡の表面が少し粘っこくなったり、一瞬、一瞬で違いますから。

 いくら温度や湿度を計測して全自動でやろうとしても、人間の五感には絶対かないません。その一瞬、一瞬を感じる五感を、昔の人は自然から受け取っていたと思うんですね。日本人は四季の移ろいを、無意識に受け止めていたから、繊細で素晴らしいものができたのではないでしょうか。

通帳の数字を増やすより信用を貯金する
たとえば、色彩でも、夕方あたりの暗くなる少し前の様子を表す色に、鳩羽色(はとばいろ:紫を帯びたねずみ色)という言葉があります。それがいまは「夕焼け」ひと言で片づけられてしまう時代です。私たちの時代に、そういう感覚を退化させてしまうのはもったいない。そうしないためには、いまは意識的に人間のほうが自然の中に入っていかなければいけません。

 日本人がそういう繊細な感覚を失ったら、世界に出て行ったときに、太刀打ちできないと思うのです。ものをつくるときでも、みながそういう感覚を持っていて欲しいと思います。

通帳の数字を増やすより信用を貯金する
 当然ながら、最高のものをつくろうと思えば、材料が命。その点では、材料を仕入れる問屋との関係もまた重要だ。小ざさが小豆を仕入れている問屋さんとのつき合いは、かれこれ50年にも及ぶという。

稲垣社長:何軒も問屋を入れて、値段で競争させるというようなことはしていません。誰でも儲けたいですよね。だから、そういうことをすると、いい材料と悪い材料を、混ぜこぜにして持ってきたりしますから。

 小豆の仕入れを一つの問屋さんに絞っているのは、互いの信頼関係の賜物です。「お互いに商売だから、あなたが一番いいと思ったものを持ってきてください。その代わり、お支払いはすぐしますけれども、おかしなものを持ってきたらすぐに返します」と、いつも言っております。「問屋は育てるもの」というのが父の口癖でした。こちらも誠心誠意おつき合いすると、あちらもそれに応えてくださいます。

 それから、もなかの皮のことを「種(たね)」というのですが、専門の種屋さんで特別につくってもらっています。父がその種屋さんと初めて取引をするときに、「種を卸すと思わないで、吉祥寺の店であなたも一緒に売っていると思って、つくってください」と言ったそうです。

種屋さんと私たちは運命共同体
 その種屋さんが代替わりした際に、私も新しい社長さんに、「あなたは皮、私はあんこ、だから私たちは運命共同体です」と、申し上げました。私たちも絶えず研究しているので、少し問題を感じたら、すぐ言うようにしています。そのようなやり取りをずっとしていると、お互いに気心が知れるというか、わかりあえるようになりますね。

種屋さんが精魂こめてつくった種を使い、工場では次々ともなかができる 1954年に、小ざさが羊羹ともなかを売り始めたときの値段は、羊羹が1本120円、当時あった半分のサイズが60円、もなかは1個10円だった。その後、値上げせざるを得ないときでも、もなかは、1~3円刻み、羊羹は10円刻みで値上げした。現在、羊羹は1本580円、もなかは1個54円。もなかを値上げしたのは、かれこれ15年前。その人気からすれば、もっと高くしてもよいと思うのだが……。

稲垣社長:値段はできるだけ抑えていい品物をつくる、というのが方針でございます。父は「儲かるからといって、銀行の通帳に数字をたくさん並べるよりも、お客様の“信用”を貯金しておけ」と、言っておりました。父は戦後、満州から裸一貫で引き揚げてきたので、つくづくそう思ったようです。

「たとえば、大きな震災が起こって、お店がつぶれたとしても、戸板1枚と材料さえあれば、お菓子をつくることができる。そういうときでも、お客様が小ざさの羊羹が食べたいと言って買ってくださる。それが信用で、そういう信用が大事なのだ」と、常々言っておりました。

品数だけを増やしても、結局、売上は伸びない
 2品だけでやっている理由は、他のお店を見ていますと、品物が売れなくなると、やはり新しいものをつくる。そのときは、売上がぐっと上がりますが、しばらくするとまた元に戻ってしまうことが多いからです。

 売れなくなったからといって種類だけ増やしても、結局は品数が増えただけで、全体としての販売数量はそれほど変わりません。ただ、2品しかありませんから、少し売上が落ちてきたときには本当に怖い。ですから、そういうときにはどこが悪くなっているのか、始終点検しておかないとダメなんです。

 父はあるときから、「あとはお前に任せる。何かあったときには、決断するのはお前の腹一つ」と言うようになりました。九州弁で、「社会情勢をよう見て、よう考えて、やらんといかんよ」と。しょっちゅうプレッシャーがかかっていたんですよ(笑)。

※後篇は12月14日公開予定です。障がいのある社員と従業員の育成、時代とともに変えるべきもの、変えてはいけないものなどのテーマでお話をうかがいます。乞うご期待!

●編集部からのお知らせ●
「125歳まで生涯現役!」を掲げる稲垣社長の78歳処女作、『1坪の奇跡―40年以上行列がとぎれない 吉祥寺「小ざさ」味と仕事―』(ダイヤモンド社刊)が好評発売中です。雑誌「商業界」の最新2011年1月号「日本でいちばん大切にしたい店」で、「小ざさ」が取り上げられました。また、土井英司編集長の「ビジネス・ブック・マラソン」(12月2日付)でも、本書が紹介されました。ぜひご一読ください。



コメントを投稿