和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

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久しぶりのブログです。。。(#^.^#)

2015-01-06 15:50:03 | 日記・エッセイ・コラム
 あまり性格が、マメではないので、ブログの更新をすっかりサボってしまいました。

年末年始は、バタバタといつのまにか過ぎ去ってしまい、今は、もっとも大きい行事である、「報恩講」の準備に追われております。

しかし、除夜の鐘には、たくさんの方が、鐘を突きに来てくださいました。ぜんざいと甘酒の御接待がよかったのか、ライトアップがよかったのか、とにかくうれしい限りです。

これをご縁に、気軽にお寺へ足を運んでくださるといいなと思い、来年への活力とさせていただきました。

 本日は、時間がないので、除夜会と除夜の鐘のご報告です。
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秋の彼岸に想う

2014-09-13 20:35:18 | 日記・エッセイ・コラム
 今年の夏も、様々な地域で異常気象といわれる現象が起きました。被災されたすべての方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 大いなる大自然の中に生かさせていただいている私たちですが、日ごろはそんなことは忘れ、我が物顔で大地を闊歩し、地球上でもっとも偉大な生物のようにふるまっています。しかし、自然の猛威の前には、ただただ、なすすべもありません。そのたびに、地球の、自然の偉大さ、怖さを思い知らされます。すべてをコントロールできると勘違いしている私たちは、その瞬間まで、気付けずにいます。
 
 人は、いつから大いなる存在から目を背けるようになったのでしょう。インターネットや交通手段の発達は、世界を身近に感じ、見分を広めはしますが、私たちの視野は狭くなったのではないかと思ってしまいます。過去の先人方は、狭い環境で生きていたにもかかわらず、見ている世界は、とても大きなものであったような気がしてなりません。八百万の神々、曼荼羅の佛、人が踏み入れない深山に巣食う魑魅魍魎、妖怪、様々な人を超えた存在を認識し、怖れ、敬い、行動を制限して生きてきました。現在も残る地方の風習などは、その名残です。
 
 しかし、地方の風習は忘れ去られ、様々な禁忌も、俗信迷信と一刀両断に切り捨てられ、その結果、私たちは、敬うべきものと、怖れるものを失いました。そして、情報過多の現在、理由もわからず、伝承もわからず、その情報に振り回され、自己の立ち位置を見失っています。
 
 大いなる存在を認識し、それと向き合うということは、自己の存在を確定し、行動を制限し、物事の本来のありようを知ることではないかと思います。そして、私たちが知りえる知識は、その大いなる存在を知るためのものではなく、大いなる存在の中に包括されているものであると知ることが、大切なことのように思います。
 
 たとえば、一つの水槽の中に、生態系を再現し、一切手をかけずにその水槽を維持するというものがあります。これは、一見、生態系を私の手によって作り上げたように錯覚しますが、既存の生物が、絶妙なバランスにより自然発生的に増減し、自然(じねん)の法則により、生態系が再現されたにほかなりません。この現象により知りえる知識は、地球に包括されている、宇宙に包括されている現象であり、知識です。この知識を知って、地球を、宇宙を知りえることは、ありえません。しかし、その知識の積み重ねが、いつかはすべてを知りうる完全なる知識となるのでしょうが、その知識の蓄積は、天文学的な世代交代の中でなされていくことでしょう。しかし、各分野で別々に知識を持っていたとしても、すべてを知りえる人は、存在しえないといえます。なぜなら、人の一生は、それを学ぶには短すぎるということです。もう一つは、能力の限界ということも言えます。宇宙、物質、物理、化学、生物、自然科学、科学、心理、すべてを理解し、再現できてはじめて「知る」といえるのではないかと思います。そう考えれば、医学の世界においても、専門分野がありますし、物理、化学の世界においても専門分野があります。つまり、たった一つの事柄を研究しても、一生を費やすほどの知識量であるということです。それが、各分野において、すべて解明され、実践されたものを、完全に習得するということは、「不可能」としか言いようがありません。
 
 私個人の感覚ですが、それを成し得る存在が、「佛」なのだと思います。そして、その「不可能」を「可能」にする存在は、今ここにある「すべて」としか言いようがないでしょう。すべてのありとあらゆる現象、物質、生物が、おのずからしからしむる世界。ありようのままそこにある世界に満ちるそれを、親鸞聖人は、「自然(じねん)」と言われた気がしてなりません。そして、そのものが「阿弥陀仏」なのだという気がしてなりません。
 
 私は、浅学菲才の身でありますので、浄土真宗の教学において、このことが正しいのか、間違っているのかは、わかりません。これは、どこまでいっても理論の世界ではなく、「儀礼」の世界観だと思います。阿弥陀仏と対峙し、生きとし生ける命を感じ、その住まう地球を感じ、その存在しえる宇宙を感じ、その宇宙が、ひとひらの小さな花の中に満ち満ちている世界。わたしの中に満ち満ちている感覚。

 阿弥陀仏の他力は、この私を佛に成し得るはたらきです。このなにもできない、欲望に振り回され、自分勝手な人生を生きている私が、完全なる「佛」とならせていただく教え。その到達先を「彼岸」とお伝えくださいました。

 秋の彼岸は、命の終焉の先にある彼の岸を想うに、いい季節だと思います。人は、物事を理解するのに、文字や映像がないと、理解できません。そのための「彼岸」であり、「阿弥陀仏」であり、「南無阿弥陀仏」であります。そして、この「南無阿弥陀仏」が、最少であり、最大である儀礼空間を瞬時に開花させる、すべてのはたらきそのものであるということなのかもしれません。

 念仏の人生とは、一個の命に、かくも広大無辺な、そして、極小の世界を展開してくださる、とてつもないはたらきを有する、ありがたい人生でありました。

 日記だからと、思いつくまま、気の向くまま、書きたいように書いていますので、あとで読み返しても、感じたことの極々一部しか表現できていない、語彙力のなさ、文章力のなさに、涙がちょちょぎれますが、いたし方ないことです。
 
 日々変化する人生を、念仏とともに、阿弥陀如来様とともに、右往左往しながら、たまにこんなふうに日記をかきながら、再確認しつつ、また、後日読み返しつつ、慚愧と歓喜の報恩感謝をいただきながら、生きていきたいと思います。
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死をみつめる

2014-08-01 23:14:59 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに、ゆっくりブログを書く時間を持てたような気がします。文章を書くというのは、心がざわついていると、なかなか書けないものですね。
 先日、西濃北組(お寺のお仲間の単位)の連続研修(定期的にお寺での研修、学びを繰り返し、浄土真宗本願寺派における門徒推進員という資格の取得を目指す研修会。西濃北組では、2年を1クールとして、月1回の研修を開講)の本山での一泊研修がありました。主に皆さんで自由に意見を交換してもらう「話し合い法座」と呼ばれるものが、中心です。今回のテーマは「葬儀と看取り」でした。
 

 昨今は、死と向き合うことが少なくなり、死は日常ではなく、非日常となりました。生きることが当たり前で、死ぬことは非現実的な事柄として、封印されようとしています。しかし、どれだけそう望んでも、死は突然、私を含め、あらゆるところに訪れます。その時、私たちはちゃんとその死と向き合えるのでしょうか。私は、死を受け入れられるでしょうか。愛する者の死を、直視できるでしょうか。ゆっくり、時間をかけて、死に向かっていけるご縁ならば、それも可能かもしれません。しかし、突然の別れではないという保証は、どこにもないのです。その時の苦しみと悲しみは、想像を絶するものとなるでしょう。私たちは、その想像を絶する苦しみと悲しみを直視することを恐れ、思考の外へと追いやろうとします。これは、純粋な人間としての、自己防衛の故でしょう。本能的に、ストレスのかかることを、避けているのだと思います。
 

 しかし、本能的に楽な思考をすることは、残念ながら大切なものを見落とし、見失ってしまう危険性をはらんでいます。
 

 昨今は、とかく葬儀の形がとやかく言われているように思いますが、まず、その前に「死に方と生き方」を考える人生へと、自らがシフトしていくことが大切なような気がします。そして、「死に方と生き方」を考える人生は、「死」と「生」の意味を考える人生へと転換されます。そして、私の命において、私に都合のいい「死」と「生」の意味など、なにもないことに気付かされた時、私を超えたものより提示される「死」と「生」の意味の重要性に目覚めてゆくような気がします。
 

 阿弥陀仏は、この私の命を、救うべき対象として、仏となる命として、存在の意味を与え、そして、死を「往生」という佛となる転換としてお示しくださっております。そのはたらきは、私の自己中心的な欲望の延長にある「命の意味」ではなく、それを超越した存在からの、まことの「いのちの意味」を知らしめるものであります。そのはたらきを聞くものは、日常の中に、「死」と向き合うことの大切さを知ります。

 私たちは、日常的に多くの命を抹殺しています。草や木、小さな虫たち。便利になるために、自分が楽をするために、快適に過ごすために、施設を維持するために。様々な理由で、本当に多くの命を、なんの罪悪感もなく、まさしく「消去」しています。

「そんなことにいちいち感情移入していたら、日常生活が送れない」


 しかし、本当にそれでいいのでしょうか。本当に、日常生活が送れないのでしょうか。心をいため、申し訳ないと思いつつ、それでも生きていくために命を奪い続ける、我が命の罪悪性に気付かされなければ、本当の死の恐怖は、わからないのではないかと思います。そして、本当の死の恐怖と向き合った時、はじめて生の喜びに打ち震えるのでしょう。だからこそ、人は人に優しくあれという、思いがわいてくるのではないかと思います。思いやりや、優しさ、慈しみの心は、人がもつ素晴らしい感情だと思います。しかし、それすら自己中心的、自己満足的な感情へと変化してゆく我が心において、真実は他のはたらきより示される死と生の枠組みを超えた、「いのち」にたいするまなざしです。
 

 佛のまなざしをいただきつつ、我が命と他の命の境を消し去った、一なるいのちの世界に気付かされ、その浄土という世界を目指す人生へと我が命を転じてくださった、阿弥陀仏のはたらき、他力に感謝せずにはおれません。
 

 余談ではありますが、先日ラジオのDJの方が、人任せの事柄を気楽に「他力本願」と言っておられましたが、まったく意味が違います。よく誤解されて使われますが、この「他力本願」は、阿弥陀仏のはたらき、願いによる力そのものであり、生きとし生けるものを救おうとする阿弥陀仏の願いそのものです。その願いのはたらきによりなされてゆく人生の転換が、この日記にかかれていることすべてです。

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慚愧と歓喜

2014-06-19 00:12:16 | 日記・エッセイ・コラム

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 正覺寺では、偶数月の16日に、「仏法庵」と称して、主に男性を対象として、本願寺出版社版の「仏事のイロハ」を用いての勉強会。また、奇数月の16日も、「慈光庵」と称して、主に女性を対象に、「書いて味わう御文章」を行っています。
 昨晩は、「仏法庵」がありました。はじめてもう、2年以上経つでしょうか。最近は、メンバーも固定してきて、御新規さまは、長いことありません。
 この日は、岐阜別院常例布教を午前午後とさせていただいて、その夜の7時より、「仏法庵」です。一緒に仏事のイロハを読んで、その内容にまつわる様々なお話を思い思いに、口にします。
 普段は、なかなかゆっくりお話をする機会もないので、私にとっても貴重な時間です。
 「仏法庵」「慈光庵」と、毎月の常例法話会、日曜学校と、定例の催しをしていて、主催者側として気になるのは、やっぱり参加人数です。今現在は、決して多いとは言えない状況です。しかし、この少なさが、私に教えてくれたことがあります。
 「今あることに感謝する」という、当然といえば当たり前のことを見失っていた自分に、気付かされました。なかなか、人数が増えない。誘っても来てもらえない。そういうことにばかり心を奪われ、今ここにある尊いご縁を忘れていたのです。
 そのおかげさまで、今は人数はまったく気にせず、続けています。紹介やお誘いは、当然平行して行いますが、それによる一喜一憂は、なくなりました。
 

 浄土真宗のご縁をいただき、自らのなすべきことを問うていたとき、蓮如上人のお伝えくださった「ひとりでも信を得たならば、それが一宗の興隆である」とのお心を目標にしようと思ったことをあらためて気づかされたことです。

「今ここにある出遇いを尊いご縁と喜ぶことが、転じて我が思い上がりの内なる罪悪性に気付かしめる」

 私の阿弥陀仏との日常生活において、「慚愧」と「歓喜」は、テーマのように、私の心に漂っています。そして、そこにはもう一つ「あまえ」があります。
 古来、浄土真宗において、阿弥陀仏を「親さま」と親しみを込めて、呼び習わしておりました。子は、親に甘えるものです。自分が悪いと頭では分かっていながら、その自分を最後には許してくれる親としての存在に、子は甘えます。この「親」という喩は、すべての人に共通する感覚ではありませんが、親を阿弥陀仏に当てはめるのではなく、阿弥陀仏の慈悲を命の親としてとらえた時の子の態度を示したものです。
 この親の慈悲の心に触れたとき、子は少しずつ育てられ、最初は理解できず、突っぱねるだけであったのが、自分のことが少し恥ずかしく思うようになり、心の中で「ごめん」と思うようになります。そして、その思いは、行動へと転ぜられ、心の変化を促します。この変化は、「あまえ」がある故です。あまえられる相手があるからこそ、人は変わっていけるのでしょう。そして、大切なのは、我が心に至り届いている原動力としての「おもい」です。
 阿弥陀仏の「おもい」は、わたしの心へと至り、原動力となってわたしの方向を転じていきます。そして、私の存在を全面的に受け入れ、その命を支えます。阿弥陀仏が「そのまま」うけとめてくださるのは、このわたしの存在そのものであり、命そのものです。その絶対的な存在肯定にあまえる私は、その思いに触れるたびに、少しずつ自分が恥ずかしくなり、少しずつ心の中で「ごめんなさい」と思うようになります。そして、この思いは阿弥陀仏の「おもい」であることに気付かされていきます。その阿弥陀仏の「おもい」に突き動かされ、私は心を是正していく努力をするようになります。その発露たる行動を是正していこうとします。そして、そのたびに自らの根源的欲求と阿弥陀仏の「おもい」との落差に愕然とします。そして、また「あまえ」ます。
 文章にすると、どうしても前後が出てしまい、時系列のような表現が現れてきますが、これらの変化は、すべて同時進行といえるでしょう。慚愧と歓喜とあまえと許しとが、渾然一体となって、私の命を導いていきます。
 

 話は変わりますが、いまはやっている歌の歌詞に「ありのままの自分でいいの」という言葉があります。この言葉を聞いたとき、私は「なにをもってありのままの自分とするのか」ということを最初に思いました。よく「本当の自分」「そのままの自分」という言い方をしますが、それは結局のところ、性格や行動、性別等、変化しうるものを細分化せず、すべてを対象に言っているように思います。元来、命の存在において、その内包する本質による外的発露というものは、千変万化で一定ではありません。特に「人間」という枠組みでは、顕著です。様々な外的内的要因で、変化していきます。ここで言う外的内的要因とは、外からの刺激による内面的な変化、それにともなう内面よりの発露としての言動を言います。また他に、元来本質が備え持っているものによる内面的発露も存在します。どちらの内面も、命に内包される本質が備え持つ様々な要因による発露にほかなりません。そして、その発露も自己中心的な欲求による許容されるべきでないものと、根源的な内包による許容されるべき発露があることを知らなければなりません。つまるところ、その本質ではなく、変化しうる外的内的発露を細分化することなく、すべて「そのまま」でいいということは、変化を放棄することであり、すべてを許容してしまう危険な考え方のような気がします。
 命の存在の絶対的肯定は、その変化しうる発露ではなく、私のいまここにある存在そのものであるということです。そしてその本質を肯定したうえで、様々な影響を受けて表出される私の発露は、阿弥陀仏により許容されるべきものと、許容されざるべきものとにわけられます。その結果、私の心には、「慚愧」と「歓喜」の感情が浮かび上がります。

 この本質ともいうべき命の存在そのものも、私たち人間は、感知することができません。それを感知できるのは、その存在の本質そのものから一切の発露の源を除去することに成功し、その本質の根源へと昇華していった「佛」と呼ばれる方々だけです。
 いま、ここで「本質」という言葉を用いていますが、適当な言葉が浮かびませんので、仮に「本質」と書かせていただいております。いわゆる「霊」や「魂」といった意味のものではありません。また、変化しない絶対的なものでもありません。本質もまた、変化していきます。故に、「佛」になることができるわが命であります。しかし、その力は、現代の人間にはないと、親鸞聖人はお伝えくださいました。
 佛の智慧の眼の一端をお聞かせくださる様々な教えにより気付かされる世界は、本当に不可思議です。その不可思議な世界を、自分の言葉で表現してみようと思いましたが、なにやら難解な変な文章になってしまい、よかったのか悪かったのか・・・正解なのか不正解なのか。。
 とにかく、今、この私が感じている世界観を表現してみました。いかんせん、言葉には限界があり、文字にしたとたん、そこには閉じた世界が出現します。ですので、誤解をまねく表現や、言葉足らずなことも多いかと思いますが、日記ということで、お許しいただきたく思います。

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歴史

2014-06-10 22:26:11 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、6月6日。浄土真宗本願寺派の御門主様が代わられる「法灯継承式」に、讃嘆衆奏楽員として、出勤させていただきました。まさに、歴史の瞬間に、本山の阿弥陀如来様、御真影様の御前にて、お参りさせていただけたことは、本当にありがたいご縁でした。惜しむらくは、前日の御消息発布式とお夕事に、諸般の事情で、出勤できなかったことです。
 しかし、前御門主様と御門主様の宗門を思うお気持ちに、少し触れたような気がして、ありがたいご法要でした。懐かしい友人にも会え、宗祖親鸞聖人より、連綿と受け継がれてきた、仏法の灯が、今、こうして私たちを導き、共に念仏の大道を歩む御同朋(仲間)として、包んでくださっているのを、感じずにはおれませんでした。
 世の中では、宗教離れが叫ばれている昨今ですが、私は、現代にこそ本物の宗教が必要だと感じています。「宗教」というくくりがあいまいなら、「人を導き、育てる、人を超えたものの教え」とでも言いましょうか。
 御門主様が、「大胆な発想の転換」というような表現を使っておられました。
伝統と革新の融合こそが、現代における課題でしょう。形にとらわれず、かといって、形をないがしろにすることなく、根底を見据えた活動が、必要不可欠です。
 人にとって、「救い」とは、なんなのでしょう。自らの欲望を満たすことが、救いなのか。それとも、その欲望を滅することが、救いなのか。欲望を持ちつつ、それに振り回されない教えと出遇うことが、救いなのか。
 人が求める「救い」は、やはりその「人」の主観による救いです。それは、どこまでいっても、「人」を超える救いではないように思います。
 「人」が求める救いではなく、「人」に対して「与えられる」救いこそ、本物の救いのような気がしてなりません。だから、「救い」とは、「出遇い」なのだと思います。救いに出遇うのです。
 親鸞聖人は、阿弥陀如来の救いのはたらきにであうことを、「遇」の字をもって、お伝えくださいました。「遇」は、「たまたま」と表記され、さまざまなご縁による不可思議な、そして、すばらしい出会いとして、お示しくださいました。
 20年前であれば、何も感じなかった、今回のご縁が、ここまでありがたく、尊いご縁といただけるのも、この長い歳月をかけて、お育て下さった阿弥陀如来と還相の菩薩方のおかげであります。
 私事ですが、2年前の夏に、実父が往生いたしました。その父も、浄土へ往生し、還相の菩薩となって、お念仏となって、この2年間、わたしを育ててくださった。だからこそのありがたいご縁だったのでしょう。
 私は、常に本願寺8代宗主、蓮如上人がお伝えくださった言葉を、心にとどめています。それは、現代の言葉でいえば「一宗派が、興隆するというのは、信者の数が多く、権威があることではない。たとえ一人といえども、本当に救われた人がいれば、それが一宗派の興隆なのだ」という内容です。
 このお心をいただいて、この世の縁尽きるまで、報恩行を務めさせていただこうと、あらためて思わせていただいた、尊いご縁でありました。
 

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