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日本幻景 #25 — 広告三題

2019-07-11 20:10:28 | Bibliomania
◎原発広告
☢ビートたけし、新潮45の連載対談・2010年6月号にて原子力委員会委員長の近藤駿介(東京大名誉教授)と対談。「おいらは大学も工学部ですから、原子力関係の話は大好きなんですよ。きょうは新潟県にある柏崎刈羽原子力発電所の中を見学させてもらったのだけど、面白くて仕方がなかった」「原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を遣っているはず。だから地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが安全だったりする(笑)。でも、新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者数を考えて、自動車に乗るのを止めましょうとは言わない。やっぱり使ったほうが便利だからね。どうも原子力発電というとリスクばかり言う傾向があるけれど、実際おいらたちはもっとリスクのある社会に生きている。変質者に刺される確率のほうがよっぽど高いって(笑)」などと発言。

☢勝間和代が福島事故直後の『朝まで生テレビ!』で「震災より原発事故のニュースが多すぎる」「放射性物質が怖いと思われていることに問題がある」などと発言して問題になったが、彼女は事故直前の2月、中部電力のシリーズCM「原子力だから、できることがある」に起用されていた。

☢東京電力をリーダーとする電気事業連合会(電事連)は関連団体含め推計2000億円(年間)ともいわれる巨額の広告費を使い、タレントや文化人を広告や各種シンポジウムに起用して世論を原子力推進側へ誘導してきた。保守派の評論家・西部邁(すすむ)は一度そうしたシンポジウムに呼ばれ、「科学的に絶対の安全はない」と言ったところ二度と声がかからなくなったという。すなわち、起用される著名人は先のビートたけしのように表面的な知識しかなく、エネルギー政策について広告主・電事連の都合よいイメージをばら撒いてお金をもらってきたといえよう。闇営業ならぬ原発の光営業💰



◎オリンピック男子マラソン
1964東京【1】アベベ・ビキラ(エチオピア)【2】ベイジル・ヒートリー(英)【3】円谷幸吉(自衛隊体育学校)【8】君原健二(八幡製鉄)【15】寺沢徹(クラレ)
1968メキシコシティー【1】マモ・ウォルデ(エチオピア)【2】君原健二(八幡製鉄)【3】マイク・ライアン(ニュージーランド)【9】宇佐美彰朗(桜門陸友会) 【途中棄権】佐々木精一郎(九州電工)
1972ミュンヘン【1】フランク・ショーター(米)【2】カレル・リスモン(ベルギー)【3】マモ・ウォルデ(エチオピア)【5】君原健二(八幡製鉄)【12】宇佐美彰朗(桜門陸友会) 【36】采谷義秋(広島県教委)
1976モントリオール【1】ワルデマール・チェルピンスキー(東独)【2】フランク・ショーター(米)【3】カレル・リスモン(ベルギー)【20】宗茂(旭化成)【21】水上則安(八幡製鉄)【32】宇佐美彰朗(桜門陸友会)
1980モスクワ【1】ワルデマール・チェルピンスキー(東独)【2】ジェラード・ナイブール(オランダ)【3】サティンクル・ジュマナザロフ(ソ連)
1984ロサンジェルス【1】カルロス・ロペス(ポルトガル)【2】ジョン・トレーシー(アイルランド)【3】チャーリー・スペディング(英)【4】宗猛(旭化成)【14】瀬古利彦(エスビー食品)【17】宗茂(旭化成)
1988ソウル【1】ジェリンド・ボルディン(伊)【2】ダグラス・ワキウリ(ケニア)【3】アーメド・サラー(ジブチ)【4】中山竹通(ダイエー)【9】瀬古利彦(エスビー食品)【17】新宅永灯至(エスビー食品)
1992バルセロナ【1】黃永祚 (韓国)【2】森下広一(旭化成)【3】シュテファンン・フライガング(独)【4】中山竹通(ダイエー)【8】谷口浩美(旭化成)
1996アトランタ【1】ジョシア・チュグワネ(南アフリカ)【2】李鳳柱 (韓国)【3】エリック・ワイナイナ(ケニア)【19】谷口浩美(旭化成)【54】大家正喜(佐川急便)【93】実井謙二郎(日清食品)
2000シドニー【1】ゲザハン・アベラ(エチオピア)【2】エリック・ワイナイナ(ケニア)【3】テスファイエ・トーラ(エチオピア)【21】川嶋伸次(旭化成)【41】佐藤信之(旭化成)【途中棄権】犬伏孝行(大塚製薬)
2004アテネ【1】ステファノ・バルディーニ(イタリア)【2】メブラートム・ケフレジギ(米)【3】ヴァンデルレイ・デ・リマ(ブラジル)【5】油谷繁(中国電力)【6】諏訪利成(日清食品)【42】国近友昭(エスビー食品)
2008北京【1】サミュエル・ワンジル(ケニア)【2】ジャウアド・ガリブ(モロッコ)【3】ツェガイ・ケベデ(エチオピア)【13】尾方剛(中国電力)【76】佐藤敦之(中国電力)
2012ロンドン【1】スティーヴン・キプロティッチ(ウガンダ)【2】アベル・キルイ(ケニア)【3】ウィルソン・キプサング・キプロティッチ(ケニア)【6】中本健太郎(安川電機)【40】山本亮(佐川急便)【45】藤原新(ミキハウス)
2016リオデジャネイロ【1】エリウド・キプチョゲ(ケニア)【2】フェイーサ・リレサ(エチオピア)【3】ゲーレン・ラップ(米)【16】佐々木悟(旭化成)【36】石川末広(ホンダ)【94】北島寿典(安川電機)



◎戦争と画家
日中戦争の拡大に伴い、画家たちの中から絵画を献納(換金して軍に寄付、あるいは絵そのものを慰安目的で)する動きや、記録担当として従軍を志願する動きが起った。これに応え陸軍の中支那派遣軍は小磯良平ら10名の画家に記録画を委嘱。長期化する戦争について国民の理解を得なければならない軍と、華美遊興などとの非難を免れたい画家の利害が一致したのである。

記録画の各地での公開について朝日新聞の住喜代志(すみきよし)という人物が肝煎りとなり、対米英戦が開始されさらなる戦意の高揚が必要になると、住らの奔走で公式に陸軍美術協会が発足。1942(昭和17)年には第1回大東亜戦争美術展が開かれた。↑の『南方画信』は同協会が同年9月に発行したもので、占領地に派遣された画家の作品や、既にパリで名声を確立していたが父が軍医総監であったなどで帰国して同協会会長に就いていた藤田嗣治を中心とする座談会の模様が収められている。

この頃はまだ牧歌的で、死体が描かれたものは一つもなく、「大東亜共栄圏」のプロパガンダ色が強い。しかし戦局は悪化の一途となり、藤田が自発的に描いた「アッツ島玉砕」など生々しい悲惨さを伝えるものも生まれる。44年に入ると画家を従軍させることが難しくなり、彼らは疎開して報道写真などを基に制作を続ける。作品は敗戦直前まで各地で公開されており、キリスト教の祭壇画の影響を受けた藤田の作品は悲惨さを超えて見る者を感動させたといわれる。戦後「戦争協力者」と非難を浴びた藤田は49年にフランスへ戻り、55年に帰化して終生日本には戻らず、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ 」としばしば語ったという—



以上、週刊金曜日2011年4月26日増刊(原発広告)、世界負遺産情報・戦争美術史概説(戦争と画家) http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress014/ などを参考として構成
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