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甲斐庄楠音 (かいのしょうただおと)

2012-02-07 21:57:38 | Bibliomania
島原の女(京の女)─大正9(1920)年




梅蘭芳─大正13(1924)年頃




裸婦─大正10(1921)年頃




籐椅子に凭れる女─昭和6(1931)年頃




大正2年頃から最晩年まで作っていたスクラップブックより


◆甲斐庄楠音 Tadaoto Kainosho (1894-1978)
明治27(1894)年、京都に生まれる。楠正成の末裔で旧旗本、妻妾同居をさせる「お大名ぶり」の父と、御所士の家の母が伝える雅な家風の中で育つ。生来の喘息もちで色白の美しい子どもだった楠音は父に溺愛され、その好みで5歳頃まで女の子の着物を着せられ、羽子板や雛人形で遊ぶという幼少期をおくる。
エリート校の中学に進むが挫折し、京都市立美術工芸学校図案科へ編入。その後、市立絵画専門学校に進むが、学校へはあまり通わず、図書館でダ・ヴィンチやミケランジェロの美術書を漁ったり、美術学生の間で流行していた芝居に熱狂する。幼少からの素地もあり、楠音は素人歌舞伎で演じる女形の女装に喜びを覚えていたという。
やがて自らの女装を写真に撮って自ら描くという、独特の自己陶酔的な制作スタイルが生まれた。
学生時代からの先輩、村上華岳、入江波光、榊原紫峰らに誘われ、文展に対抗する新しい日本画の創造を目指し結成された『国画創作協会』の大正7(1918)年第1回展で鮮烈なデビューを果たす。24歳の楠音は京都画壇の期待の星となるが、彼の男色、女装癖、傍若無人な素行がリーダー土田麦僊ににらまれ、5回展で「女と風船」が“汚い絵”として陳列拒否されるという事件が起こる。
昭和3(1928)年、同協会解散ののち、楠音は徐々に画壇から離れ、昭和15(1940)年46歳のとき出会った溝口健二に招かれて映画の世界に活動の場を移す。長年の芝居狂いで培った才能を風俗・衣裳考証などに発揮し、昭和30(1955)年61歳のときに『雨月物語』で米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にノミネートされる快挙をなす。
翌年に溝口健二が亡くなると、映画から離れ再び絵の世界に戻ることになる。晩年に開催された展覧会の出品作は旧作に手を加えたものが多く、衰えた筆と粗悪な絵の具により、迫力ある美しさが損なわれる結果となった。
昭和53(1978)年83歳で亡くなる。没後30年を経た近年、嗜好のままに陶酔的な世界に生き、それを極めた果てに独自な美の世界を確立した甲斐庄楠音に再評価の機運が高まっており、作品や各種資料を集成した画集『甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト』(求龍堂)が2009年に出版された。 ─(図版と経歴は同書より)




自作の前でポーズする楠音─大正13(1924)年頃
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