浅原才市

2016-08-03 20:49:26 | 日記

 浅原才市(1850〜1932)妙好人である。鈴木大拙が世に広く知らしめた。

 

才市のことばの出し方を見ていると、ことばの持つ躍動感がある。矛盾することをそのままに言うことで、ことばが記号としてのはたらきをやめて、急にこちらの胸に直接する。詮索するひまがない。うーむなどとあれこれめぐらしていることそのものが、邪魔になる。ダイレクトなのだ。思案しだすとなにもかも、半端になる。そんなことば群である。

 

「わしのこころは、あなたのこころ、

あなたごころが、わたしのこころ。

わしになるのが、あなたのこころ。」

「お慈悲も光明もみなひとつ。

才市もあみだもみなひとつ。

なむあみだぶつ」

「やれうれしや、弥陀のはん(判)、わしのこころについてある。

なみあみだぶつと申すはんこ、おやのはんこ、

子どもがもらうて、なみあみだぶつと申すばかりよ」

 

「わしのりん十(臨終)あなたにとられ。

りん十すんで、葬式すんで、

あとのよろこび、なむあみだぶつ」

「りん十まだこの(来ぬ)、このはずよ、すんでをるもの。

りん十すんで、なむあみだぶつ」

「今がりん十、わしがりん十、あなたのもので、

これがたのしみ、なみあみだぶつ」 

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4 コメント

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Unknown (風)
2016-08-03 22:38:23
えーなんだか、こんな人もおるのんかーって。なんだか困っちゃうなー。
Unknown (わ)
2016-08-05 21:22:23
禅語に一超直入如来地(いっちょうじきにゅうにょらいち、判断停止というか、思いを通さずにこのままをそのままする。)わたしと呼ぶものが阿弥陀さんからの応答であったと才市は受けとめたのだ。わたしというものはだれのまねもできずに、わたしはわたしのありようを生きている。崇高なものとしてここにおかれているようです。
Unknown (わ)
2016-08-06 21:49:18
あるいはまた、ぼくならば、なんまいだぶつを言えないこと。踏みとどまること、疑念を持ち続けることの大きさがだいじだな。
Unknown (風)
2016-08-07 17:05:29
うん、どんどん鈍磨していくっちゅーか、言えないと踏み止まることはそれもまた、、。気持ちがないとそうもなりませんね。そんなもんだであったり慣れ親しんで疑念しないもの。私、そんな感じですよね。

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