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日本幻景 #3 - 失われた経済大国への挽歌

2013-05-05 22:08:28 | Bibliomania
1990年8月に出た別冊宝島の一冊『変なニッポン』。
おしん、ゴジラ、ニンテンドー、カラオケ、ヤクルトおばさん、悪役レスラーなど、発祥の地に住むわれわれの想像を超えて海外で流布するニッポンのイメージ。外国人がそう思っている日本。

90年といえば、昭和天皇が崩御した翌年であり、バブル経済の崩壊が始まった年でもある。
バブル崩壊といっても、まだまだ経済大国としてブイブイいわした当時で、海外からイメージされるわれわれの姿は面映ゆいくらいのものがあるし、アジア諸国との格差もぜんぜん大きかったんだなあと。

さまざまな記事の中で、そうしたアジア諸国からの留学生8名が、来日する前と後で味わった落差などを語るインタビュー記事を読み返してみて複雑な感情が湧く。
うち2名の全文を↓に引用してみた(イラストもその記事より)。

留学できるくらいなので、母国では富裕層に属すのだろう彼ら、その意識のはしばしに違和感を覚えないでもないが、2番目に引用した中国人男性の「日本人は希望がなくてお気の毒」という上から目線など、その後の失われた20年を経て、身の回り品の多くが中国製になり、国際社会における存在感も低下する一方の現在からすると先見性さえ感じられるほど。

みなさんは、どうお考えになるでしょうか。



●女の子たちは、みんな日本の商社マンと結婚したがっているみたいですよ。 - インドネシア・24歳・女性
インドネシアの若い人たちは、日本を天国のように思ってますね。80年代に入ってからは、家電製品にしろ腕時計にしろ、車から味の素に至るまで、日常生活の必需品のうち、目につくものにはほとんどすべて日本語のラベルがついてる感じです。想像もできないくらいモノが豊富にある国、というのが日本の第一のイメージかな。

それに、先進国との落差はなんといっても技術的な側面が大きいですから、その面でも、欧米諸国を抜いて先端技術の代表者になった国ということで、日本神話ができあがってます。インドネシアは、もともとはオランダの植民地でしたから、ずっとヨーロッパ指向が強かったんです。戦前はエリートの多くがオランダに留学していたし、その後70年代までは、西ドイツ留学が盛んでした。オランダ語はドイツ語に似ているし、ドイツは技術大国でしたからね。それが、80年代に入ってからは、アメリカへの留学が増えてきて、最近では、その流れが日本へ向いてきてると思います。


【日本人と結婚する“玉の輿”】
でも、日本に対するインドネシア人のイメージを変えたいちばん大きな原因は、やはり日本の商社の支店がジャカルタに増えて、日本人の駐在員がたくさん住むようになったことです。ジャカルタ市内の南のほうには高級住宅街があって、そのなかに日本人街のような場所ができてますけど、彼らの生活といったら、ちょっと日本では想像できないくらいだと思いますよ。

日本の感覚でいえば大邸宅という感じの家に住んで、お手伝いさんを2、3人は雇ってます。とくに一流商社の駐在員ともなると、20代で、それこそ豪邸に住んで、お手伝いさんはもちろん、運転手つきで送り迎えをさせて、守衛まで雇っている人もいる。なにしろ一歩国外に出れば、日本円の威力というのはすごいですからね。インドネシアで日本と同じだけの給料をもらっていれば、貴族みたいな生活ができますよ。

私が通っていたジャカルタの国立大学には、外国人のためのインドネシア語コースが設けられてましたけど、そこの学生は、ほとんど100%日本人の商社マンなんです。そして、その商社マンに女子学生たちが憧れる。みんなに食事をご馳走したり、ディスコで遊ばせてくれたりする彼らは、なんといっても人気の的なんです。日本で言えば“玉の輿”願望ですね。インドネシアの女の子たちは、みんな日本人商社マンと結婚したがってるみたいですよ。




でも、彼女たちは、日本での実際の生活を知らないですからね。私だって、2年前に日本に来るまでは、日本はホントに天国だと思ってたんです。実際に来てみたら驚きました。みんな一生懸命働かなければならない。インドネシアでは、貧しければ貧しいほど一生懸命働いている。豊かになればなるほど、働かなくてよくなる。ところが、現実には、世界一豊かなはずだと思っていた日本人が人一倍アクセク働いている。これには、ほんとうにビックリしましたね。

それに、住んでる家はものすごく小さいし、お手伝いさんなんて雇っている家は数えるほどしかない。ジャカルタでは、中流階級ならみんなお手伝いさんがいます。だから、主婦は家事をやらない。奥さんは、会社勤めをするか、もっぱら自分の好きなことをして過ごしている。共稼ぎをして家事もこなしているのは、貧困層の主婦たちだけですから。もちろん、インドネシア全体では、貧しい人たちが圧倒的に多いわけですけど。

向こうにいたときに、商社マンの奥さんが「日本には帰りたくない」と言っていたのを聞いたことがあったんです。そのときは、なんでそんなことを言うのだろうって疑問に思いましたけど、日本に来てみてその意味がようやくわかりました。それでも、ジャカルタでは、日本人というだけで数段上の人間だと見られるんですよ。


【そして、日本人は白人になった】
60年代に、戦争賠償金の一環として、日本政府がインドネシアの学生500人を日本に留学させたんです。その留学生のなかには、日本人の女性と結婚して、インドネシアに連れて帰ってきた人たちが大勢います。そうやって生まれたハーフの子どもたちが、もう20代になってますけど、今ジャカルタではすごくのさばって、威張ってるんです。

ジャカルタに駐在している日本人は、自分は外国人だし、商売をしに来ているということで、インドネシア人に対してすごく親切だし、非常にマナーがいいんですけど、ハーフの人たちは、自分がインドネシアに生まれ育ってきたから、インドネシアの人たちにあまり気をつかう必要がない。もちろん、60年代に日本に留学した人たちは、今では官庁や企業のトップクラスにいますから、父親がエリートであることは間違いないですけど、ハーフの人たちは、むしろ自分の母親が日本人であることで、自分が普通のインドネシア人よりも偉いと思ってるんです。私たちの国では、昔からハーフの子は偉いという感覚がありましたけど、かつては欧米人とのハーフだけが偉かったのに、最近では、日本人とのハーフもそのなかに加わったみたいですね。

実は、こんな体験があるんです。私の家は華僑ですから、私も、マレー系のインドネシア人とは、肌の色も違うし、顔つきも違います。でも、インドネシア人から見れば、中国人と日本人とはよく似てるんですね。私は、ジャカルタの大学では、日本語学科に籍を置いてましたけど、中学生の頃から日本語を勉強してましたから、入学したときにはすでに日本語をかなり喋れたんです。それで、ちょっとした機会に日本語を喋ってみたんですよ。

そうしたら、「あなたは、ひょっとしたらハーフじゃないですか?」って、インドネシアの女性に聞かれたんです。日本人とインドネシア人のハーフじゃないかという意味ですよ。でも、私は、「中国人です」と正直に言うのは、ちょっとためらわれたんです。インドネシアは、中国と外交関係がないですから、中国人だとわかると、やはり白い目で見られたりしますからね。それで、中国系だと言わないで、「どうでしょうね。あなたは、どう思う?」みたいに言って、その場をごまかそうとしたんです。そうしたら彼女は、「へえ、そうなんですか。偉いですね」って言うんですよ。「なにが偉いんですか?」って聞いたら、「だって、あなたのからだのなかには日本人の血が流れているんでしょ」って。彼女はそう答えたんです。

これからは日本の時代なんだなって、そのときほんとうに思いましたね。



●日本で2年間必死で働けば、上海で一生働かなくても暮らせます。 - 中国・32歳・男性
上海は、中国のなかでも比較的外国の情報が入りやすいところなんです。それでも、72年に田中首相が中国を訪問して、日本との国交が樹立されるまでは、日本人が実際にどんな生活を送っているかは、ぜんぜん知らされていませんでした。中国政府は、プロパガンダとして、日本人民がすごく貧しい生活をしていると言い続けていたんです。それこそ、新宿あたりの浮浪者の写真を見せられて、これが日本の普通の人民の生活だと教えられた。日本では、ほんの一握りの資本家だけがいい生活をしていて、それ以外の人たちはボロをまとって地獄のような生活をしているというわけです。

それが、72年以降、徐々にトランジスタラジオといった日本の技術製品だけが輸入されるようになって、日本人は手先が器用だから小さいものをつくるのだけは得意だという話が伝わってくるようになりました。結局、私たちが、初めて実際の日本の庶民の生活に触れることができたのが、山口百恵の“赤いシリーズ”だったんです。毛沢東が死んで、文化大革命もようやく終わって、「四つの近代化」の合言葉で、改革・開放政策が打ち出されたのが78年です。その開放のブームに乗って放映されたのが赤いシリーズですから、上海の人たちも、みんなこのドラマに夢中になりました。

階級闘争劇ばかり見せられてきた人びとには恋愛ドラマが新鮮だったし、何よりも、日本の庶民の生活が珍しかったんです。カッコいい住まいや最新式の家電製品、それにお洒落な洋服のデザイン。どれもが、私たちには新鮮な驚きでした。山口百恵は中国で一大人気スターになって、彼女がドラマで着ていた服を真似た“サチコ・ブランド”は、上海でも飛ぶように売れました。ボロをまとって、地獄のような生活を送っていたはずの日本人が、いつの間にか、アジアでいちばん豊かな人びとになったことを知って、みんな驚いたんです。


【街はスラムで、中華はマズイ!】
私も、日本はどんなに豊かな国だろうと思って期待しながら、3年前に来日したんです。でも、ハッキリ言って失望しました。成田から東京まで電車に乗って来る途中に、沿線の住宅を見てたら、「なんだ、上海のスラム街と同じじゃないか」と思いましたね。板でつくった家がほとんど。もちろん、東京の板張りの家は、ペンキも塗ってあるし、ちゃんと手入れがしてあるし、上下水道の設備もあるから、上海のスラムよりはずっときれいですよ。でも、上海ではみんな洋風の建物だから、街並みを比べたら、ぜんぜんお話にならない。

それに、日本の食事はとっても貧しい。中国人の食事と比べたら、考えられないぐらい質素です。上海の場合は、最低でも、おかずが4品から5品出るのが当たり前です。日本人は、そばだけでおいしいなんて言ってる。上海では、そばは貧乏人の食べ物ですから。近所の中華料理店に入っても、上海の屋台よりもまずい。それでいて、とっても高い。だから、夜はちゃんと自分でつくるようにしています。

だいたい、中国人のイメージからすれば、車を持ってる人は必ずイギリス風の大きな建物に住んで、上流階級の生活をしてないとおかしいんです。それなのに、日本では貧乏な人でも自家用車に乗ってるし、バイクも持ってる。でも、住まいはポンコツアパート。狭い六畳一間に、テレビからステレオからビデオまで詰め込んである。これは、私たちにはどうしてもイメージできない。たしかに、日本には、モノだけは溢れ出すくらいいっぱいあります。でも、私には、日本が豊かな国だとはとても思えない。


【二年を死んで、一生を生きる】
それに、こんなに商品が豊富だと、迷ってしまって、どれを買えばいいのかわからないじゃないですか。電気釜一つ買うのだって、どのメーカーがいいとか、それぞれに付いてる機能がどう違うとか、店員さんに聞いてもよくわからないし、カタログを見たって、どれも自分がいちばんいいって書いてあるでしょ。私は、デパートに行くのはもうたくさんですよ。ちょっと見てると、「何をお探しですか?」って、店員さんが寄ってくる。ただ見てるだけじゃ、悪いみたいです。おカネがないと、恥ずかしくてデパートには行けませんよ。

日本の製品は、日本で使うには相応しくないですね。テレビはもちろん大きいほうがいいに決まってるけど、六畳間に29インチなんていう大きなテレビを入れるのには、そもそも無理がある。ステレオだって、アパートに入れたら、大家さんにすぐ文句を言われます。大きな音で聴けないなら、買わないのと同じでしょ。それだったらラジカセで充分。そもそも、日本人はみんな忙しくて、せっかく買ったものを楽しむ時間だってないじゃないですか。




逆に、上海なら、ビデオと大きなテレビを買えば、楽しくのんびり一日が過ごせます。みんな洋風の建物だから、となりの家を気にせずに、大きな音でステレオも聴けます。だから、いちばんいいのは、日本に出稼ぎに来て、おカネを貯めて日本の素晴らしい製品を買って、上海でのんびり暮らすことですね。留学生の私が言うのも変だけど、留学なんてやめて、出稼ぎに来たほうがいいくらいです。日本で2年間必死になって働いて300万円も貯めれば、上海に帰って一生働かなくても暮らせます。銀行の利子だけで、中国の中流以上の人びとの暮らしができますよ。食事は、腹いっぱいおいしいものを食べて、年に2回は旅行もできる。

3年間日本に住んでみて、私はこう思いました。日本は、我慢して稼ぐところで、人間が暮らすところではない。日本人はほんとうに苦しそうです。一生日本に住んでいるから、希望がない。われわれは、日本で苦労しても、そうやって得たおカネを持って母国に帰れば、のんびりと豊かな暮らしができます。人生でいちばん苦しいのは、希望がないことです。日本人はその点、ほんとうに気の毒だと思います。





■日本と中国のGDPの正規分布概念図(2012年現在) - 紺野大介氏作成=エコノミスト3月26日号の特集記事「中国の破壊力」より
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