理念と方法論を備えた経済活動を駆使して、理想世界を創造する!!@和井恵流

世界を変えるのは、宗教活動などではなく、正しい理念と方法論を持った経済活動なのだ。

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 番外編 》その3-2

2010年03月19日 13時53分44秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
●実践するときに役に立つ(有効な)二つの「喩え」-「楽器の弦」と「筏(いかだ)」の喩え-

苦を滅尽する実践をするときに、とても役立つ二つの喩え話しがあります。
それが、「楽器の弦」と「「筏(いかだ)」の喩えなのですが、これらは別々のことを表現しているのではありません。
これらは同じことを、それぞれ別の角度から表現しているだけなのです。

ある囚われ(偏り・執着)に対して、それと真逆のベクトルを持つ教えをぶつけて「中和(ニュートラルに)」するという方法。

それが、例えば「緩みすぎた弦」(という心の状態)には「引き締めなさい!」という教え(助言)が依って起き(縁起)、
「引き締められ過ぎた弦」(という心の状態)には、「緩めなさい!」という教えが依って起きるのです。

これらの教えは、それぞれ「その囚われ(偏り・執着)」が消滅(解消)する「までは」有効なのです。
しかし、その偏りが消え失せた後でもその「教え」に拘り続けると、その教えが新たなる「囚われ」を造り出してしまうのです。
ですから釈尊は、「筏の喩え」を弟子達に教えることで、その目的を得たならば、その教えはすぐに捨てなさいと説いたのです。


|837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
|  諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
|  省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

|838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、
|  <内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

|839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、
|  私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
|  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。
| (これが内心の平安である。)」

|840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても
|  清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、
|  清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
|  教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

|841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
|  執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
|  だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

|【 「ブッダのことば スツタニパータ」中村元・訳 】


> 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。」

これは、釈尊が正・誤の分別を基とした「理論家」などではなく、分別から離れた「実践者」であればこそ言える言葉なのです。
そして、(真・偽の)理論しか見えていないマーガンディヤにはそれが解らないのです。


|「一切はそのように〈真実で〉ある」、また「一切はそのように〈真実で〉はない」。
|「一切はそのように〈真実で〉あり、またそのように〈真実で〉はない」。
|「一切はそのように〈真実で〉あるのではないし、またそのように〈真実で〉ないのではない」。
|──これが、もろもろのブッダの教えである。

|【「龍樹」中論 第18章 アートマンの考察 8~11/中村元・著 】


例えば、仮に「それ」が真薬であったとしても、それを使うべき正しい用法・用量を間違えてしまえば「猛毒」として働きます。
そして仮に「それ」が偽薬であったとしても、使い方次第では、それを有効・有用に投与して目的に役立てることも可能なのです。

TPOに応じて、心に形成されてしまっている「偏った分別作用(囚われの連鎖反応)」を解消させるための実践すること。

釈尊は「一切皆苦」を弟子達に説き示しましたが、これは離解脱に至るために必要な「筏」として説いているのです。
全ての認識対象を「苦しみである」と観じる(感じる)こと。
ここから、五妙欲(五官による対象への囚われ・執着)の捨断(厭離)が生じるのです。

厭離の相」の出現によって、その人の感受作用にコペルニクス的な「転換」が起きるのです。

その時、生まれて初めて、「五官による囚われから解放された状態」というものを実体験することができます。
それは、生まれながらに身に付けてしまっていた「何キロもの重り」を捨て去ることでもあるのです。
自分の心身が、本来はこんなにも身軽で軽快なものだったのか、それが如実に解るのです。
この時、自動的に 喜 → 軽安 → 楽 というプロセスが、その人の心身に生じます。
(これは別に瞑想中になどではなく、実生活の中でそのまま私たちの心身に生じるのです)

「下五分結(有身謬見・禁戒取・疑・欲貪・瞋恚)」を捨断して「不還果(=阿羅漢への参入)」を得ること。
これが釈尊が説いた実践の、一つのゴール(果報)なのです。


|このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
|二つの果報のうちのいずれか一つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。
|──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。

|【 「ブッダのことば スツタニパータ」12、二種の観察 中村元・訳 】


ここに至ることが出来れば、ここから先の残りの過程はそれほど難しくはありません。
何故ならば、それまで私たちを悩ませ続けてきた「解っちゃいるけど止められない」というジレンマから、
この段階(快・不快を基とした五妙欲の捨断)に至ることで、すでにその状態から脱却することが出来ているからです。

 ※この「快・不快を基とした五妙欲の捨断」が出来ていないと、私たちには「後催眠」と同じような、
  快・不快(好・嫌)に基づく反応に縛られ、それを後から正当化しようとする「理屈付け(理論武装)」が起きるのです。

そして、この段階に至ったときに、その人にはそこから先の三つの選択肢が見えてきます。
それが、小乗の道・大乗の道・密教の道、なのです。
(ただしこの内容は、オウムで説かれていた教義とは全く関係有りません。念のため。)



●煩悩の滅尽と煩悩即菩提 -認識対象(外界)への関わり方・全く異なる真逆のスタンス-

釈尊は、煩悩の止滅を説きました。
煩悩こそが苦を生じさせる因であり、漏(煩悩)の尽きることをその目的としたのです。


 |世間は無明によって覆われている。 
 |世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。
 |欲心が世間の汚れである。 
 |苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。
 |
 |世の中における、あらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。
 |(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。
 |その流れは智慧によって塞がれるであろう。
 |
 |世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。
 |
 |実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。
 |だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、
 |再生の素因(執著)をつくつてはならない。
 |
 |上と下と横と中央において、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、
 |それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、
 |変化する生存状態のうちにとどまるな。
 |
 |このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、
 |わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、
 |この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。
 |
 |何ものをも所有せず、
 |欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、
 |――かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。
 |かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。
 |
 |またかの人は、この世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、
 |種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。
 |『かれは生と老衰とを乗り越えた』とわたしは説く。
 |
 |( 「スッタニパータ」第五 彼岸に至る道の章より抜粋/中村元・訳 )


この方法は、苦観 → 厭離 → 離貪 → 離解脱 → 解脱智見 というプロセスに沿った教えなのです。

しかし、大乗仏教では「煩悩の遮断」ではなくて「煩悩即菩提」が説かれ始めます。
そして、「一切皆苦」から「一切皆空」へと、その教えの内容が変化してゆきます。

確かに、理論的に考えるならば、一切を空(無自性・無相)と捉えることは間違いではありません。
しかしそれを実践方法として捉えるならば、それは前提条件をクリアーしていなければ、あまり効果のない方法なのです。



喩えて言えば、目の前に赤々と燃える炎があるとします。

その炎、それ自体は「善」なのでしょうか? それとも「悪」なのでしょうか?



──その答えは、善でも悪でもありません(どちらとも決めることは出来ないものです)。


目の前の「炎そのもの」は、単なる「純粋なエネルギー」の現象としての顕れにしか過ぎません。

しかし、その炎が「暖炉に置いてある薪」と結びつくと「暖房(善)」となり、
「部屋の窓にかけられているカーテン」と結びつくと「火事(悪)」となってしまうのです。
つまり、それが何と縁を結ぶのか(条件生起)によって、善にも悪にもなりうる、どちらとも言えないものなのです。

そして「煩悩」もこの炎と同じで、般若(智慧)を以て善用すれば「菩提心」として役に立つと大乗仏教では説いているのです。
その理論的背景には、大乗仏教の説く「縁起」や「空(無自性・特定の性質を持たない)」という教えがあるのです。


しかし、例えば、「蛾」は、炎を見るとすぐにその中へ飛び込んでいって、そのまま焼けこげてしまいます。
これは、生まれつきの「無条件反射」というものを、蛾が本能としてすでに身に付けてしまっているからなのですが、
私たち人間も、これと同じような、生まれつきの「炎に飛び込もうとする」ような衝動(欲求)を持ってしまっているのです。

ですから、この「生まれつきの無条件反射」そのものを削除(クリヤーに)してしまわない限り、
いくらそれを「空」なんだと説明してみたところで、「解っちゃいるけど止められない」という衝動を抑えることは出来ないのです。

それらは実体がない、縁起によって一時的に顕れただけのものだと言われても、私たちは、それが壊れ去るものだと解っていても、
だからこそ逆に、少しでもそれを長く手元に留めようとして、奪われまいとして、もがき苦しんでしまうのです。

ですから釈尊は、「最初の清浄行」として、妄執(渇愛)から離脱するために「苦るしみを観る」という方法を説いたのです。

 ※ 釈尊は「箭喩経」という経典の中で、形而上学説に固執するマールンキャプッタという弟子に対して、
  「これらは、マールンキャプッタよ、利益をともなわず、最初の清浄行のものではない。」と述べています。
  最初の清浄行のものではないから、それは「厭離に導かず、離欲に導かず、止滅に導かず、寂静に導かず、
  証知に導かず、正覚に導かず、涅槃に導かない。」と諭されているのです(マッジマ・ニカーヤ第63経)。



例えば、もし仮に、前述した「蛾」が人の言葉を理解することができたとしたら、どうでしょうか?

その身を焼き焦がしてしまう「炎」に対して、それは実体が無くて「空」なんだよと教えることが、
蛾が身に付けてしまっている「炎に飛び込もうとする衝動」を防ぐのに効果がある方法なのでしょうか?
それとも、その炎は「苦しみ」そのもので、その炎へ飛び込むと身体が焼かれて悶え苦しむだけなんだよと教えることが、
それを繰り返し教え続けることが、「炎に飛び込もうとする衝動」を防ぐのに効果がある方法なのでしょうか?


釈尊は、何故「厭い離れる(厭離)」という表現を、解脱へと続くプロセスの「最初」に使っているのでしょうか?

これは、私たちの「反射作用」に関わる、生理的な識別反応の「好・嫌(快・不快)」を直接利用しているからなのです。

この、生まれつきの「無条件反射」を、釈尊は、無明 → 行 → 識 → … → 渇愛 → 苦しみ の流れとして十二縁起で示されたのです。

釈尊の初転法輪においても、五比丘たちに説いた最初の教えは「苦しみ」をテーマとした「四聖諦」であり、
そこでは【苦しみ】と【苦しみの生起の原因】、【 苦しみの止滅 】と【 苦しみの止滅にいたる道 】が説かれました。
そして、これらのより具体的な観察方法が「スッタニパータ」の中で「二種の観察」として説かれているのです。
この「二種の観察」の中には、十二縁起に繋がる内容が含まれていますし、その観察対象も決して外界の事象の変化などではなく、
自己の心の働きに対してのみ向けられているということも、この経典を読めば理解することが出来るでしょう。

妄執(渇愛)は、「快・不快(好・嫌)」から生起する心理的・生理的な連鎖反応として私たちの心に根付いてしまっているのです。
そして、この「衝動(快感や好感を求める欲求)」を克服していなければ、いくら「縁起」や「空」を頭の中で理解してみたところで、
結局は、心の衝動に突き動かされるままに、炎の中に飛び込んでしまい、我が身を焼き焦がしてしまう蛾と同じことになってしまうのです。


|724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、
|  また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
|  また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

|725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
|  かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
|  かれは実に生と老いとを受ける。

|726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、
|  また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、
|  また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

|727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
|  かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
|  かれらは生と老いとを受けることがない。

|【 「スツタニパータ」第三 大いなる章 12.二種の観察/中村元・訳 】



しかし、大乗仏教では「煩悩の遮断」ではなくて「煩悩即菩提」が説かれ始めます。
それは、理論(思想)として見るならばは正しい方法であると言えるでしょう。
そして、「出世間(出家)」というスタンスではなく、世間と積極的に関わり、その世間を善き方向に変えてゆくためには、
ある意味どうしても必要な方法だったとも言えるでしょう。

ですがそれは、「最初の清浄行」をしないまま「第二の清浄行」を行おうとする行為であると言えます。
つまり、基礎(土台)もまだ出来ていないうちに、すぐに家を建て始め、
建てながら同時進行で、土台そのものも一緒に造っていこうとしているようなものなのです。

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 番外編 》その3-1

2010年03月14日 12時05分21秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
●原始仏教と大乗仏教、密教との違い

大乗仏教は、仏教とは言いながらも釈尊の直説ではなく、その説き明かす教えの内容にも本質的な違いがあります。
一時期、「大乗非仏説」が盛んに唱えられた時期もありましたが、大乗が仏教の範疇に入ることは間違い有りません。
しかし、釈尊が直接説いた教えと大乗仏教の教えには、幾つかの大きな違いがあります。

それらが、どう違うのか、そして何故違うのかが解らなければ、
釈迦の説いた教えの真の姿も、大乗仏教の真の姿も決して見えては来ないでしょう。

大乗仏教は、釈尊の教えを「核(ベース)」とはしながらも、その目指す方向性は真逆のベクトルを持っています。

喩えて言えば、ここに沈没寸前の大型客船があるとすると、釈尊はその壊れかけた客船からの即時離脱を教えています。
しかし大乗仏教では、離脱はせずに客船に留まり続け、労力と時間をかけてより多くの人を救うこと目指すようになりました。
そして密教に至っては、沈没しかけている客船そのものを再建し、全く新しい客船に造り替えることを目標としているのです。

つまり、この現象世界(現実世界)に対するスタンス(基本姿勢)が、それぞれの教えでまったく異なるのです。
(ですから大乗仏教では、釈尊そのものは脇役に追いやられ、如来や法身仏や多くの菩薩などがそこに説かれ始めたのです)

釈尊が説いた教えは、この現象世界(世間)から「出離(離解脱)する」ことをストレートに説き示した教えでした。

|かようにわたしは聞いた。
|ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。
|その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
|「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」
|「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。
|比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。
|また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、
|楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、すべて破壊するのである。
|比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」

|(相応部経典35:82、増谷文雄訳「世間は壊れる」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、88~89頁)

| 比丘たちよ、生じないもの、生成しないもの、
| つくられないもの、形成されないものが在る。
| もしも、生じないもの、生成しないもの、
| 作られないもの、形成されないものが無いならば、
| 生じたもの、生成したもの、つくられたもの、
| 形成されたものから脱し、離れることは出来ないであろう。
| 生じないもの、生成しないもの、作られないもの、
| 形成されないものが在るからこそ、
| 生じたもの、生成したもの、作られたもの、
| 形成されたものから脱し、離れることが出来るのである。
|
|(ウダーナ・自説経8-3)

それは、果てしなく生死を繰り返す「輪廻」からの完全なる離脱であり、「二度と再生しない者」となることだったのです。

|これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない
|Ayamantimā jāti natthi dāni punabbhavo(パーリ原文)

そして、そのための方法(手段)として、その教えの根幹となる「苦・集・滅・道」という四つの真理を説いたのでした。



●釈尊が説いた教え(修行法)と、大乗仏教との違いは何処にあるのか?-苦観と空観との違い-

釈尊が弟子達に教えた「解脱法」は、「苦観(苦を観ること)」を基本(ベース)として組み立てられています。

釈尊が、最初の弟子となった五比丘たちに説いた「初転法輪」の説法は、「四聖諦」でした。

| 1 明らかな智慧によって四つの尊い真理を見るときに、
|  この人は迷える生存の妄執を破り摧く道を明らかに知る。

| 2 風によって吹き上げられた塵が雨によって静まるように、
|  ひとが明らかな智慧によって見るときに、諸の欲望の思いが静まる。

| 3 この世においては、実相を洞察するに至るこの智慧が、最もすぐれている。
|  それによってひとは、生れと死の尽きてなくなることを正しく明らかに知る。

|  【 ブッダの感興の言葉 第12章 道/中村元・訳 】

釈尊の教えの根本は「四聖諦」であり、それがそのまま解脱に至る実践方法でもあったのです。
そしてこの方法は、大乗仏教に登場する思想や哲学や信仰などを特に必要とはしませんでした。
(むしろ、それらのものを必要としないからこそ、より直接的で効果的な勝れた実践法なのです)

大乗仏教は「空」を説きますが、釈尊の教えの基本は「空」ではなくて「苦」なのです。

|724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、
|  また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
|  また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

|725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
|  かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
|  かれは実に生と老いとを受ける。

|726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、
|  また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、
|  また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

|727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
|  かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
|  かれらは生と老いとを受けることがない。

|【 「スツタニパータ」第三 大いなる章 12.二種の観察/中村元・訳 】


アーガマの中にも「空性(空住)」を説いた教えはありますが、その内容は大乗が説く「空(無自性)」とは違います。
それは、四聖諦の中の三番目、「苦しみのすべて残りなく滅びるところ(滅諦)」と同じ意味を持つのです。

では、この「苦を観じること」と大乗の「空を観じること」との違いは、
現実の修行(実践)において、実際にどのような違いとなってその結果(効果)が顕れるのでしょうか?



●思考や理論は大脳の新皮質が、感情や情動などの反射作用は旧皮質・古皮質がその働きを司る

簡単に言ってしまえば、理論や哲学などによって「苦(煩悩)」を滅することは出来ません。
それらは逆にストレス(抑圧)を生みだし、新たなる苦しみを造り出すことになりかねないのです。

どのような優れた哲学であろうと理論であろうと、それで苦しみが解決されることは決してありません。


|789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、
|  あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、
|  それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。
|  このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

|790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちの
|  どれによっても清らかになるとは説かない。


|796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、
|  それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

|797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、
|  自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、
|  それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

|798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、
|  それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。
|  それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。


|800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。
|  人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。


|813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。
|  かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。


|837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
|  諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
|  省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

|839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、
|  私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
|  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。
| (これが内心の平安である。)」

|840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても
|  清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、
|  清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
|  教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

|841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
|  執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
|  だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

|846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。
|  かれらの本性はそのようなものではないからである。
|  かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。

|【 「ブッダのことば スツタニパータ」中村元・訳 】

釈尊の修行システム(そのプロセス)は「十結」を断ずることで説明されていました。

「十結」とは「上五分結」と「下五分結」とを合わせたもので、その世界に結びつける「結縛」を意味します。

有身謬見・禁戒取・疑・欲貪・瞋恚 、これらを「下五分結」と呼び、これら全てを断じた者は「不還(アナゴン)」となるのです。
そして、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明、これらを「上五分結」と呼び、その全てを断じた者は「阿羅漢(アラハン)」となるのです。

「下五分結」の中心(主力)となるのは「欲貪」で、この「欲」とは外界に対する囚われとなる「五妙欲」のことを指しています。
つまり、「欲貪」が欲界への執着であり、具体的には五官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)への囚われを意味するのです。

一方、「色貪・無色貪」は、六番目の感覚器官「意」に対応するもので、心の造り出す内的世界に対応しています。
そして、「色貪」に対応する色界とは、表象やイメージの造り出す内的な心の世界のことであり、
「無色貪」に対応する無色界は、思考によって造り出される形而上学的な観念・想念の世界なのです。

そして、これらの世界に直接対応する「識別作用(受諾反応)」は、それぞれまったく異なるのです。

五官から感受される欲界(外的な現象世界)に対しては、「快・不快(好・嫌)」という識別(分別作用)が、
そして心の働きとして感受される色界(表象・イメージ)には「美・醜(浄・不浄)」という識別が、
もう一つの思考の働きとして感受される無色界(観念・概念)には「正・誤(正・邪)」という識別がそれぞれ働くのです。
(ただし、表象やイメージは、欲界と無色界の橋渡しをするものなので、それらの識別の影響も間接的に受けることになります)

これらの識別は、心理学で言う「顕在意識」「潜在意識」「深層意識(超潜在意識)」と深く結びついています。
そして大脳生理学あるいは脳科学的には、それぞれが「新皮質」「旧皮質」「古皮質」と関係してくるのです。

つまり、思想や哲学・理論などは、無色界(色界にも影響は与える)へのアプローチであり、顕在意識にしか殆ど届きません。
(ここから「解っちゃいるけど止められない」という、誰もが抱えているジレンマが生まれてしまうのです)

しかし、釈尊が説いた「渇愛」や「妄執」は、欲界(五官が感受する世界)への囚われを示しているのです。
それは、潜在意識と深層意識(超潜在意識)に深く根付いてしまっている根源的な囚われに他なりません。
そこへ直接アプローチする方法こそが、思想でも哲学でもない「苦を観じる」という手段(メソッド)なのです。


|851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。
| [現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

|【 「ブッダのことば スツタニパータ」中村元・訳 】


> [現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ

[現在]感官で触れる諸々の対象、つまり「一切」を全て「苦しみ」であると観じることから、
そこに「快・不快(好・嫌)」という深層意識に根付いた生理的・心理的な反射作用が生じ、
そこから 厭離 → 離貪 → 解脱 → 解脱智見 という釈尊の説かれたプロセスが生じるのです。


(その2に続く)







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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その11

2010年03月06日 22時49分06秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑪

●苦悩が成立してしまう根本条件を熟知して、それを崩壊させるプロセスを把握する

仏教の開祖、ゴータマ・シッダルータは、全ての苦しみからの解放(解脱)を求めて29歳で出家し、
およそ6年間に渡る悪戦苦闘の厳しい修行の末に、ついに自らその「解決方法」を見いだしました。

そしてそれは、「縁起の法」の発見であった、と言われています。

|これが有ることに縁って、あれが有り、
|これが生じることに縁って、あれが生じる。
|これが無いことに縁って、あれが無く、
|これが生じないことに縁って、あれが滅する。

|(マッジマニカーヤ 79:7/インターネットより流用)

上記の経典が、「縁起の法」を最もシンプルに顕した「公式」であるとされています。


では、この縁起の法の発見が、どうしてそのまま「苦の滅尽」に直結するのでしょうか?


上記の「公式」には、「有・無」の関係と「生・滅」の関係という二つの縁起がそこに述べられています。

 1.それが有るときにこれも有り、それが無ければこれも無い。… 相互依存関係(相対・相補関係)
 2.それが生じることでこれも生じ、それが生じなければこれが滅する … 因と果の関係
   (この、「それが生じなければこれが滅する」ことがとても重要で、因も果も現在形として観るのです)

1は主として識別(分別・思考)に関するものであり、2の方は心の働き(情動・欲求)に関するものなのです。

そして、これらの縁起が、そのまま「苦の滅尽」と直接結びつくための最も大切なポイントは、
これらの縁起を用いて、外界の事象や現象などの変化や推移などを調べるのではなく、
自己の心の働き(その流れ)や、自己の思考がその依処とする識別の成り立ち(仕組み)を観る、ということなのです。

これらの使い方を誤解している人たちがとても多く、その誤用がそのまま解脱への道を閉ざしているのです。


縁起の法は、ただ漠然と発見されたのではありません。
それは、「無常なるが故に苦なり」という、苦の原因となる「無常」を究明して導き出されたのです。

私たちが感じる苦しみは、四苦八苦という捉え方の他に、もう一つ「三苦」という捉え方があります。
それは、苦苦・行苦・壊苦の、三種類の苦しみを指しますが、
この中の行苦と壊苦が「変化(無常)」を因として生じる苦しみなのです。

|★苦苦(くく、duHkha-duHkhataa) とは、「苦痛を苦とする状態」を意味する。
| 「苦事の成るによって成立する苦」などと説明され、「寒熱飢渇によって生ずる苦」といわれるから、
| 外的な、感覚的な苦である。
| このような苦が人間にとって第一段階の苦で、自然的、基礎的なものである。

|★壊苦(えく、vipariNaama-duHkhataa) とは「壊滅の苦の状態」である。
| 「ヴィパリナーマ」とは「悪い方へ変化する」という意味であるから、好もしくない状態をあらわすのである。
| 「楽事の去るによって成ずる苦」とも説明される。
| 「壊滅」とは、その点で「楽境壊滅」(らくきょうえめつ)の意味であるという。
| すなわち、人間にとって好もしいと感ずる対象が、次々とこわされてゆく時に感ずる苦である。
| この第二の苦の中に、人間が一般に感ずる苦は含まれる。
| vi+pariNaamaのpariNaamaは、唯識でいう「識の転変(vijJaana-pariNaama)」とほぼ同じ意味で使われていることからも、
| この壊苦は「心の変化に応じて生ずる苦しみ」の事を指している、と考えられる。

|★行苦(ぎょうく、saMskaara-duHkhataa) とは「生起の苦の状態」といわれる。
| 「行」の意味は、「作られたもの」ということで、生存していること自体を指しているから、
| 一切の存在が無常であることによって遷り流れてゆくところに感じとられる苦である。
| とくに、人間生存の無常という事実の中に感ずる苦であるから、生存苦、生きること自身が苦であることを示した。
| したがって、苦苦も壊苦も、この行苦を根本として起ってくるといえる。
| その意味で、行苦や五陰盛苦は、人間の根本的な苦を示す。
| 仏教は、根本的には生きていること自体が苦であるという形而上学的な考え方をもととして、
| 人間の「自分が」という我執こそ苦の根本であると言う。

|( 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


つまり、「無常」という変化作用が生み出す波及効果が、私たちに行苦と壊苦を造り出すのです。
しかし、なぜ「無常」という変化が「苦しみ」に変わってしまうのでしようか?
それは、その「無常なるもの」に私たちが「依存している(それを依拠としている)」からなのです。

では、何故「それに依存してしまう」のでしょうか? 

それは、私たちの潜在意識の奥深くに、形成されてしまった「思い込み(無明・行・識)」があるからです。
それらが私たちに、強い依存欲求(取)・依存衝動(渇愛)を生じさせ続けているのです。

その「依存症(中毒症状)」から抜け出すことが、離解脱(厭離・離貪)のプロセスであり、
「依存症」が形成される働き(プロセス)が、「依存(苦)の生起過程」の成立(縁起の順観)なのです。

これらの観察を、より具体的に実践化したものが「四聖諦」であり、「二種の観察」なのです。

そしてこの実践には、小難しい理論や思想など、まったく必要有りません。
むしろ、頭の中で造り出されたそれらの概念や観念は、この観察に余計な色付けてしまう「障害」にしかならないのです。
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このブログのコメントより、その2

2010年03月04日 15時44分58秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
●物理学に関する一連のコメントについて

コメントをしている人のHNがコロコロと変わっているようなので、まずはその経緯の説明から…

2月4日に書いた記事に付けられたコメントから、この一連の流れは始まっています。


最初にKSさんと名乗る人からコメントを頂きました。
一見すると、とても好意的なコメントのように見えますが、最後の一文に、私は違和感を感じました。

> ところであなたはナーギタと某所で名乗っておられませんでしたか?
> もしそうでしたら、お久しぶりです。
(2010-02-11 14:47:20 mixiの日記からの転載、「直感。」より)

何故ここで、私のオウム時代の宗教名が告げられたのか、その理由が分からなかったからです。
「某所」という曖昧な表現では、その場所をそのまま特定することが出来ません。
「名乗っていた」のは、オウムに在籍していた時しかありませんから、その頃の知人ということになります。

また、オウムを離れた後のネット上での掲示板などでの書き込みなどについては、
私は一貫して「和井 恵」というHNを使って書いてきていますので、その場合ならば、
今更、オウム時代のナーギタという名前を、わざわざ(意図的に)ここに出してくる方がおかしいのです。

「お久しぶり」と言うからには、自分が誰なのかを明示する必要が、礼儀としてはあるでしょう。

一番手っ取り早い方法は、仮に掲示板での知り合いならば、その当時のHNをそのまま使えばいいのです。
「某所」「ナーギタ」「名乗る」「お久しぶり」…そして「KS」という正体不明のHNの使用。
(自らをコメントで公にするのが嫌ならば、手段としては私信を使えばそれで済むはずなのですから)

まるで、覆面をしたまま「お久しぶり」と挨拶をされているような、奇妙な違和感をそこに感じました。

そして、次のコメントになると、事前に何の説明もなく、いきなりHNを変えてしまっています。

 ※一科学者からabcにHN変えている人の場合も、これとまったく「同じ行為」をそのまま繰り返しています。
  おそらく「習い性」というか、身に付いてしまっている「癖」なんでしょうね。

一科学者とabcと名乗る人は同一人物です。

> > かわいそうにこの娘は、学生であなたがたにシンパシーを抱いていたのでしょうねえ。
> と私は言ったのです。
(2010-03-01 20:40:12 mixiの日記からの転載、その2。より)

と、一科学者と名乗る人が書いたコメントを、そのまま「私は言った」と書いていますから。

何故、コロコロとHNを変えてしまうのかと言えば、つまりはそれが反射行為(習気)になっているからです。
普段から、いつもそのような行為ばかり続けているので、それがそのまま癖になってしまっているのです。


KSさんがオウム関係者であろうと考えられるのは、次の発言からも窺えます。

> 以前、先生はカルマは物質的なものではない、等価交換の法則ではない、
> カルマの交換は不可能である、と述べられました。
> オウムのことはよくしりませんが、ぐるあるいは主催神がカルマ交換により背負ってくれるので
> 将来高い世界に生まれ変われるというものでしょう。
> 同様な思想が日本に無いとお考えですか?
> とんでもありません。大乗仏教はほとんど全部がそうですよ。
(2010-02-17 23:52:20 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その7 より)

これは、「別にオウムだけではなく、大乗仏教は全部そうじゃないか」というオウムの立場からの見解なのです。
そのことを巧みに隠そうとしていますが、これはそのままオウム擁護のコメントになっているのです。

> 例えば、オウムではマントラをとなえるだけの外道と蔑まれていたそうな、
> 南無阿弥陀仏の世界(どの宗派でもいいですが)
> 死んだら即成仏ですよね。どんな悪業を積んでいても一度でも南無阿弥陀仏を唱えたら救われるのです。
> カルマ交換で聖者が救ってくださるのとどこが違いますか?

まったく違うことは、いずれ詳しく説明する予定ですが、ここで「同じじゃないか」とことさら強調することが、
そのままオウムの教義を擁護しようとする「心の働き」を顕していることに自分で気づけないのでしょうね…

これは、自分の欠点を指摘された子供が、そんなことを言うのなら「他の子の場合」はどうなのさ、
自分以外の「他の子の場合」だって同じじゃないか、と、文句を言っているようなものです。

> 門外漢がこれ以上言いませんし、葬式仏教はどうもぴんときませんが、

私は、この人が門外漢などではないと、最初から考えていました。

そして、いきなり私のことを先生と呼ぶようになったときも、
ああ、この人は自分が「先生と呼ばれると嬉しがるタイプの人」なんだな、と感じました。
人はたいてい、自分の反応を基準にして、相手の反応を予測・予想するものだからです。

私は最初から、この人の「先生」発言を、何か思惑のある意図的な演出だと感じていました。
ですから、普段ならば相手に対しては、友人としての「対等の関係」をお願いしているのですが、

 ※初期の釈尊の教団では、弟子達はお互いを、上下の隔てなく「友よ」と呼び合っていました。
 (オンフ板では、私を先生と呼んで下さろうとする奇特な方がいましたが、その時には丁寧にお断りしています)

それには触れずに、どのような展開になるのかを知るために、そのまま放置していたのです。



そしてその後で登場した、一科学者と名乗る人物は、「私(個人)」に対するコメントであるにもかかわらず、

> あなたがたは前程をこうだと決め付けて、

> あなたがたに共感するようでは

と「あなたがた」という言葉を、なぜか何度も多用しているのです。


実はこの言葉は、オウムの教祖が説法でよく使っていた「相手を指し示す言葉」なのです。
ですから、子供が親の口癖を真似して使ってしまうように、昔のオウムの弟子達の中には、
大した意味もなく、そして使うべき場所を間違えて、この言葉を使ってしまう人たちがいたのです。
(教団にいた頃に、誰かに説明をする場合、口癖のようにこの言葉を使う人を、私は何人も見てきています)

またこの一科学者と名乗る人物は、その前に登場したKSさんについて、
何度も繰り返し、「この娘」「学生」というまったく根拠のない「決めつけ(情報操作)」を繰り返しています。

そして、この点を私がコメントの中で指摘をしたら、

> あなたから掲示板の話をされてから10分足らずでその中身を把握してのことです。

と、具体的な根拠にはまったく触れることができませんでした。
そして、「ナーギタでぐぐれ」という、謎の(?)コメントが掲載された1時間後くらいに、
(なぜ「和井恵」ではなく、わざわざ「ナーギタ」なのかを考えれば、書き込んだ人物を推測するのは簡単に出来ます)

> あなたのリンクも全部見ました。

という文章が書き加えられた、再度のコメントが登場しつつ、その最後には、

> 印象としてそう感じたのです。

つまりは、結局、ただの「印象」としかその根拠は示せなかったのです。

それなのに、「この娘」や「(可愛そうな)学生」という「決めつけ(レッテル貼り)」を、
それまでのコメントの中で、何度も何度もしつこく繰り返し行っていたのだ、ということです。

これらが、意図的な「情報操作」でなくて、何なのでしょうか?


> やめてください。あなたは苦しみが無いそうなので人の苦しみがわからないかもしれません。

私には苦しみはありませんが、HN不確定なこの人物が「苦を感じている」のは解りますよ。
私が「思うような(想定したような)反応」をすることが無いので、期待が外れてむかついているのでしょうね。


やれやれ、本当にお気の毒様です。
この人が一日も早く、苦を滅尽されて、このような行為が無意味なことを実感されるといいのにね…

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このブログのコメントより、その1

2010年03月04日 10時33分59秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
●こんにちは、zapoさま。


日記の更新も間が空いてしまったこともあり、今回は記事として書かせて頂きます。
私信と違って、このブログで公開されているものなので、記事として書いても問題はないかと…

(この記事は、《 本 編 》その10のコメント欄の続きです)

> > その境涯とは、縁起に依って生じるものなのでしょうか?
>
> 縁起を空と観れば、まさに空によってこそ為しうるものではありませんか。

生じる性あるものは、必ず滅する性あるものである。
つまり、それが縁起するものであるのならば、必ず縁滅するものになるのです。
それらは「生死(生滅)」の範疇にあり、「不死(不滅)」ではありえません。


> 生滅(変化)があるところに解脱はあります。

生滅(変化)からの離脱によって、解脱(不滅)に至るのです。

> もし、変化がないならば、解脱もありえません。

それが変化してしまうものであるならば、一時的な気休めにしか過ぎません。


> なぜなら、解脱とは解脱せざるものからの変化だからです。

解脱とは、「無明(迷妄・顛倒)」からの離脱です。
無限遡及という迷妄(パラドックス)からの離脱なのです。
その「解脱せざるもの」を想起(仮設)させている根本因が「無明」です。

解脱とは、「変化」ではなく「還元(原初・本来の姿へ戻ること)」なのです。


> 分別は言葉(概念)によって形成され、構造化されます。
> 思考は言葉によってなされますから、言葉(概念)を根気強く滅していけば、
> 思考は必然としてできえなくなります。

確かにその通りですが、ではこれを具体的にどのように実践されているのでしょうか?
この説明とは「真逆の実践」をされ続けているように、私には見えてしまうのですけど…


> 心はつくるはたらきによって、たち起こる内面の現象の総称です。
> つくるはたらきの静まったとは、心の静まり(動揺のないこと)を意味します。

これを釈尊は、「様々な湖面の状態」と、それらが静まったときの「湖底の顕れ」に喩えて説明をしています。
この喩えに使われている、静まったときに「見えてくる湖底」とは、何を示しているのでしょうか?


> 依拠することが無いとは、「依拠して生起せざることがない」のではなく、
> 生起するものに依拠することがないということではないでしょうか。

「生起するものに依拠することがない」これはその通りです。

「依拠して生起せざることがない」この言葉の意味が(二重否定ですよね)よく解りません。
「依拠して生起することがない」の間違いなのでは?

zapoさまが引用された釈尊の教説には、

「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、
  かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。」

「自己の沈黙を」「みずから知るがままに」と、自己(みずから)というものを明確に「表現」しています。
そしてこの自己とは、概念などの思考や想念で創り出された「仮設されたもの(我)」などではありません。


> 龍樹は中論において次のように述べております。

龍樹菩薩の「中論」を、そこから部分的に抜き出して論じることは、誤謬を生じかねません。
「象そのもの」を把握していなければ、「足」や「尻尾」が象なのだと言うことになりかねないからです。

中論は、一つ一つ、概念を使った思考そのものの誤謬性を指摘して、その積み重ねによって、その論が進んでいるのです。
そして、その目的は「戯論(形而上学的な概念のみを駆使した思考)」の消滅です。

だからこそ、第一章 原因(縁)の考察では、その最後に

 1-14 それ故に、結果は〈縁が変化して現れ出たもの〉ではない。
    また、〈縁でないものが変化して現れ出たもの〉なのでもありえない。
    結果が無いのであるから、どうして〈縁〉と〈縁でないもの〉がありえようか。

と、その思考の根拠となる「概念そのもの」を否定しているのです。

また、第二章 運動〈去ることと来ること〉の考察でも、その最後に、

 2-25 それ故に〈去るはたらき〉と、〈去る主体〉と、〈行くべきところ〉は存在しない。

第三章 認識能力の考察でも、六つの認識能力(六根)の最初の〈見るはたらき〉の説明の最後に、

 3-06 〈見るはたらき〉を離れても、離れなくても、〈見る主体〉は存在しない。
    〈見る主体〉が存在しないから、〈見られるもの〉も、〈見るはたらき〉も、ともに存在しない。

と結論づけをして、他の働きも同義であると説いています。

第四章 集合体(蘊)の考察でも、最初に物質的要素〈色〉に関する説明がなされ、

 4-04 物質的要素がすでに[以前から]存在するのであるならば、
   〈物質的要素の原因〉なるものは成立しえない。
    また物質的要素がすでに[以前から]存在しないのであるならば、
   〈物質的要素の原因〉なるものは、やはり存在しえない。

 4-05 さらに原因をもっていない物質的要素なるものは、全く成立しえない。
    それ故に、物質的要素に関しては、いかなる分別思考をもなすべきでない。

つまり、中論における龍樹菩薩の説明は、「いかなる分別思考をもなすべきでない」という一言に尽きるのです。
(しかしそのことを、分別思考を利用して説明しているために、とても解りにくい表現になっているのです)



> もしも真我を実在とするならば、他の真我も認め、さらにはもろもろの存在の自性を認めざる終えません。

真我には、自も他もありません。個別的な真我など何処にも存在しないからです。
おそらく、サーンキャ哲学が説いている「真我」と混同されているのではないでしょうか?

ただ、大乗仏教で説いている「法界縁起」や「如来蔵縁起」になると、
これ(もろもろの存在の自性を認める)に近い捉え方・考え方が教えとして説かれ始めます。
しかしこれは、無明が消滅したときにそのまま顕現している「明」そのものを、
無明に代わる新しい縁起の起点と想定・仮定して捉えた観点からの「縁起観(明縁起)」のことなのです。

そして、この(仮設された)縁起観の「究極(この縁起作用が遍く行き渡った状態)」というものをそのまま観じるならば、

 25-19「輪廻には、ニルヴァーナと、どのような区別も存在しない。
     ニルヴァーナには、輪廻と、どのような区別も存在しない。」

という説明が、そのまま成立することが「そこで初めて」可能となって観えてくるのです。

 25-20「およそ、ニルヴァーナの究極であるものは、そのまま輪廻の究極でもある。
     両者には、きわめて微細などのような間隙も、存在しない。」

何故、龍樹菩薩がここで「究極であるもの」という表現を使っているのかが理解できなければ、
これらの「サムサーラとニルヴァーナは同一である」という説明は、まったく無意味なものになるのです。
そして、大乗仏教や密教が「何を」目標としているのかも、目指しているのかも解らなくなってしまうのです。


> > もし、この境涯が、縁起によって生じたものであると言うのならば、
> > そのような境涯は、苦しみの滅尽(解脱)などではなく、ただの妄想にしか過ぎないでしょうね。
>
> いえ、あらゆる境涯が、縁起、空性によって為しえるがゆえに、妄想ではなく、明確なる事象となりえるのです。


 7-33 生と住と滅が成立しないが故に有為は成立しない。
    また有為が成立しないが故に、どうして無為が成立するであろうか。

 7-34 あたかも幻のごとく、あたかも蜃気楼のようなものであると、
    譬喩をもってそのように生起が説かれ、そのように消滅が説かれる。

縁起(生滅)するものは、「あたかも幻のごとく、あたかも蜃気楼のようなもの」であると明確に知ること、
これこそが、龍樹菩薩が中論の中で説かれている「空性(縁起)」なのです。


>次の経典をお教えくださいませ。
>
> > 釈尊は、別の経典で、苦しみを起点とする縁起を説いています。
> > 苦しみがあるからこそ、そこから信が生まれ、修行をして解脱や悟りへと至れるのだ、と。

この縁起を最初に知ったのは、実は、オウムの教祖が書いた「生死を超える」という本を読んでなのですが、
その時は、私は今までそのような縁起を他でまったく読んだことがなかったので、そのまま鵜呑みにすることが出来ず、
実際にそのような縁起がアーガマの中で説かれているのか、あるいは教祖のオリジナルなのかを判断できないまま、
自分の中では、オウムを離れてからも、そのままずーっと「保留」にしていた問題だったのです。

ところが二年ほど前に、インターネットの検索で、ある人の日記(だったと記憶しています)に辿り着き、
そこで同じ内容の経典(出典も書かれていた)が紹介されていたのを読んで、
それが教祖のオリジナル(創作)では無かったことをそこで確認することが出来ました。
(この日記を書いた人は、他の内容を読んでみて、オウムとは一切関係されたことのない人なのだと判断できました)
ですか、この経典そのものを、特別重要だとも思わなかったので、それをコピーして保存することなどはしませんでした。

今回改めて、少し時間を掛けて検索してみたのですが、その人の日記を探し当てることが出来ませんでした。
そのような経緯ですので、申し訳ありませんが、ここでその出典をお教えすることが出来ません。お許し下さいませ。


> 縁起は無常を成立させる原理ではないように思います。
> この発想では、どこかに原理があって、現象はそれに従って変化しているかのような、
> 縁起の理法に実在的な発想を観じさせます。あくまで、印象です。

私は、釈尊がどのような経緯(プロセス)を経て「縁起」を発見されたのかを考えたとき、
「無常(現象・変化)」というものの実相を追究していった結果として顕れてきた法則(原理)なのたと考えています。

諸現象はすべて、縁起の法に則って「変化」しているのではありませんか?


> 次に時間や空閑を超越したというのも…。
> 時間も空閑も概念ですから、もともとは人間が作り出した道具にすぎません。

これは、その通りだと思います。
目の前の諸現象に、そのような概念の「枠」を投影して、分別をし易くしてから理解するのです。


> それを「超越」とすると、また別の概念が生まれるだけのような気がします。

それは「言葉に頼った理解」をしてしまうからです。

次のような説明をすると、zapoさまには叱られるかも知れませんが、あえて言いますと、

カレーの「味」の話しをするには、お互いがそれを食べていなければ、その会話がそのまま成立することはありません。
カレーを食べたことのない人には、いくら言葉を巧みに駆使して、どのような説明をあれこれしてみても、
そのカレーの「味」そのものを、食べたことの無い相手にそのまま伝えることは、絶対に「不可能」なのです。
(だから賢い釈尊は、ニルヴァーナについての説明はほとんどされず、そのまま「無記」を通されたのです)

マニカナの掲示板で、T,Tさまが主張されているのは、まさに「この処」なのですが、
それでも、言葉にして説明しなければ、その存在さえをも知ることが出来ないので、あえて説明をしてしまう訳です。

ただ、T,Tさまが説明される、「それ」を知ると心の病が改善されて現世に復帰できる、という話しには疑問が残りますが…
私自身、「厭離の相」を体験したのは今から六年ほど前のことになりますが、この現世という環境の中で生活し続けて、
現在に至るまでには、そこからさらに幾つかのプロセスが必要でした。
もともと「解脱する」ことそのものは、現世利益などと、直接繋がるようなものではありません。
むしろ「それ」を知っただけでは、現世生活がしにくくなるはずなのです。
(この点が、釈尊が「出家」を奨励されている由縁なのだと感じています)
ここの処が、T,Tさまの説明を聞いていて、私が少し違和感を感じる部分なのですが…

現世的な利益、と言う意味においては、むしろ最近流行の「NLP」や「アバター」などの方が実用性が高いかも知れません。
これら二つのメソッド(技法)を私はまだ詳しく調べてはいませんが、現代的な修行形態の現れの一つとして捉えています。


> 根源的な「無・あるいは空(ゼロ)」というのも…。

これは、ちょうど「Newton の記事(2月号)」のことが頭の中にあったので、このような表現になりました。

> ブッダの法では無は有と対比し、空とはイコールにならないと押さえています。

無と有を対比させて論じているのは龍樹菩薩です。
釈尊の説かれた「空性」と、龍樹菩薩が説かれている「空」とでは、その意味が少し違うのです。

釈尊の説かれた「」は、縁滅のことであり、「空っぽ(シューニャ、…を欠いている事)」という意味です。
そして、数学においては、インド人が「 0 」をこの名で呼んでいます。


> また、数字のゼロは、もっとも抽象化された概念の一つです。

それを言うのならば、「数字」そのものが、「もっとも抽象化された概念の一つ」です。
数字には、有理数や無理数などの他に、「π」や「√」「i(虚数)」などもその範疇に入ってしまうのですから。

> 少し前の仏教学の常識では縁起と因果を分けて、時間を排除した相互依存関係を重視したものであると説明されてきたのですが、
> 石飛さんのブッダ論理学の著作でも示されているように、ブッダのそして龍樹の縁起も事象の前後、
> 先と後の認識を意識した流れで縁起を捕らえていたことが解ってきました。
> これがわからないと認識対象と認識方法の前後を龍樹がなぜあれほどにこだわっていたのかが理解できないと思います。

ですから、「四句否定」は、それら(認識対象と認識方法の前後の認識)からの離脱なのです。
それらが生じることが縁起の順観であり、それらが滅することが逆観なのです。そして、滅した状態が「空」なのです。

そして、「四句否定」がそのまま解れば、その「肯定的な表現(もう一つの側面)」が「恒真式」であることも解るのです。


 ※恒真式とは、下記のように「すべての場合に肯定される文」のことを指しています。

|「一切はそのように〈真実で〉ある」、また「一切はそのように〈真実で〉はない」。
|「一切はそのように〈真実で〉あり、またそのように〈真実で〉はない」。
|「一切はそのように〈真実で〉あるのではないし、またそのように〈真実で〉ないのではない」。
| ──これが、もろもろのブッダの教えである。

|【「龍樹」中論 第18章 アートマンの考察 /中村元・著 】


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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その10

2010年02月23日 21時56分02秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑩

●無常や縁起、空などを理解し体得すれば、人々は苦悩の滅尽に至ることが出来るのか?

仏教では、三法印の筆頭に「諸行無常」を置いています。
そして釈尊は、「無常なるが故に苦である」と弟子達に教えを説きました。
つまり、「無常=苦しみ」なのだと教えたのです。

無常とは、「この現象世界の全てのものは生滅して、止まることなく常に変移している」ことを指します。
それらが何故、常に変移して止まないのかと言えば、それらが全て「縁起」によって成立しているからです。
全ての存在が、それ自体で成立(自立)することが出来ずに、必ず何かに依存して(頼って)生起しているのです。
しかしその依存するものもまた不安定で変化するものであるために、「不安定で変化する」という影響を受けるのです。
依って立っている足場が、絶えずグラグラと動き変化し続けるために、落ち着くことが出来ずに苦しみ続けるのです。

この「変化し続ける連鎖の流れ」を、仏教ではサムサーラ(輪廻)と呼んでいます。

ですから、サムサーラ(輪廻)からの解脱とは、変化することのない安定した「何か(依処)」を得ることでした。
それは、不滅の壊れることのない「何か」であり、言い換えれば「不死を得る」ということでもあったのです。

サーリープッタやマハーモッガラーナが出家をしたのは、この「不死」を得るためでした。
二人は六師外道の一人であるサンジャヤの弟子になりながらも、その不死の道を探し続けていました。
そしてある日、釈尊の最初の弟子となった五比丘の一人、托鉢中のアッサージと出逢うことによって、
サーリープッタは釈尊の教えを知り、それが自分たちの求めていた「不死へ至る道」であることを確信しました。
帰路を急いだサーリープッタは、その旨をマハーモッガラーナに告げ、二人は仲間達と共に釈尊の弟子となったのです。

しかし後年、仏教は「無常」や「縁起(空性)」のみが教義や思想として語られてしまうようになり、
肝心の「不死へ至る道」としての仏教(釈尊の教え)は、それが何なのかが解らなくなってしまいました。

無常や、仏教の根幹と言われている「縁起(空)」とは、それらは共に「変化する」ことであり、
変化するものの「本質(実体がない)」のことであり、「変化する流れの法則性(因果)」のことなのです。

そこに「不死(不変)」は、何一つ語られていません。

釈尊は、それら(無常・縁起するもの・空なるもの)からの「離脱」を教えていたのです

縁起しているものを全て滅し尽くしたとき、あるいは、それらの束縛(依存や囚われ)から完全に離脱したとき、
私たちは、本来の「あるがままの状態」に戻ることが出来るのです。
それは、縁起によって生じるものなどではなく、縁起という働きを滅することで「(すでに)そこに在る」ことに気づくのです。

縁起の順観は、無明の連鎖の生起です。これによってかれがある。これあるときにかれがある。
縁起の逆観は、無明の連鎖の消滅です。これがなければかれがない。これなきときにかれもない。

縁起の法とは、縁起するものを全て滅するための法なのです。それ以外の使い方は誤用にしか過ぎません。
(およそ生ある性質のものは、すべて滅する性質のものである-コーンダンニャ長老)


仏教で一番大切なことは、「無常」や「縁起」や「空」などを、体験したり理解することではありません。

本当に必要なのは、生死(輪廻という変化)を超えた「不死」を知り、その「不死」を得ることなのです。

そこで初めて、無常なるものへの依存から解放され、囚われることが無くなり、その変化に縛られることも無くなるのです。
無常なるものに常なることを必死で求める必要もなく、無常をありのままに、そのまま受け入れることが出来るのです。

| 21 わたしは恐ろしいものを恐れない。
| われらの師は不死[なる境地]を究めておられる。
| 修行者たちは、恐怖の存在しない、その道によっておもむく。

| ニグローダ長老

| 31 わたくしは、老いゆくものを不死なるものと換えよう。
|  苦しむものを、静けさ、最上の安らぎ、無上の安穏と換えよう。

|  スッピヤ長老

| 35 不死に到達するために、正しい真っ直ぐな、
|  八つのしかたより成る尊い道(八正道)を実践する人は、
|  安楽を求めてそれを実践するので、
|  幸せを得、名誉を獲得し、かれの名声は増大する。

|  サーマンニャカーニ長老

| 【「仏弟子の告白 テーラガーター」中村元・訳 】

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その9

2010年02月21日 21時42分22秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑨

●人々を苦悩の滅尽に導く「離解脱」とは何か?-心解脱と慧解脱-

釈尊は、弟子達に「離解脱の道」を教えました。その離解脱には二つの種類があります。

それが「心解脱」と「慧解脱」なのです。

心解脱とは「(情動的な)執着・依存」からの離脱(解放・自由)です。
慧解脱とは「(思考的な)観念・囚われ」からの離脱(解放・自由)なのです。

しかしそれらは、いったいどのようなものなのでしょうか?
そしてそれは、現世的な「成功哲学」とは、何処が違っているのでしょうか?


──例えば、目の前に水が「半分」入っているコップが置いてあるとします。

ある人は、水が「半分も入っている」と識別(認識)をしますし、
また別の人は、「水が半分しか入っていない」と識別(認識)をしてしまいます。
しかし、「水が半分入っている」とそのままの知覚(認識)をする人もごく希にいるのです。

 ※「半分入っている」とそのまま観ることは、ただそれを「知覚」する(知る)だけなのです。
 (これが、識別・分別が停止した状態と呼ばれるもので、何も知覚しなくなることではありません)

ほとんど全ての人たちは、その「半分」という知覚した「ありのままのもの」に、
「~も」や、「~しか」という思考(比較作用)によって生じてきた「色付け(染色)」をしてしまいます。
そして、「半分も」という識別(判断)をする人は、「プラス思考」であると評価され、
「半分しか」という識別(判断)をする人は、「マイナス思考」だなぁと言われてしまうのです。

これらを、「プラス思考」だとか「マイナス思考」だといった判断をされてしまうのは、
これらの「捉え方」を選択する(してしまう)ことによって、心の中に連鎖反応が生じて、

「半分も」(それを肯定的に捉える)→ 積極性を生む → モチベーションを高めてくれる効果がある
「半分しか」(それを否定的に捉える)→ 消極性を生む → モチベーションを低く抑え込んでしまう

という、その人の行動を支える「やる気(意欲)」そのものに、大きな変化(影響)を与えてしまうからです。
最初の「識別思考(分別・判断)」が「情動(意欲・欲求)」に変化作用(影響)を与えてしまっているのです。

 ※この「思考」は「観念(見解)」という今までに形成された「認識パターン(囚われ)」に支配されています。
  成功哲学とは、この「認識パターン」を前向きなベクトルへと転変・逆転させることなのです。

そして、ここまでが、多くの成功哲学などで語られている「説明(成功の秘訣)」なのです。
(成功をするためには、何よりもモチベーションを高めることが、その第一条件なのですから)


しかし、そこで説かれている「成功」は、私たちの「苦しみ」を本当に解決してくれるものなのでしょうか?


現世(この世界)を形成している諸現象は、全て「無常(変化・変動)」です。
無常なる諸現象は、因果律という法則に従って生滅・流動・変化の連鎖反応を繰り返し続けています。
(つまり、まったくデタラメな変化などではなく、規則正しい条件に即した変化なのですが…)

「無常なるものは、全て苦しみ(の因)である」と仏教では教えています。


しかし、何故その「無常(という変化)」がそのまま「苦しみ」になってしまうのでしょうか?
どうして「そうなってしまう」のでしょうか?
私たちは、何故「無常(という変化)」を、そのまま「楽しむ」ことができないのでしょうか?


| ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

|【真理のことば】ダンマパダ(中村 元訳)


私たちに内在する「心の働きの仕組み」を正しく知る(診る)こと、これが、全てを解決する「鍵」なのです。


釈尊が説いた「苦を滅尽する方法」、つまり「心解脱と慧解脱」は、「心の働きの仕組み」と深く関わっています。

ですからそれらの関係を、これから詳しく説明してみたいと思います。



PS.番外編の方は、不定期になりますがこちらも続けていく予定です。

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 番外編 》その2

2010年02月19日 14時28分36秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
●苦を滅尽する三種類の方法論 -厭離(部派)・空(大乗)・大楽(密教)-

本編では、アーガマの中で釈尊が説いている「厭離・離貪・離解脱」という実践法を簡単に説明しています。
しかし、仏教はその後、部派仏教から大乗仏教が枝分かれをして、さらに密教へと辿り着いたのです。


では、いったいこのような「流れ」は、何処から生まれてきたのでしょうか?


釈尊が弟子達に説いた「苦の滅尽」に至る教え(方法)は、「自己の苦しみ」からの解放でした。
そして、他の人々へは、その「自己を解脱する」方法を教えることで、その領域を広げてゆくのです。
しかしそれを可能にする前提条件には、「出家(出世間・無所有となる)」が必要なのです。

釈尊は、出家の出来ない在家信者には、「天界転生(善処に赴く道)」を説いたのです。
(これは、言い換えれば現世成仏ではなくて、未来成仏の教えを説いたのです)

しかし、その在家の人たちが、在家のままで「苦の滅尽」に至ることが出来る「道(方法)」を、
何とかして見いだして、それを多くの人々に教えようと模索し、努力した人たちがいたのです。
(私はアーガマを部分的にしか読んでいませんから、未読部分にそのヒントが隠されているのかも知れません)

名も無きその人たちは、修行に勤しみ、智慧を磨き、釈尊が説いた教えを「核」としながらも、
その教えの(苦を滅尽する領域の)更なるバージョンアップを目指していったのです。

自己(小乗)から自他(大乗)へ、そして自他(大乗)から一切そのもの、つまり世界(密教)へと…

これを「救済活動」であると観る人たちがいますが、そうではありません。
何故ならば、「自己救済」そのものが、もともと存在などしていないからなのです。

私たちは、「無明」という迷妄を捨て去ることで、「本来の姿(ありのままの存在)」に気づくのです。
(それは、救うことでも、救われることでもありません。そのような二元的な意識からは離脱しているのです)


大乗仏教になると「本覚思想」と呼ばれる教えが登場します。


|本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、
|一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。
|如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。
|平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、
|あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。

|出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


釈尊が説いた「十二縁起」の不思議なところは、「無明」から始まる無明の連鎖(縁起の順観)と、
その「無明」の滅による連鎖の消滅(縁起の逆観)「だけ」しかそこには説かれていない、ということです。

つまり、肝心の「明」の説明がスッポリと抜け落ちているのです。


──それは、何故なのでしょうか?


釈尊の初転法輪で、五比丘の一人である尊者コーンダンニャに塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた時、
彼からは、次のような言葉が述べられたと伝えられているのです。

 『およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性有るものである』と。

生滅するものは全て無常であり、それらは縁起に従って変化をしているのです。
その「流れ」の実態は、その縁起の流れから「離れて観る(明)」ことでしか正しく把握することはできません。
変化や有無などの二元性を超越したところからしか、その変化を正しく観ることはできないのです。

「明」は、生起する性あるもの(滅する性あるもの)の範疇を超えている、つまり「縁起」を超越しているものなのです。
それは、縁起に依っては知ることの出来ないものであり、生死(生滅)を超えているのです。

これが、「本覚思想」が表現している「覚(本覚)」なのです。
そして、それを誰もがすでに「備わっている」のだ、と言っているのです。

そしてチベット密教のゾクチェンでは、これを「原初の境地」であると表現しています。


|ゾクチェンとは、ボン教とチベット仏教によれば、
|すべての人間を含むあらゆる有情の生きものの自然の状態または原初の境地のことである。
|ゾクチェンすなわち「大究竟」(大いなる完成)はニンマ派の中心教義であり、
|悟りへと通じる最上にして究極の道であると彼らは考えている。
|中観派の空性の教義はゾクチェンの実践に完全に適合しており、欠かせないものである。

|われわれの究極の本性は、純粋にしてすべてを包含する原初的な意識であるという。
|この「本来の意識」は無形のものであるが、あらゆるかたちを知覚・経験・反映・表現することができる。
|それらの形のありようがいかに究極的・恒久的であろうとも、
|それらに心動かされることなくただそうあるのが、本来の意識というものである。
|ゾクチェンの師らの喩えるところによると、ひとの本性とは、
|全開状態にあって何もかも映し出すがその影像に影響を受けない鏡のようなもの、
|もしくは、置かれた所の素材の色を呈するがそれ自体は変化しない水晶球のようなものである。
|師たちが用いる他の喚起的なフレーズはそれを「光彩」「あまねく広がる充満」「意識のある空間」と表現する。
|個人がゾクチェンの境地を継続的に維持することができれば、その人はもはや苦を経験することなく、
|すなわち日常生活において不満、緊張、不安を感じることがなくなる(涅槃と比較せよ)。

|出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


私たちの目の前にある「世界」は、私たちの心の働き(カルマ)によって形作られていきます。


| ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

|【真理のことば】ダンマパダ(中村 元訳)


その心はいつも、「相対性(縁起)」によって生起し、消滅を繰り返しているのです。

「救済する者」が有るとき、「救済される者」が有る(顕れる)。
「救済される者」が無いとき、「救済する者」が存在することは無い。
「救済する者」が成立するためには、必ず「救済される者」が必要なのだ。

私たちが、「救済」を意識し続ける限り、その心から「救済(する・される)」という二律背反(迷妄)が生起し続けてしまうのです。


──では、いったいどうすれば、この二律背反(迷妄)から抜け出せるのでしようか?



PS.これを「本編」にしてしまうと、実用書という流れから逸れていってしまいますので、「番外編」に訂正しました。
   KSさんの質問から縁起してしまった「説明の流れ」ですが、あと少しだけお付き合い下さい。

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 番外編 》

2010年02月18日 07時09分30秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
●オウム流「カルマ落とし」、竹刀で自分の足を叩くとカルマが落ちるのか?

花桜さんやKSさんから、-⑦のコメント欄に質問やご意見を頂きましたので、
今回は、それらについて説明をしてみたいと思います。

まず、花桜さんの質問から。

> 当時、オウムの出家修行者は座禅組んで自分の足を竹刀でたたいて、
> それを「カルマ落とし」と呼んでいたんでないの?
> 当事者じゃないからわからないけどさ。
> あなたはそれが自力のカルマ落としにはならないと思ってるってことでいいわけ?

「オウムのカルマ理論」でそのまま考えれば、このような「カルマ落とし」は成立しません。

自分と相手がいるから、原因と結果の間にタイムラグが生じるのです。
(壁にボールをぶつけると、跳ね返って戻ってくる。自分と壁の距離が長いほど返ってくるのは遅くなる)

しかし、自分で自分の足を叩くのは、「自分だけ」の自己完結の行為です。

つまり、壁を使わずに、自分の右手から左手にキャッチボールをしているようなものですから、
「叩く(カルマの発生)=右手」と「叩かれる(カルマの消滅)=左手」が、
ほぼ同時に、同じ「自分」の身体に生じている、ということになります。

ですから、オウムのカルマ理論で考えれば、
オウムが説明していた「自分で自分のカルマを落とす」という行為は、
「左手」の汚れを「右手」で拭いて、その汚れを左から右に移しただけで、
結局、右手も左手も「同じ自分」ということになり、「カルマの総量は一定(変わらない)」なのです。

この⑦の記事では、「オウムのカルマ理論」についての話しをしています。その中で、

> オウムの出家修行者は座禅組んで自分の足を竹刀でたたいて、
> それを「カルマ落とし」と呼んでいたんでないの?

という質問が出てきているのですから、オウムの理論を使えば、それはあり得ないと答えたのです。


それでは、オウム理論を使わなければどうなるのか?

…ということになると、また別の説明をしなくてはなりません。

本来のカルマ理論とは、物理的なものというよりは、心が造り出す「心理的働き(行為)」だからです。
この場合は、「心が造り出す働き」についての説明を、最初から始めなくてはなりません。

これは「縁起」の説明や「空性」の説明と関連してきます。

つまり、「心の働きの仕組みを理解して、それを自在に制御する」という実践と深く関わってくるのです。

 ※釈尊は、「心解脱(心の働きによる影響を受けなくなること)」を弟子達に教えたのです。

私は、この「 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流」を実用的なものとして書く予定でしたので、
理論などをあれこれ書くよりも、実践の具体的な方法論を中心にして書こうと考えていました。

でも、この三番目の実践は、「心の働きの仕組みを理解して、」ということなので、

「心の働きの仕組みを理解する=縁起や空性を理解する」と言い換えることもできるのです。

しかしこの理解は、人から言葉であれこれ説明を聞くよりも、実際に1と2の実践をすることで、
「今現在の、自己の心の働きを観察し続けること」に集中することで観えて来るものなので、
その実践をまずすることを、今回はここで提唱しているわけですが、…どうなんでしょう?

「心の働きの仕組み」について、もっと理論的に詳しく説明した方がいいのかしら?
(そうすると、実用書という最初の意図・方向性からちょっとずれてくるんですけどね…)



KSさんの質問の、

> オウムのことはよくしりませんが、
> ぐるあるいは主催神がカルマ交換により背負ってくれるので
> 将来高い世界に生まれ変われるというものでしょう。
> 同様な思想が日本に無いとお考えですか?
> とんでもありません。大乗仏教はほとんど全部がそうですよ。
> 例えば、オウムではマントラをとなえるだけの外道と蔑まれていたそうな、
> 南無阿弥陀仏の世界(どの宗派でもいいですが)死んだら即成仏ですよね。
> どんな悪業を積んでいても一度でも南無阿弥陀仏を唱えたら救われるのです。
> カルマ交換で聖者が救ってくださるのとどこが違いますか?

大乗仏教と、その源流となる釈尊の教えとの関係、あるいは密教との関係は、かなり複雑です。
そこに「方便(悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法)」というものが、
とても大きく関わって来ているからです。

釈尊の説いた教えは、出家修行(世間から離れて無所有となる)を中心として説かれています。
それに対して、大乗仏教は在家の人たちを、その対象として説かれ始めました。

その教えも、「一切皆苦」から「一切皆空」へと変化します。

それは「苦しみ」を利用して厭離・離貪・離解脱をするという方法ではなく、
全てを「空」と悟らせることで、煩悩(囚われ・結縛)を無力化してしまうという方法なのですが、
釈尊が教えた方法に比べると、かなり難しい実践法なのです。


喩えて言えば、目の前に赤々と燃える「炎」があります。

蛾は、そこへ飛び込もうとする本能(衝動・囚われ)を生まれつき持っています。

その炎は「苦(焼け焦げる)」だから、それを厭い、離脱しなさいというのが釈尊の方法です。
近づこうとする心の働き(引力)に、苦を観じることで生じる真逆の心の働き(斥力)を使って、
その「本能(衝動・囚われ)」を相殺(無力化・中和)してしまう方法なのです。

そしてこの相殺を達成した時に、「炎そのもの」を囚われから離れてありのままに観察出来るので、
そこから炎への正しい理解も生まれてきます。

目の前に燃えさかる「炎」。

これは善でしょうか?それとも悪なのでしょうか?


──「炎」そのものは、善でも悪でもありません(自性清浄・空)。

しかしそれが、例えば、暖炉の薪と結びつくと「暖房」となって善(有効)となり、
部屋のカーテンと結びついてしまうと「火事」となって悪(有害)となってしまうのです。

この条件生起(縁起)を正しく理解することが、智慧(慧解脱)なのですが、
最初に、心の中にある「囚われ」を相殺して(心解脱)しまっていれば、
この「流れ(それぞれの関係の変化)」を観ることは、とても簡単なのです。

しかし、その「囚われ」から離れる(相殺する)ことが困難な場合は、
そのままの状態から、「方便」を使って、何とか慧解脱にまで導くしかありません。

そこから、大乗仏教は生まれたのです。

その教えには、「天界転生」の教えと、「悟りへと導く」教えが混在しているのです。
(しかし、離解脱のプロセスが欠落しているために、実践をするのがとても難しいのです)

密教では、さらに一歩進んで、その「炎」を積極的に「有効活用」する方法を見つけ出します。
しかしこの「炎」は、原子力エネルギーのようなものなので、取り扱いを間違えると、
「原子力事故(大きな災い)」を起こしかねないので、とても慎重な注意深さが必要なのです。

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その8

2010年02月16日 21時38分35秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑧

●「可能にする実践」その3 -心の働きの仕組みを理解して、それを自在に制御する-

苦悩を滅尽するための三つの実践方法について、説明を進めてきましたが、
これまで説明した、

1.「ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見る」という実践。
2.「時間という観念を捨てて、目の前の連鎖の流れだけを観る」という実践。

というこれまでの二つは、本格的に苦を滅尽するための「準備段階」にあたります。

3.「心の働きの仕組みを理解して、それを自在に制御する」

ここで、心の奥底に根付いてしまっている、思い込みや囚われ(反射作用)を初期化してしまうのです。


──どうやって?


|275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。
|   (棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、
|   わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

|276 汝らは(みずから)つとめよ。
|   もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。
|   心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

|277 「一切の形成されたものは無常である」
|   (諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、
|   ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
|   これこそ人が清らかになる道である。

|278 「一切の形成されたものは苦しみである」
|   (一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、
|   ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
|   これこそ人が清らかになる道である。

|279 「一切の事物は我ならざるものである」
|   (諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
|   ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
|   これこそ人が清らかになる道である。

|  【 真理のことば・ダンマパダ 第二十章 道/中村 元訳 】 


釈尊は弟子達に、「三つの明らかな智慧」という観想法を教えていました。

観想法とは、今風に表現するならば、「イメージ・トレーニング」のことなのです。

1.「「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)
2.「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)
3.「一切の事物は、我ならざるものである」(諸法非我)

これらは全て、理性によって「理解するもの」ではなく、感性によって「体感(感得)」するものなのです。
多くの人たちは、ここを勘違いしてしまい、何とか理屈で頭の中で理解しようとして失敗するのです。


脳科学的な見地から言えば、

まず、脳はありありとした「イメージ」と「現実」を区別しない性質があります。
そして、「経験学習」によって獲得されたパターンは、「知識学習」によって変えることは非常に難しいのです。

それは、英語(感性)を話す相手に、日本語(理性)で話しかけるようなもので、ほとんど効果はありません。
相手が解るような言葉(方法)でアプローチをしなければ、効果(成果)は期待できないのです。


「諸行無常」「諸法非我」「一切皆苦」などは、四法印(涅槃寂静を加える)と呼ばれていますが、
これは別に、この現実世界の「実相(本当の姿)」を説明しているわけではありません。
(釈尊は、他の経典の中では「一切の見解」から離れることを説き、筏の喩えを説いているからです)

目の前の対象(現象世界・一切)に対して、私たちは、
心の奥底に「常・楽・我・浄」という強烈なイメージ(囚われ)を形成してしまっているのです。
それが、外界に強く投影されて、対象にそのイメージを重ね合わせ、激しい欲求衝動が沸き起こるのです。

ですから、イメージトレーニングによって形成した「無常・苦・非我(・不浄)」という想念(情念)を、
心の奥底に植え付けられてしまっている「常・楽・我・浄」にぶつけて「対消滅」させてしまうのです。

この実践を行うには、出家という環境が一番適しています。
これは一種の「苦行(苦をイメージする)」なので、無所有となって家を離れ、遊行生活をすることで、
実践する間の、その「感受する苦」を最小限に留めることが出来るからです。
(現世での実践は、昔のインドとは社会の条件が違いますから、工夫をして条件を整えることで可能となるでしょう)

これは、楽器の「弦」の調律に喩えることが出来ます。

緩みすぎていて(常・楽・我・浄)、正しく綺麗な音色を出せなくなってしまった楽器の弦を、
引き締める(無常・苦・非我・不浄)ことで、ニュートラルな状態へと整えていく作業なのです。
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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その7

2010年02月15日 15時23分33秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑦

●オウム真理教の教義 -「苦の総量は一定」と「シヴァ大神は根本グル(特別な存在)なのだ」-

例えば、ここに「Aさん」がいるとします。
この人は昔、他の人を殴ったという「カルマ(行為)」がありました。

オウム流のカルマ理論では、このカルマ(他に苦を与えた悪業)を精算してゼロにすることが解脱の条件の一つとなります。
(この悪業の精算を、意図的にすることを「カルマを落とす」と言いますが、まぁ、それは脇に置いておいて…)

Aさんが、この「悪業」を精算するには、過去とは反対に「誰かから殴られる」必要があります。

 「誰かを殴る」-「誰かから殴られる」=等価交換で、そのカルマが精算される(その残量が0になる)

しかしこの考え方からすれば、自分を殴ってくれる(その人が悪業を造る)「誰か」が、Aさんには「必要」なのです。
そして、その悪業(将来、他から殴られるというカルマ)そのものは、今度はその「誰か」が背負うことになるのです。
つまりこの世界観では、カルマそのものが「消滅する」ことはありえず、Aさんから他の誰かに「転移」するだけなのです。

このように、「誰かに殴られる(というカルマ)」は、人から人へと延々と果てしなく「転移(移動)」し続けるのです。
ですから、オウムでは「苦の総量は一定である(苦を生み出すカルマの量は変化しない)」と説かれていました。
つまり、何をやったとしても「この世界そのもの」から苦しみが減ることは決してあり得ないという世界観なのです。

ですから、「他人を浄めるためには、自分がその代わりに汚れる必要がある」ということになってしまって、
そこから「カルマ交換(カルマの転移・移動)」や「カルマ落とし」というような考え方が生まれて来てしまったのです。

この「カルマ交換」という考え方から、「イニシエーション」という修行方法がとても重要視されくるのですが、
オウムでこの「イニシエーション」が重要とされてしまったのには、もう一つ別の「理由」があります。

過去に為したことが「結果」として、そのまま、その行為をした人に顕れて(返って)きて、
過去に為さなかったことは、絶対に「結果」として顕れて来ることが不可能な「世界観」の中では、
誰一人として例外なく「自力」だけでは、解脱や悟りへと至ることが完全に不可能となってしまうのです。

つまり、今現在、「誰かから解脱や悟りに導いてもらう」という結果を得るためには、
過去において自分が「誰かを解脱や悟りに導いた」ことが無ければ、カルマの法則が成立しないからです。

何故ならば「自分が他に与えたこと」しか、自分が「それを後で受け取る」ことが出来ない世界なのですから…

自力では、解脱や悟り、苦の滅尽に至ることがまったく不可能な世界…それが、オウムの「世界観」なのです。

その不可能なことを「可能」にしてくれるのが、グルであり、グルの与える「イニシエーション」なのです。
この「カルマ交換」によって、弟子達は「他人を解脱や悟りに導いた」というカルマ(因子)をグルから分けてもらうのです。

そして、グルが「そのカルマ」を持っているためには、必ず、それをそのグルに与えてくれた、
さらにその上のグル(原因の原因となるもの)が、どうしても存在しなくてはなりません。
そのようにして、グルのグルのさらにそのまたグル…というように限りなく遡っていくと、論理的にはどうしても、
最初から解脱してしている、悟りを得ている、決して汚れることのない「根本グル(特別な存在)」が理論的には必要なのです。

この完全な、絶対的な「特別な存在」を認めなければ、カルマ理論的にも「イニシエーション」そのものが成立しないのです。

そしてこの「根本グル」という特別な存在を、オウムでは「シヴァ大神」と呼んでいたのです。

グルの中のグル、王の中の王、ブッダの中のブッダ、偉大なる、完全なる、絶対なる… 
オウムでは「シヴァ大神」を、そのように表現して、称賛し、礼拝して、崇拝をする対象としていたのです。

この「シヴァ大神」は、単なるインドの神様でも、そしてヨーガ経典で説かれている主宰神などでもありませんでした。
それは、オウムの「カルマ理論」が生み出してしまった、他の存在とは全く異なる「ただ一つの特別な存在」なのです。
そして、グルは、その「ただ一つの特別な存在」の代理人であり、弟子達はその代理人のさらなる代理人なのです。
ですから、オウムの弟子達が「選民思想」に陥ってしまったのは、ある意味「当然の帰結」だったのです。

これらの教義が、釈尊の説かれた教えとは「まったく異なるもの」であることは、間違いありません。

仏典(アーガマ)の何処を探してみても、このような説明は一つも見いだすことはできないのですから…

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その6

2010年02月14日 14時20分55秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑥

●オウム真理教の教義を分析する -「即時に効果の見られない、時を要する法」の世界観-

それではここで、私が以前6年間ほど(93年10月に離脱するまで)出家修行者として関わったことのある、
地下鉄サリン事件で有名となってしまった「オウム真理教」の教義について、少し分析をしてみたいと思います。

教団で説かれていた「オウム流カルマ理論」は、「即時に効果の見られる、時を要しない法」の対極にありました。
(ですから、この理論に囚われてしまうと、苦の滅尽、つまり解脱・悟りへは至れないのです)


オウムでは、「縁起の法」とは「カルマの法則」のことである、として信徒達に教えていました。
縁起=因果律=カルマの法則であると解釈してしまったのです。
そして、そこから「善因楽果・悪因苦果」というカルマ理論を人々に教えていました。

この「善因楽果・悪因苦果」は、確かに釈尊も在家の人たちに説いてはいましたが、
オウムではその内容が、とても「単純化(公式化)」され、そして「極端化(デフォルメ)」されてしまっているのです。

例えば、「為したことが返ってくる(原因が結果を生む)」ということを、完全に単純化してしまいます。

「昔、誰かを殴っていれば、必ず後で、誰かから殴り返される」
「昔、誰かを騙していれば、必ず後で、誰かから騙される」

イメージとしては、壁に向かってボールを「投げる」と、それにぶつかって「跳ね返ってくる」…という感じ。

「等価交換の法則」なので、ある意味、とても単純で解りやすい(?)教えなのです。

カルマというものを「物質化」して捉えている、と言えるかも知れません。
何故ならば、オウムの教えでは、「カルマ(行為・業)」は、交換できる「もの」になってしまっているからです。
一種の「記憶を伴った汚れ」のようなものとして捉えられていて、その汚れが少ない人ととても多い人が一緒にいたら、
例えば、二つの異なる濃度の容器をパイプで繋げると、「濃度の均等化現象」が起きるように、
「混ぜ合わされてしまう(カルマの交換が起きる)」とされていたのです。

しかし、そのように「カルマ」が人と人との間で「交換」できてしまったら、
カルマ理論の根幹を成している「自業自得」の原則は、簡単に崩壊してしまうはずなのですけどね…
(つまり、「自業自得」と「カルマの交換が可能」とは、二律背反なのです)

教団の信者達が体験していた「カルマ交換」は、本人の心理的な「暗示(思い込み)」によるものと、
実際に「エネルギー(邪気)」として捉えられ感じられるものの二種類があったようですが、
それらは共に、本来の仏教が説いてきた「カルマ」とは「異なる、別の何か」なのです。

気(生命エネルギー)は、気効治療なども存在していますから、当然与えたり受け取ったりすることが出来ます。
そしてその「気」には、色が付いているというか、その持ち主の「臭い」のようなものが付着しているのです。
つまり、長い間香木を包み込んでいた「包み紙」には、香木がなくなった後でも、その芳しい「残り香」が付着しています。
それと同じように、長い間「汚物」を包み込んでいれば、「とても嫌な臭い」が「残り香」として付着しているのです。

 ※サイコメトリ(その物質に薫習している持ち主の記憶や印象などを読み取る)という能力も存在しますから…


しかし、「自分が過去に為したことしが自分に返ってこない(エネルギー保存の法則)」と、
自分と他人の間での「カルマ交換(等価交換?)が可能である、という教えに「嵌(はま)ってしまう」と、
そこからいったい、どのような世界観が出来上がってしまうのでしょうか?

過去に為したことが「結果」として、そのまま、その行為をした人に顕れてきて、
過去に為さなかったことは、絶対に「結果」として顕れて来ることが不可能だという「世界観」の世界。


 ※問題なのは、この考え方には、必ず「(結果を与えてくれる)相手」が条件として必要になっていることです。
 そこには「自分が自分自身に為した行為(自力修行)」という領域が、完全に抜け落ちてしまっているのです。
 つまり、自他の関係、相手と自分との「因果関係・相関関係」だけを観て(扱って)しまっているのです。
  (絶えず他人を意識するために「「ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見る」という実践が出来きないのです)


──その「とても奇妙な世界(世界観)」を、これから順を追って説明してみたいと思います。

これを知ることで、何故、オウムが「イニシエーション」というものを重用視して、修行の根幹部分に置いてしまったのか?
そしてまた、「シヴァ大神」という「特別な存在」を造り上げてしまって、それを信者達が崇拝してしまったのか?
ということが、はっきりと観えてくるのです。

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その5

2010年02月13日 18時49分31秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-⑤

●釈尊の説いた「即時に効果の見られる、時を要しない法」とは、何を意味するのか?

|即時に効果の見られる、時を要しない法、
|すなわち煩悩なき(妄執の消滅)、をわたくしに説示しました。
|かれに比すべき人はどこにも存在しません。

|【「スッタニパータ」第五 彼岸に至る道の章より、1137 ピンギヤの言葉/中村元・訳 】


──しかし、この「時間」という観念を私たちが取り払った場合、どのような「関係」が目の前に顕れてくるのでしょうか?

という前回の、最後の問いかけへの解説を、それではこれから書き始めることにしましょう。



時代劇の好きな人、そして特に、戦国時代の武将達の「戦い」が好きな人には、この喩えが解りやすいと思います。

目の前には、今、「渇愛」と名付けられた、とても堅固な難攻不落の「お城」が建っています。
しかし豪多磨王には、何とかしてそのお城を攻略して、「攻め滅ぼす(滅尽する)」ことが急務なのです。
そうしなければ、いつまで経っても、そのお城を根城とした敵の軍勢が、豪多磨王の国に攻め込んできて、
「略奪」や「強奪」を欲しいままにして、日常生活をめちゃくちゃにして、焼け野原にしてしまうからです。

しかし、もう六年近くになる激しく苦しい戦いが続いていましたが、
その間、敵の軍勢を「城の中に閉じこめておく」ことはできても、落城させることはどうしても出来なかったのです。

このまま、このやり方で戦い続けていても埒(らち)があかない…

そう考えた、豪多磨王は、新しい軍略を考えます。

相手の軍勢が、6年もの長い間、籠城したままで「持ちこたえ続けて」いられるのは、どう考えてもおかしい。
もしかしたら、地面の下に掘られた地下道のようなものがあるのかも知れない…
そこから、あの城に「食料や武器」などが常に補給され続けているから、いつまで経ってもその勢力が衰えないのでは?

これは、詳しく調べてみる必要がありそうだ。

そこで密偵を放ち、色々と調査をさせてみると…

実は「渇愛城」の軍勢には、強力な支援同盟を結んでいる、「無明」と呼ばれる大きな町があったのです。
この町が、後ろ盾となって、「渇愛城」に食料や武器などの必要な物資を補給し続けていたのでした。

それを知った豪多磨王は、「渇愛城」からひとまず離れ、「無明」と呼ばれている町へと向かったのです。
そこを攻め滅ぼせば、軍事物資の補給を断つことが出来る。そうすれば、後は「兵糧責め」をするだけで、
難攻不落と言われた「渇愛城」も、相手の食料が尽きるのを待つだけで落城させることができるに違いない。

「無明」と呼ばれる大きな町は、絶えず霧に包まれているという風変わりな町でしたが、
特に、塀に囲まれて守られていることもなく、無防備に近い状態でしたので、
豪多磨王は、難なく、あっという間にその町を攻め滅ぼすことが出来たのでした。

この町が滅んでしまったことによって、難攻不落と言われた「渇愛城」も、やがて落城するに至ったのでした。




──上記で喩えとして表現している「戦い」は、常に「今現在」の戦いなのです。
そこで分析されている「因果関係(原因と結果)」も、「今現在(という状況の中)」での相関関係性なのです。

私たちが「何かできる(それが可能である)」領域とは、常に「今」しかありません。

明るい未来を、いくら渇望してみても、それはまだ「訪れていない」ものなのです。
それをすぐに手にすることは決してできません。
そして過去は、いくら後悔してみても、すでに「過ぎ去った」ものなのです。
それを変えることは決してできないのです。

アーガマの中で語られている「四禅定」の説明の中では、

 未来への渇望と、過去への悔恨から離れて…

という説明が、繰り返し登場してきます。


「無願」という言葉は、「何も願わない」ということではありません。
「未来に囚われて、一番大切な、今現在という時、そのものを見失ってはいけない」ということです。

私たちが具体的に「何かをする」ことが出来るのは「今」しかありません。

ですから、将来解決できる(かもしれない)ことの準備を「今」することよりも、
「今、解決できる方法」を見つけ出すことが、「それを可能にする」ための大切なポイントなのです。

ですからそのために、「縁起を観る」ことを、過去や未来に拡散させずに「現在に絞り込む」必要があるのです。

そしてそれが「時間という観念を捨てて、目の前の連鎖の流れだけを観る」という実践なのです。


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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その4

2010年02月12日 03時30分40秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-④

●「可能にする実践」その2 -時間という観念を捨てて、目の前の連鎖の流れだけを観る-

苦悩を滅尽することを「可能にする実践」の二つ目のポイントは、時間という「観念」を捨てることです。

私たちを取り巻く「無常の世界」は、因果律という原因と結果の連鎖する世界です。
それは間違いありませんし、それを無視しろということを言っているのではありません。
ただ、その因果律に囚われてしまうと、苦を減少させることは出来ても、滅尽することは不可能になってしまうのです。

その理由を、これから解りやすく説明したいと思います。

※ これを理解すると、オウム真理教で説かれていた「教義の誤り」を、明確に証知することが出来るようになるでしょう。
(オウムの教義とその世界観の分析は、後で詳しくここで説明しますので、お楽しみに…)


|因果性(いんがせい)とは、何かある物事が他の物事を引き起こしたり生み出している、とされる/する、結びつきのことである。

|( 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


因果律というのは、物事や現象などの因果関係(原因と結果の関係)を表す法則のようなものを指します。
「のようなもの」と私が言ったのは、それが推論などの思考・理論にによって組み立てられているからです。
それが、「種を蒔いて、水や肥料を与えると、やがて芽を出して、果実が得られる」というイメージなとで補強されるのです。

1.「蒔かぬ種は生えない(原因が無ければ結果は生じない)」
2.「自分で蒔いた種は、自分が刈り取らなければならない(原因があるから結果が生じる、自業自得なのだ)」

因果律は、時間(の経過)と関連づけられて理解され、私たちに認識されていますす。
しかし、この「時間の流れ・経過」に囚われてしまうと、苦しみを滅尽することは不可能になってしまうのです。
何故ならば、絶えず「過去と現在と未来(という時間を)」を見つめることになるからです。

例えば、縁起の法の「此がないときに、彼がない(逆観)」について考えてみましょう。
これは因果律的に表現するならば、「蒔かぬ種は生えない」ということになります。
しかし、すでにその結果が生じてしまっている場合は、「覆水盆に返らず(零れたミルクは元には戻らない)」で、
その原因そのものを消滅させることは出来ません(それはすでに、過去へと去ってしまっているからです)。

つまり「「此がないときに、彼がない(逆観)」という観察は「絵に描いた餅(実用性がない)」になってしまうのです。
すると「未来への正しい準備・予防対策」のため「だけ」にしか、縁起の法(逆観)を利用することが出来なくなるのです。

しかし釈尊は、「現実にある(目の前にある)苦しみ」を消滅させる方法「そのもの」を、多くの人々に教えていました。

|マールンキャプッタよ、
|人間は死後も存在するという考え方があって
|はじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
|また人間は死後存在しないという考え方があって
|はじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

|マールンキャプッタよ、
|人間は死後も存在するという考え方があろうと、
|人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
|まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
|現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

|【「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』】


※ところが釈尊の死後、この縁起の法は後世の弟子達によって、「時系列的な因果律」として解釈されるようになりました。
(その代表的な例が、部派仏教の説いた「業感縁起」という仏教教義なのです)

確かに釈尊は、善因楽果・悪因苦果という「カルマの法則」を、多くの在家信者たちに説きました。
しかしそれは、出家修行が出来ない人たちのための天界転生(死後に善処へ赴くこと)を目的とした教えだったのです。

過去・現在・未来という「時間の流れ」に囚われると、現在(の価値)そのものを見失ってしまうのです。
現在はただ、過去からの結果を精算して、未来の果を生み出す種まきをする「だけの準備期間」になってしまうのです。



──しかし、この「時間」という観念を私たちが取り払った場合、どのような「関係」が目の前に顕れてくるのでしょうか?

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■ 苦悩は一つ残らず滅尽できる!@和井恵流 《 本 編 》その3

2010年02月11日 03時48分04秒 | 苦悩は一つ残らず滅尽できる!
第一章 苦悩は必ず滅尽できる! -それを可能にする原理とは何か?-③


●何故、自分のしたこととしなかったこと「だけ」を見ることが必要なのか?

もう少し、「誰かから貴方が悪口を言われてしまったとき」の考察を続けてみましょう。

その悪口を、貴方は「食べて(受け取って)」しまいます。そして、心に怒りが生起してしまいました。
すると貴方は、心に生じてしまった「怒り」が、何故起きたのか「原因」を知ろうとします。

相手の言った悪口の「内容」が理不尽なものであったならば、そのデタラメな内容の「せいだ」と考え、
内容よりもむしろその「言い方」あるいは相手の気に障る「態度」などへと意識が向いてしまえば、
相手の性格や態度や人間性にその欠陥を見つけ出し、その「せいだ」と考えてしまうのです。

私は怒っている! → それは怒るべき正当な理由(原因)があるからだ! → だから私が怒るのは当然だ!!。

普通私たちは、原因がそこにあるから結果(怒り)が生じたのだ、と単純に考えてしまいます。
しかし、臨床心理学では、これとは「逆の流れ」を説明するのです。

催眠術の中に「後催眠」と呼ばれるものがあります。
これを私は、催眠術に興味を持っていた高校生の頃に何度か友達を使って(!)実験をしたことがあるのです。

相手を催眠術にかけて、それを解く前に、つきのような暗示をかけます。

「貴方は目覚めた後で、私が右手で頭を掻くと、窓まで歩いていって、閉まっている窓を開けますよ!」

私たちは、第二レベルの「知覚支配」までは、催眠状態での出来事を全て憶えていますが、
それが第三レベルの「記憶支配」に入ってしまうと、その時のことは憶えていません。
また、第二レベルの「知覚支配」であったとしても、「目覚めたら忘れていますよ」という暗示をかければ、
そのこと「だけ」は、催眠が解けた後に暗示によって忘れてしまうのです。

──そして、催眠を解いた後でしばらく雑談をして、そして何気なく右手で頭を掻くと…

相手は急に、そわそわと落ち着かなくなり、辺りをキョロキョロと見渡します。
そして立ち上がり、歩いていって「窓を開けて」しまうのです。

どうして窓を開けたの? と聞くと、色々な答えが返ってきます。

何となく、空気を入れ換えたくなった、とか、涼しい風を肌で感じてみたくなった、
あるいは、外で何か変な物音がしたから覗いてみた…などなど。

そして、その人達は「その説明(理由付け)」を、心から本気で信じ込んでいるのです。
その後で、私が「後催眠」の封印を解くと、忘れていた私の暗示を思い出してビックリするのです。

つまり、暗示によって条件付けていた「しぐさ(トリガー・きっかけ)」を与えると、
潜在意識に眠っていた「暗示(アンカー)」が働き始めます。
そして、心に生起した「衝動(潜在的な形成力)」に動かされて行動を起こしてしまい、
その自分の行動を「正当化(納得させる)」ために、自分でその理由を造り上げてしまうのです。

この心の働きを、心理学では行動の「理由付け」あるいは「合理化」と呼んでいます。

私たちは、何か理由があって行動をするのではなく、心に沸き起こる「衝動」に動かされてしまい、
それを「正当化」させるために、その「理由」を探して見つけ出すか、勝手に造ってしまうのです。

この心理的な「カラクリ(情報操作)」に気づかない限り、私たちは「衝動(条件付けられた反射作用)」に支配され続けるのです。


相手に悪口を言われると、すぐに心に怒りが生起してしまいます。
それは、そのような「条件反射(生理反応)」をしてしまう「刷り込み(記憶修習)」を、
今までに何度も何度も、生活の中で「パターン認識(こうすればああなる)」してしまっているからです。
つまり、心の中にそのような「縁起の法則」を自分で造り上げてしまっているのです。
それは、自分の経験や、周囲の人たちの反応、TVドラマなどでの感情表現など、
沢山の「事例(そのようなパターン)」を見続けることによって、それを確立してしまうのです。

ですから、相手が言った「言葉の内容」が間違っていれば、その内容に怒りの原因を見つけ出し、
内容そのものに間違いが見いだせなければ、相手の言い方や態度、さらにはその性格(人間性)へと、
その「原因(衝動を正当化できる何か)」を探し続けてしまうのです。

縁起とは「流れ」を観ることですが、その流れが「何故起きるのか?」という根本因を見つけ出し、
それが無ければ、この縁起は消えてしまうと知り、その「流れ」を遮断することにこそ、意義があるのです。

縁起の法とは、心の外側にある「これ」と「それ」の関係(これがあるからかれがある)を「知る」ことではありません。
外界のそれ(生起する流れを知る)だけでは、そのまま「何も変わらない」からです。
自分の心の中に「流れ」を生じさせる「根本因」を知って、その仕組みそのものを消滅させる(これが無ければ、かれも無い)こと。

これが釈尊の説かれた「四聖諦」、あるいは「二種の観察」と呼ばれている実践方法なのです。

そしてこれは、外界の諸現象や因果関係、人と人との関係などを観察し続けることなどではなく、
自分の心の働き「そのもの」を観察し続けることによってしか、知ることは出来ないのです。


ですから、苦を滅尽する一つ目の実践は、

「ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見る」という「縁起(心の流れ)を観察する」という実践なのです。




★繰り返された条件付け、思い込みや暗示、封印された特殊な記憶・経験など … 心の奥に潜んでいる(アンカー)。

★衝動・潜在的形成力、心理反応・生理反応 … 条件(トリガー)によって生起・起動する。

★その衝動を自分が正当化できる理由を、何処かに探して識別しようとする … 意識の正当化作用。

★その識別に選ばれた言葉と観念やイメージで、その識別・認識そのものを確定させる … 理屈付けの成立。


──という心の流れ(縁起)があることを知り、自らの心の奥に潜む「無明」を正しく観察するのです。

それは、どのような心理的・生理的条件反射なのか?暗示なのか?思い込みなのか?

そしてどのような外的条件(トリガー)に対して激しく反応してしまうのか?

それら(此があるときに彼がある、此がなければ彼もない)を明確に証知して気づくだけで、
その流れは勢いを失い、自動的に消滅してゆくプロセス(自滅する流れ)に入るのです。

(つまり、明知が無明を滅するのです)


最後に少しだけ、三番目の「心の働きの仕組みを理解する」という実践についての説明を加えてみました。 
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