DA CAPO
柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ
柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ
柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山
この歌は、詞が先に大正8年(1919)、雑誌「少女号」に発表され、楽譜は、同12年(1923)5月、童謡集「子供達の歌 第三集」(白眉出版社刊)に、
詞とともに掲載されていました。
作詞した海野厚(本名=厚一)は、明治29年(1896)、静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)の旧家に生まれ、旧制静岡中学から早稲田大学に進みました。
そして、童話雑誌『赤い鳥』に投稿した童謡が北原白秋に評価されたことから、童謡作家の道を歩み始めるわけですが、大正14年(1925年)、28歳10か月の若さ
作詞した海野厚(本名=厚一)は、明治29年(1896)、静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)の旧家に生まれ、旧制静岡中学から早稲田大学に進みました。
そして、童話雑誌『赤い鳥』に投稿した童謡が北原白秋に評価されたことから、童謡作家の道を歩み始めるわけですが、大正14年(1925年)、28歳10か月の若さ
で亡くなってしまいます。
ところで、この歌ではよく話題になることが2つあります。
まず、背くらべは普通毎年行うのに、去年ではなくて、おととしのきずと比べているのはなぜか、ということです。
もう1つは、「やっと羽織のひものたけ」の意味、これは、ひもの長さしか伸びていなかったとする解釈と兄さんのひもの位置までしか伸びていなかったという
ところで、この歌ではよく話題になることが2つあります。
まず、背くらべは普通毎年行うのに、去年ではなくて、おととしのきずと比べているのはなぜか、ということです。
もう1つは、「やっと羽織のひものたけ」の意味、これは、ひもの長さしか伸びていなかったとする解釈と兄さんのひもの位置までしか伸びていなかったという
解釈の2説があります。
このなぞを解くには、この歌詞がどういう状況で作られたかを知る必要があります。
厚は7人きょうだいの長兄で、末弟の春樹とは17歳の年齢差がありました。
弟の1人、欣也は後年、あるインタビューに答えて「あの歌はわれわれ兄弟姉妹のことを歌った生活記録だった」と語っています。
ですから、この歌詞はきょうだいの交流から生まれたものと見てさしつかえないでしょう。
また、歌詞は厚が東京遊学中の23歳のときに作られました。
最初のなぞについては、「去年の」では音数が合わないため、あえて「おととしの」にしたという説もありますが、厚が何らかの事情で2年間帰郷できなかったから
このなぞを解くには、この歌詞がどういう状況で作られたかを知る必要があります。
厚は7人きょうだいの長兄で、末弟の春樹とは17歳の年齢差がありました。
弟の1人、欣也は後年、あるインタビューに答えて「あの歌はわれわれ兄弟姉妹のことを歌った生活記録だった」と語っています。
ですから、この歌詞はきょうだいの交流から生まれたものと見てさしつかえないでしょう。
また、歌詞は厚が東京遊学中の23歳のときに作られました。
最初のなぞについては、「去年の」では音数が合わないため、あえて「おととしの」にしたという説もありますが、厚が何らかの事情で2年間帰郷できなかったから
とする説が有力です。
1年おいて帰郷して弟の背を測ったから、おととしのきずと比べることになった、というわけです。
2年間帰郷できなかったのは、病気療養中だったという説と作詞活動に没頭していたためとする説がありますが、正確なところはわかりません。
2については前者、すなわち「ひもの長さしか伸びていなかった」とする解釈が圧倒的多数です。
童謡・唱歌の解説書やネット上の情報でも、ほとんどがそう説明されています。
確かに、平成17年度の男児の平均身長表を見ると、6~9歳児は1年平均5.5センチずつ伸びています。
大正時代ですから、伸び率はもう少し低かったとしても、2年で10センチ見当は伸びていたはずで、これは子ども用羽織のひもの長さとほぼ一致します。
おととしのきずと比べると、ぼくの羽織のひもの長さほどしか伸びていないんだ、とちょっとがっかりしているわけですね。
しかし、もう1つの説も、それほど説得力がないわけではありません。
詩を作ったのが厚23歳のとき。背くらべがこの年だったとすると、末弟の春樹は6歳で、身長はおそらく110センチ前後。
この高さはちょうど成年男子の羽織のひもの位置に当たります。
つまり、「ずいぶん伸びたと思ったのに、やっと兄さんの羽織のひもの位置に届いただけだった」と解釈できるわけです。
通説には、ついつい、刃向かいたくなるマスターとしてはこの説のほうが納得できます。(笑)
1年おいて帰郷して弟の背を測ったから、おととしのきずと比べることになった、というわけです。
2年間帰郷できなかったのは、病気療養中だったという説と作詞活動に没頭していたためとする説がありますが、正確なところはわかりません。
2については前者、すなわち「ひもの長さしか伸びていなかった」とする解釈が圧倒的多数です。
童謡・唱歌の解説書やネット上の情報でも、ほとんどがそう説明されています。
確かに、平成17年度の男児の平均身長表を見ると、6~9歳児は1年平均5.5センチずつ伸びています。
大正時代ですから、伸び率はもう少し低かったとしても、2年で10センチ見当は伸びていたはずで、これは子ども用羽織のひもの長さとほぼ一致します。
おととしのきずと比べると、ぼくの羽織のひもの長さほどしか伸びていないんだ、とちょっとがっかりしているわけですね。
しかし、もう1つの説も、それほど説得力がないわけではありません。
詩を作ったのが厚23歳のとき。背くらべがこの年だったとすると、末弟の春樹は6歳で、身長はおそらく110センチ前後。
この高さはちょうど成年男子の羽織のひもの位置に当たります。
つまり、「ずいぶん伸びたと思ったのに、やっと兄さんの羽織のひもの位置に届いただけだった」と解釈できるわけです。
通説には、ついつい、刃向かいたくなるマスターとしてはこの説のほうが納得できます。(笑)