理念と方法論を備えた経済活動を駆使して、理想世界を創造する!!@和井恵流

世界を変えるのは、宗教活動などではなく、正しい理念と方法論を持った経済活動なのだ。

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ストレス(抑圧)と昇華作用(狂信)

2008年05月30日 11時56分25秒 | 明智
VTさんのブログには、
「ゴルゴ45 」さんというHNを持つ、常連さんがいます。

以前、その人と少しやり取りをしたときに、
このような問題を指摘されました。

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ここで和井さんがいわれるのは、
新皮質をR核からうまれる神経作用を
おさえようということなのでしょうけれど、
新皮質と旧皮質の関係はその生体原則から考えて、
新皮質が旧皮質に従属するといってもいいものです。

新皮質的に拮抗という処理を
おこなったという自覚が生じても、
それは結局は旧皮質にとりこまれ、
我として消化されてしまいます。

「欲動を抑えよう」と考え、
行動によってそのパターンを
神経上の可塑領域に書き込もうとしたとたんに
我となり昇華されてしまいます。
その結果、過度な自己主張などをおこないます。
いわゆるこれが狂信状態というものです。

あるがままの自分を受け入れ、人と協調して生きていく。

そうした人類が希求すべき精神と
大きく乖離するものではないかと思いますね

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簡単に言ってしまえば、
欲望なんて抑え込んでしまったら、
ストレスが溜まって、いつか爆発を起こして、
狂信状態(ストレスの昇華)になるだけですよ、
という指摘のようです。

しかし、この問題には、
実はちゃんとした対処法があるのです。

それは、離欲の実践を始める前に、
最初にまず「明智(如実知見)」を獲得する、ということです。

「苦しみを苦しみであると、ありのままに知る明智」

これが働くようになれば、
この問題は、簡単に解消されてしまうのです。


喩えば、目の前に、「小さな可愛らしいヘビ」がいたとします。
しかしそのヘビは、じつは恐ろしい「猛毒」を含んでいました。

それを知らない人は、可愛いので近寄ってみたくなるでしょう。
そこで生まれるのは「近寄りたい(渇望)」という欲求です。

しかし、噛まれたら、すぐに死んでしまうと、
すでに解ってしまっていたら、はたしてどうでしょうか?
それも、間接的な「知識」などで知るのではなく、
自分の持つ優れた智力で、
まさにありありとそれを「直視(実感)」するのです。

そのとき、心の中に生まれるのが、
「近づきたくない(遠離・厭離)」という欲求なのです。
つまり、これは無理やり心の中に生じさせるのではなくて、
ごく「自然に発生する」ものなのです。
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参考文献-その2

2008年05月30日 01時43分24秒 | 実践法
かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、
サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。
その時、ヴァッチャという外道の行者が、
世尊を訪ねてきた。
二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、
さて、彼は世尊に問うて言った。
「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。
これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」
「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」
「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」
「そうではない。」
・・・(中略)・・・
さらにヴァッチャは、
霊魂と身体とは同一であるか別であるか、
人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、
世尊がいずれの意見であるかを問うた。
だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、
かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、
[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]
に対する見解は、独断に陥っているものであり
、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない
、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。

(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」
『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁)
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参考文献-その1

2008年05月30日 01時38分25秒 | 実践法
ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、
ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。
そのとき、尊者マールンキャプッタは
人影のないところへ行って静思していたが、
その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、
無視されている。すわなち --- 世界は永遠であるとか、
世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、
世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、
魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、
人は死後存在しないとか…、
これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。
世尊がわたしに説かれなかったということは、
わたしにとって嬉しいことではないし、
わたしにとって容認できることでもない。
だからわたしは世尊のところへ参って、
この意味を尋ねてみよう……。

もし世尊がわたしのために、
これらのことを説かれないようなら、
わたしは修学を放棄して
世俗の生活に帰るとしよう。」

( 中略 )

「マールンキャプッタよ、 
わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、
わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、
わたしはそのようなことを教えてやると
言ったこともないのに、愚かにも、
おまえはわたしがそのように説くことを要求し、
そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。

( 中略 )

マールンキャプッタよ、
人間は死後も存在するという考え方があって
はじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があって
はじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、
人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

マールンキャプッタよ、
ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」
以上のことを世尊は語られた。
尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。

(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』
  中公バックス、473~478頁)
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小空経、出だし部分の意訳

2008年05月29日 23時21分31秒 | 
マッジマ・ニカーヤ 第121経

かつて、わたしは、アーナンダよ、
そして、今も、空性の住処に、多く住している。
あたかも、この鹿母堂が、空であるのは、
象や牛や馬や驢馬についてであり、
空であるのは、金や銀についてであり、
空であるのは、女と男の集まりについてであるのが、
この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、
そのように、実に、アーナンダよ、
比丘は、村の想いに集中することはなく、
人の想いに集中することなく、
森の想いによって独住に専念する。
かれの、森の想いに向かう心は、
躍進し、喜び、確立し、信にむかう。
かれはこのように知る。
(すなわち)あったのは、村の想いによる不安であるが、
それはここにはない。
あったのは、人の想いのよる不安であるが、
それらはここにはない。
あるのは、この森の想いによって独住する、
だだこの不安だけである。
かれは、
『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、
(それは)村の想いに対してである』と知る。
『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、
(それは)人の想いに対してである』と知る。
『あるのは、この、森の想いによる独住であって、
これだけでが、空でないものである』と(知る)。
以上のように、そこにまったくないそのものによって、
そこを空であると見る。
そこにまだ余っているものがあるとき、
そこにあるそのものを、『これがある』と知るのである。
このように、かれには、アーナンダよ、
この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現して存在している。



《 和井 恵 訳 》

アーナンダよ、私は、かつてもそして今も、
「空性の住処(空っぽの住まい)」と呼ばれる
意識状態に、多く留まっている。

それは、あたかも、
私たちが今いる「鹿母堂」において、空である
(空虚でそこに存在することが認められない)ものは、

象や牛や馬や驢馬についてであり、
(何故ならばこの場所にそれらは存在していないから)

金や銀についてであり、
(出家修行者は、無所有なので、それらを持っていない。
 だからこれらのものも、当然この場所には存在していない)

女と男の集まりについてであるが
(女と男の楽しい集まりなども、
出家者の住するこの場所には存在していない)

しかし、私たちは
ここで出家者教団として存在(独住)しているので、
これだけは「空である」と認めることは出来ない。

そして、これと同じように、実にアーナンダよ、

出家した修行者は、
村の想い(今まで生活していた社会の想念)に向かって、
自分の心が集中することは無く、

人の想い(現世でつきあった人々の想念)に向かって、
自分の心が集中することも無く、

森の想い(修行をするのに最適な、森の生活の想念)に
自分の心を集中させることによって、
独住生活(修行生活)に専念する。

そして、彼の、森の想いに向かう心は、
躍進し、喜び、確立し、信にむかう。

それは、彼がこのように知るからなのだ。

昔の私にあったのは、村の想いによる不安であるが、
それはここにはない。
昔の私にあったのは、人の想いのよる不安であるが、
それらはここにはない。
今あるのは、この森の想いによって独住する、
だだこの不安だけである。

そして、彼は、
『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、
(それは)村の想いに対してである』と知る。
『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、
(それは)人の想いに対してである』と知る。
『あるのは、この、森の想いによる独住であって、
これだけでが、空でないものである』と(知る)。

以上のように、
そこにまったくないそのものによって、
そこを空であると見る。
そこにまだ余っているものがあるとき、
そこにあるそのものを、『これがある』と知るのである。
このように、かれには、アーナンダよ、
この、「如実であって転倒なき清浄な空性」が
顕現して存在している。


「如実であって転倒なき清浄な空性」とは、
要するに「如実智見」のことです。

如実であって … 直接的であって
転倒 … 苦を楽であると見てしまう倒錯した誤認
清浄な空性 … 清らかな空虚さによって発現した智見

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刹那滅

2008年05月29日 12時17分52秒 | 因果律
喩えば、ここに両手があって、「右手」が「左手」を叩いたとします。
この「二つの手」が、全く別々(自己と他者)ならば、
私たちは「今まで通りのカルマの法則」を考えることが出来るでしょう。
しかし、二つとも同じ「わたし(自己)」の場合は、とうなってしまうのか?

この場合は、「因」を造ったのも自分だし、
(と同時に)その「果」を受けたのも自分なのです。

つまり、「因」と「果」は「同時存在」をして、
そしてすぐに「同時消滅」してしまうのです。

つまり、現れると同時に消えてしまう、「刹那滅」のカルマなのです。

喩えば、量子力学では、空間に、強いエネルギーを加えてゆくと、
二つの位相の異なった(真逆の)量子が「同時に出現して」(分裂)、
すぐにまたお互いを打ち消しあって
「同時に消滅する」(対消滅)ことが知られていますね。
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釈迦の説いた空

2008年05月29日 11時58分15秒 | 
釈迦はアーガマで「空」を説いていますが、
これは大乗仏教の「空」とは全く意味が異なります。
ナーガルージュナが「中論」などて説いている「空」は、
釈迦の説いた「縁起・相互依存性」を言い換えているのです。

釈迦の説いた「空」とはそうではなくて、
単純(シンプル)に「空っぽになる(消滅する)」という意味です。
つまりこれは、「ニルヴァーナに至る状態」のことなのです。


中部経典・小空経で表現されている「空」とは、

喩えば、Aという部屋にいて、そこには机と椅子と鞄があった、と。
鞄を持ったままその部屋を出て、Bという部屋へ行く。

その部屋には何も置いていない。

この部屋には、机と椅子が「空(からっぽ)」になってる、と
そこに無いモノを、ありのままに「これが無い」と知る。
しかし、鞄だけは手にしているので、「これは有る」と知る。

つまり、何が無くなってしまい(空虚になる)、
何がまだ残っている(余っている)のかを、ありのままに知る。

まだ余っているモノ(認識できるモノ)とは、「有為」のこと。
有為は、無常であるが故に、苦しみの因なので、
これが余っていることだけが、まだ私に不安を与えている。

「四禅定(色界の瞑想)」は、
尋・伺・喜・楽といった色界の構成要素を、
一つ一つ順番に消滅させてゆく、という瞑想法です。

つまり、「余り物」が、一つ一つ減っていく。
そのたびに、それに関する不安も空っぽになっていく。
そしてそのたびに、心の平安がさらに増してゆく。

「四無色定(無色界の瞑想)」も、
階層的なその世界(意識状態)を、
粗雑な状態からより微細な状態へと
順番に消滅させてゆく瞑想法なのです。


 アーナンダよ、もはや無所有処も非想非非想処も思わず、
 ただ無相心三昧に専心し、浄まり、確立している。
 それゆえにここには無所有処も非想非非想処もなく、
 その悩みも無い。 すなわち空である。
 しかし、いま専心している無相心三昧は空ではなく、
 残りものであり、それについて不安である。

 (中部経典・小空経)


すでに無いモノに対しては「空」なので、その悩みは無いが、
まだ残っているモノには、それについてはまだ不安がある。

この、残ってるモノが完全に消え去ると、
「完全なる心の平安(ニルヴァーナ)」に到達したと言えるのです。

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カルマの働き(その1)

2008年05月29日 07時00分13秒 | 因果律
仏教では、業(カルマ)の働きを四つに分類しています。
業因・業縁・業果・業報というのが正確な表記ですが、
普段はこれらを簡単に「因・縁・果・報」と呼んでいます。

因 … 原因(喩えて言えば、種子)
縁 … 助成する働き(根付くための土壌・水や日光など)
果 … 結果(豊かに実った果実)
報 … 影響(果実の中に内在する新しい種子・因)

蒔かぬ種は生えない、確かにそうですね。
因を無くせば果もなくなる。
理屈ではそのとおりです。
しかし、私たちはタイムマシンを使って
時間の流れを遡ることが出来ない以上、
すでに、過去に造ってしまった因を、
消去することは不可能なのです。

自分が蒔いた種から熟した果は、
刈り取ることしか出来なくなります(自業自得)。

そして、残された選択支は、
将来に禍根を残さないように、
新しい悪因を造らないように、
絶えず気をつけることしか出来無くなってしまうのです。

ですから、この方法では、
未来に起きる苦しみを避けることは出来たとしても、
今現在生じ続けている苦しみを、滅尽することは不可能なのです。

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因果論

2008年05月29日 06時58分26秒 | 因果律
因果論とは、要するに「無常(変化)の分析」です。
変化には三種類あります。

上昇(増加)の変化、 
下降(減少)の変化、
一時的な停滞。

これらの変化は、ランダム(デタラメ)に起きるのではなく、
条件によって生起し、条件によって消滅し、
そして、再現性があるので「法則性」がある。

しかし、その法則を、いくら研究し、
極めてみたとしても、
それらは、決して、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃には役立ちません。

何故ならば、無常(変化)をいくら研究しても、
無常そのものは何も変わらないからです。
逆に、その無常の変化に囚われ続けたままなのです。

ですから、その方法では、
「寂静(変化の消滅)」へは、至ることが出来ないのです
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小空経

2008年05月29日 06時55分12秒 | 
アーナンダよ、もはや無所有処も非想非非想処も思わず、
ただ無相心三昧に専心し、浄まり、確立している。
それゆえにここには
無所有処も非想非非想処もなく、その悩みも無い。
すなわち空である。
しかし、いま専心している無相心三昧は空ではなく、
残りものであり、それについて不安である。

(中部経典・小空経)

この教典を理解するポイントは、

「残り物(依存しているもの)」があると、不安が残る。
「残り物」が無くなれば(それを空じてしまえば)、
それらの不安も消えて、悩みが無くなる。

…ということです。
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「寂静(変化の消滅)」

2008年05月29日 06時40分26秒 | 涅槃
2ちゃんの掲示板で、キャンディちゃんが面白いことを言っていました。

  365 :キャンディ@起きてきましたよ:2008/05/26(月) 01:23:33
  むるてぃも思考はものを解決しないっていっているのね

  釈迦も思考は(しょせん作られたもので、
  有限であり消え去るもの)として
  それをよりどころとしなかった

有限であり消え去るもの、つまり「有為」はすべて無常である。
だから、それを依処(えしょ)としてはいけないよ、という教えです。

そして、ここでのポイントは「依処(よりどころ)とする」というこの言葉。

有為(生滅の変化を繰り返すもの)を依処(よりどころ)にすれば、
無常の苦が生起し、
有為を依処にする(有為に依存すること)のを止めれば、
無常の苦が消滅する。

よりどころとしなくなること。
これが、体験的には「対象の消滅」として認識されるのです。

変化するモノ(対象)に依存して、
「変化(という現象)」は、生滅をくり返しています。

ですから、変化するモノ(対象)が消滅をすれば、
変化そのものもまた、消滅してしまうのです。

例えば目の前に、目覚ましがうるさく鳴り響いていたとしても、
それを認識しなくなれば(対象の消滅)、
その音に悩まされることは無くなるのです。

逆に、拠り処があるから、不安になるのです。


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「三明智と八正道」

2008年05月29日 05時44分15秒 | 明智
苦・集・滅・道

この、シンプルな形で表現される「四聖諦」は、
最初の三つが「三明智」をあらわしていて、
最後の四番目に、「八正道(実践方法)」が置かれています。


苦 … 苦しみを、あるがままに苦しみだと見極め尽くす明智。
集 … 苦しみの「構成(成立条件・順縁起)」を正しく把握する明智。
滅 … 苦しみの「消滅(消滅条件・逆縁起)」を正しく把握する明智。

道 … 三明智を行動の依処とした、
     日常生活の中での、苦の滅尽に至る具体的な実践。
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択法(ちゃくほう)覚支

2008年05月29日 02時42分09秒 | 実践法
これは、「覚醒(悟り)を支える七つの要因」、
つまり「七覚支」の最初にくる修行方法です。
つまり、それが覚醒に役立つモノか、役に立たないモノなのかを
見極めて、必要なモノだけを選択してゆくこと。

釈迦は、どうでもいい(役に立たないこと)に対しては
「無記(説明しない)」を貫いていました。


かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、
 かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、
 霊魂と身体とは一体であるかどうか、
 人は死後にもなお存するかどうか、
 などのような種類の問い]に対する見解は、
 独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、
 見取の結縛にとらわれているのである。
 それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
 厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」

(マッジマニカーヤ 中部経典72、
    増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、)

「厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」
このような議論や会話、知識や人間関係などを退け、
「厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つ。」
このような議論や会話、知識や人間関係などを選択する。

求道者として、速やかな「覚醒(悟り)」を真に望むのならば、
この実践は、素晴らしい効果を発揮してくれるでしょう。
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「三明智(如実智見)」

2008年05月29日 01時39分20秒 | 明智
「明智」は、「無明」の対義語です。

無明(無知)が消滅したときに明智が現れる。

そして、この「無明の消滅(明智の発現)」によって、
「十二縁起」の「逆観(これなければこれ無し)」が生じて、
「苦しみの連鎖」が死滅するとされています。

「宿明智・死生智・漏尽智」が
三明智の内容であると認知されていますが、
これは明らかに間違いです。

「漏尽智(煩悩を滅し尽くす智力)」はともかくとして、
「宿明智(前世の宿業を知る智力)」や
「死生智(来世を見切る智力)」といったものが、
苦しみを、根元から滅尽させるだけの力は無いからです。

本物の三明智は、「四聖諦」の中に見いだすことが出来るのです。
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縁起とは何か?

2008年05月29日 00時45分51秒 | 縁起
それは、「相互依存関係」のことであるとされています。

喩えば、ここに二枚のトランプカードがあって、
お互いがお互いに寄りかかり、支え合い、
お互いの力を借りて、ようやくそこに立っている。
だからもし、どちらか一方が倒れてしまったら、
もう一方も必ず倒れてしまう。
このような関係で成立しているものを、縁起というのです。

この関係の特徴は、


《 縁起の法」の原型 》

これが有るときに、これが有る。
これが生起すれば、これも生起する。  (縁起の順観)

これが無ければ、これも無い。 
これが消滅すれば、これも消滅する。  (縁起の逆観)


AとBの関係は、「同時存在、同時消滅」であり、
可逆性のある関係(AもBも、因であると同時に縁でもある)なのです。

これは、時空列的には「同一(現在と現在)」の関係となります。
ですから、特殊な因果律(刹那滅のような)となるのです。

ただし、「十二縁起」と呼ばれているモノは、
同じ言葉(縁起)が使われてはいても、その内容は大きく異なります。

「十二縁起」については、また別の機会に説明をする予定です。
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何故、無常なのか?

2008年05月29日 00時08分00秒 | 無常
それは、一切の形成されたもの(有為)が、
縁起(相互に依存しあった関係)によって成立しているからです。
お互いがお互いに依存しあっている訳ですから、
それらは「自立することのできない」不安定な存在なのです。

何かに絶えず依存し続けなければ、
すぐに生存が途絶えてしまうという形成状態。

この、脆(もろ)くて不安定な生存状態に対して、
私たちもまた、同じように依存(執着や渇愛)をくり返している。
これが私たちの「不安(煩悩・苦しみ)」を創り出しているのです。

無常なるが故に苦なり。

しかし、この苦しみの原因となる「依存関係の生起」を止滅させたとき、
すべての苦しみ・悩み・不安は跡形もなく消滅し、
静かな心の平安(ニルヴァーナ)が訪れる…

釈迦は、それを「三(四)法印」として、弟子たちに示していたのです。
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