五輪真弓
枯葉散る夕暮れは
来る日の寒さをものがたり
雨に壊れたベンチには
愛をささやく歌もない
恋人よ そばにいて
こごえる私のそばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい
砂利路を駆け足で
マラソン人が行き過ぎる
まるで忘却のぞむように
止まる私を 誘っている
恋人よ さようなら
季節はめぐってくるけど
あの日の二人 宵の流れ星
光っては消える 無情の夢よ
恋人よ そばにいて
こごえる私のそばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい
来る日の寒さをものがたり
雨に壊れたベンチには
愛をささやく歌もない
恋人よ そばにいて
こごえる私のそばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい
砂利路を駆け足で
マラソン人が行き過ぎる
まるで忘却のぞむように
止まる私を 誘っている
恋人よ さようなら
季節はめぐってくるけど
あの日の二人 宵の流れ星
光っては消える 無情の夢よ
恋人よ そばにいて
こごえる私のそばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい
風にゆかりのある字としては、たこ揚げのたこ「凧」や、あるいは夕凪のなぎ「凪」、そしてこがらしの「凩」の字が思い浮かべると思いますが、
風に布巾や巾着の布を意味する「巾」を入れて凧、風が「止」まると書いてなぎ、そして「木」を枯らすような風だから凩というのが字の成り立ちです。
これらは、中国で作られた文字、いわゆる漢字ではないため、国字とも言われています。
では、中国では、凩という字がないのなら、中国語で凩はどう表すのでしょうか。
中国語への翻訳ソフトを使うと、凩は、「寒風」、「秋風」に変換されました。
ここで変換された風という字は、正確には、中国では簡体字を使っているため、風は、「几」の中に「メ」入れたような字で表記されましたが、
これらは、中国で作られた文字、いわゆる漢字ではないため、国字とも言われています。
では、中国では、凩という字がないのなら、中国語で凩はどう表すのでしょうか。
中国語への翻訳ソフトを使うと、凩は、「寒風」、「秋風」に変換されました。
ここで変換された風という字は、正確には、中国では簡体字を使っているため、風は、「几」の中に「メ」入れたような字で表記されましたが、
いずれにしろ、「凩」は、単なる「寒風」や「秋風」とは、ニュアンスが異なりますから、やはりこれは日中の文化の違いなのでしょうか。
ともかく、大袈裟に日本文化と言っても、今は「凩」は和歌や俳句、小説などの文学に使われる例は見られるものの、日常的には、木枯し(こがらし)と
ともかく、大袈裟に日本文化と言っても、今は「凩」は和歌や俳句、小説などの文学に使われる例は見られるものの、日常的には、木枯し(こがらし)と
書くことが多いような気がします。
すなわち、木枯しとは、晩秋から初冬にかけて吹く冷たい風のことですが、色づいた木々を、さらに吹き枯らすような強い風のことを意味しますから、
すなわち、木枯しとは、晩秋から初冬にかけて吹く冷たい風のことですが、色づいた木々を、さらに吹き枯らすような強い風のことを意味しますから、
言いえて妙な言葉です。
気象学的には、10月半ばから11月末にかけて、日本の太平洋側地域において、冬型の西高東低の気圧配置になったとき、
気象学的には、10月半ばから11月末にかけて、日本の太平洋側地域において、冬型の西高東低の気圧配置になったとき、
北寄りの風で、秒速8メートル以上の風を木枯しと呼ぶそうです。
なお、ニュースや天気予報でよく耳にする、木枯し1号というのは、その年の秋以降に、最初に吹く木枯しのことですが、木枯しが太平洋側で吹く風であるために、
なお、ニュースや天気予報でよく耳にする、木枯し1号というのは、その年の秋以降に、最初に吹く木枯しのことですが、木枯しが太平洋側で吹く風であるために、
関東地方(東京管区気象台)と近畿地方(大阪管区気象台)のみ、最初の木枯しを、木枯し1号が吹いたと発表されるだけで、札幌や仙台、福岡の他の管区気象台では
発表されていないそうです。
北海道や東北はそもそもが冷涼な気候風土の土地柄ですし、福岡は日本海側にある土地柄なために、もちろん冷たい風は吹いても、
北海道や東北はそもそもが冷涼な気候風土の土地柄ですし、福岡は日本海側にある土地柄なために、もちろん冷たい風は吹いても、
気象の定義では、木枯しではないことになります。
とはいえ、晩秋から初冬の木々を枯らして吹きすさぶ冷たい風は、体感として感じる、あるいは感性として感じるものとして、やはり日本全国いずこであっても、
とはいえ、晩秋から初冬の木々を枯らして吹きすさぶ冷たい風は、体感として感じる、あるいは感性として感じるものとして、やはり日本全国いずこであっても、
木枯しなんでしょうね。
そんな季節の変わり目に吹く木枯しに、時の移ろいを感じるのも日本人の感性でしょうか。
紅葉のように燃え上がる諦め切れぬ想いや、枝にしがみつく枯葉のような一途な断ち切れぬ想いは、 心変わりは人の世の常とは分かっていても、
そんな季節の変わり目に吹く木枯しに、時の移ろいを感じるのも日本人の感性でしょうか。
紅葉のように燃え上がる諦め切れぬ想いや、枝にしがみつく枯葉のような一途な断ち切れぬ想いは、 心変わりは人の世の常とは分かっていても、
割り切れない想いが残るようです。
恨みつらみも持ち合わせている、神や仏ではない、人ゆえの苦しみでしょう。
しかし、それすら、木枯しは吹き飛ばしてくれそうです。
そして、木枯しが、木々を枯らして、色づいた枯葉たちを吹き飛ばすからこそ、次に来る春に、葉や花となる、葉芽や花芽が出てくることもできるのです。
ポ-ル・ヴェルレーヌが詠んだ、ヴィオロンのため息に舞うような秋の日の枯葉たちの輪舞曲よりも、我が祖国日本の風土には、
しかし、それすら、木枯しは吹き飛ばしてくれそうです。
そして、木枯しが、木々を枯らして、色づいた枯葉たちを吹き飛ばすからこそ、次に来る春に、葉や花となる、葉芽や花芽が出てくることもできるのです。
ポ-ル・ヴェルレーヌが詠んだ、ヴィオロンのため息に舞うような秋の日の枯葉たちの輪舞曲よりも、我が祖国日本の風土には、
手風琴(アコーディオン)の響きを含んだ木枯しの調べが似合うのかもしれません。
そんな調べが奏でられる中で、すべては思い出の中に。
吹きかけて、暖めても、すべては白い霧に包まれた思い出の中に。
そんな調べが奏でられる中で、すべては思い出の中に。
吹きかけて、暖めても、すべては白い霧に包まれた思い出の中に。
この曲は1980年の大ヒット曲、アジア各国でも歌われました。
演歌系の歌手も歌いますが、この歌はやはり五輪真弓でなくてはなりません。
五輪真弓が硬質な声で歌うことによって、アクティブな生き方をしている知的な女性の失恋というイメージになります。
小節をころころ回す演歌の歌唱法では、これとは全然違うイメージの「捨てられ演歌」になってしまいますから・・・ネ。
厳しい暑さを迎える折ですから、気持ちだけでも木枯らし気分で・・・(笑)
演歌系の歌手も歌いますが、この歌はやはり五輪真弓でなくてはなりません。
五輪真弓が硬質な声で歌うことによって、アクティブな生き方をしている知的な女性の失恋というイメージになります。
小節をころころ回す演歌の歌唱法では、これとは全然違うイメージの「捨てられ演歌」になってしまいますから・・・ネ。
厳しい暑さを迎える折ですから、気持ちだけでも木枯らし気分で・・・(笑)