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蒐集 #26 - TVと漫画のバイアス

2016-12-11 21:02:33 | マンガ
話し言葉、あるいは印刷物、あるいはテレビカメラという認識のレンズを通じて、わたしたちが世界で起きている出来事を経験する時、情報媒体はメタファー(一つの喩え)であるという定式は、わたしたちのために世界を分類し、配列し。表現し、拡大し、縮小し、色づけし、世界がどのようなものかというテーマについて語る。

ドイツの哲学者エルンスト・カッシーラーは次のように述べている。「象徴を使う人間の活動が広がるにつれて、自然の現実は後退していくようだ。事物そのものと関わるかわりに、人間はある意味でつねに自分と会話を交わすようになる。言語形式や、芸術の造形や、神話の象徴や、宗教儀式の中にのめりこんでしまい、人工の情報媒体の介入なしに物事を見たり知ったりすることができない」

(中略)本や映画などの情報媒体には一貫した基調があり連続した内容があると思っているが、テレビ、特にニュース番組はそういうものではないと思っているからだ。わたしたちはこういう不連続性に慣れ切っており、核戦争は回避できないと報道したニュースキャスターが、バーガーキングのコマーシャルの後でまたお会いします、つまり「では…次に」と言ったところで、少しも驚かなくなってしまっている。

ニュースとコマーシャルを同じ重さで並置すると、まじめな場所としての社会に対する感覚に損傷を与えることが理解できなくなってくる。この損傷がテレビに依存している多くの若い視聴者に多大な影響を与えてしまうのは、現実にどう対処するかという課題を解く手がかりをテレビに求めているからだ。

若い年齢層がニュース番組を見ると、残虐な行為や死者についての報道は大げさな表現であり、どんなニュースも深刻に受け取ったり、素直に反応する必要はないと仮定し、この仮定に基づく認識機能を身につけてしまう。

思い切った言い方をすると、ニュース番組の超現実主義のような枠組みに組み込まれているのは、論理や理性や時制や矛盾原理を無視した、反情報伝達の理論だと言いたい。この理論に美学にちなんだ名称をつけるなら「ダダイズム=伝統芸術の形式を否定する芸術分野での運動」ということになる。哲学なら「虚無主義」、精神医学なら「精神分裂病」。劇場用語を使うなら「ヴォードヴィル=歌・踊り・漫才・曲芸などを取り入れたショー」となる。 —(ニール・ポストマン 『愉しみながら死んでいく 思考停止をもたらすテレビの恐怖』 三一書房2015年、原著1985年)





マガジンひとり ‏@magazine_hitori 12月1日
半井小絵=なからいさえ、元NHKニュース7のお天気の=メディア上でしか生きられない女の末路はネトウヨ界隈の広告塔か。虚しい(;´Д`)

マガジンひとり @magazine_hitori 12月1日
椎名林檎が自民党・日本会議に接近するのも(規模は違うけど)半井小絵と同じ理由か。音楽の才能はないので、常に有名で、上から垂れ流せないと意味がない(;´Д`)


「ナダル・アンビリーバボー」と題されたアメトークの、コロコロチキチキペッパーズ・ナダルくんを扱う回を既に10回以上再生。不都合な指摘を受け、表情を曇らせたり怒気をにじませる、あるいはウソをついたり言い訳をする、その様子は演技でできるものではない。臨場感あふれる人間ドキュメンタリーだ。彼はくりぃむ上田のように「回す側」になりたいそうだが、そんなナダルは見たくない。不本意でも、光と影の両面を見せてほしい。

ナダルが急浮上する一方、ことしの私の酒の肴コンテンツは激変、有吉弘行くんとおぎやはぎのラジオを聞かなくなった。某アナと交際・妊娠・結婚へという報道について、有吉はラジオで「ない話ですから、何も言えません」としか語らなかった。他の芸能人のゴシップを題材に毒舌をふるう、いつもの彼とは違っていた。ゴシップ大好きワイドショーも、この件には沈黙を貫いたようだ。

芸能界が、古いしきたりに縛られた、お金と権力がすべてのブラック業界であることを、あらためて痛感。如才なく振る舞って、私を楽しませてきた有吉もおぎやはぎも、一挙に色褪せてしまったが、逆にブラックで人権無視だから、媒体としてのアメトークやロンドンハーツは実験を繰り返しながら質を保って存続できるという面も。

ロンハーの、人に順位を付けたり、ドッキリで騙したり、そうした企画で追い込まれた出演者たちがのぞかせる素の部分に栄養が詰まっている。先日の、指原莉乃が10人の男をランク付けする企画は秀逸で、特に下位9位と10位に置かれた武井壮とフット後藤へのダメ出しと、それを受ける2人の様子は見もの。後藤には別途詳しく触れたいが、↑画像の武井がLINEなどで「ヤバめの女が周りに多い」と観察され、彼がわざと高級サイフが映り込むように食べ物などの画像をアップするのも、そうしたヤバめの交遊にアピールする意図。お金と知名度に寄って来る女はヤバイ。指原のこの指摘は、高級品や高い外食、消費を見せびらかすことへのアンチテーゼが含まれ、有吉さえ黙らせるお金と権力ありきの芸能・TV界に射し込む一筋の光—




君たちは、かつて地方にいて漫画家を志し、そして今こうしてここにいるわけだが、実際に原稿をやり取りする流れの中に身を置いていると、いつのまにか自分もその世界のひとりとして安住してしまう。絶対にそれだけは避けてほしい。君たちのいちばんのライバルは、地方で漫画家の世界に憧れて頑張っている、漫画家予備軍なんだ。 —(福元一義 『手塚先生、締め切り過ぎてます!』 集英社新書2009年、より福元氏が聞いた、手塚治虫が専属アシスタントたちを集めて語った言葉)


この週末、某俳優の話題で持ちきり。性的マイノリティの問題もからむためか、マジメな肩書の人たちも一言コメントせずにおれないようだ。芸能人や有名スポーツ選手がひとたびネガティブな話題の種になると、その広がり、速さと大きさは驚くべきものがある。これは逆に考えて、有名になりたい人なんていうのはいくらでもいるので、絶え間なく起こる役人や企業や政治家の不祥事を覆い隠し、人びとの不満をそらせる、あるいは見どころがあればピックアップして参議院にでも立候補させようという、安あがりで一挙両得な存在ということもいえる。

冒頭に引用した本で著者は、オーウェルの描いた「強制」でなく、ハクスリーの描いたような「文明の利器=テレビ」によって、人びとが自主的に支配されることを望み、かつてなく安定した全体主義が招来していると説いた。もちろん私は表題のように漫画・アニメ・ゲームについても述べたいが、もうしばらく準備が必要なので、きょうは花輪和一さんの例を挙げるにとどめたい。精巧なモデルガンを所持していて銃刀法違反で逮捕実刑となった花輪さんが、獄中体験を描いた『刑務所の中』で、何といっても印象的なのは、克明な記憶で再現される獄中食の数々。本当においしそう。食べることだけが楽しみ。でも清水潔さんの『殺人犯はそこにいる』で、足利市の幼女誘拐殺人の冤罪で、17年も刑務所にいた無実の菅家さんは、「刑務所の(ラーメン)はまずい」と。大男から食事を横取りされたり、暴力も受けたと—



愉しみながら死んでいく ―思考停止をもたらすテレビの恐怖―
今井 幹晴
三一書房
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