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玉電の時代

2007-08-15 21:34:24 | Weblog

先日の『ヒロシマナガサキ』の中で、太平洋戦争当時のアメリカが自国民に戦意高揚をうながす宣伝フィルムの一部が紹介されていた…「日本人というものは我々とはまったく異質な存在だ。兵器は現在のものだが意識は2千年前のまま。神道の神の子孫である天皇のために死ねば、自分も神になれると信じている」…
しかしながら、たしかに物量的な物質文明においては当時のアメリカと日本では大差があったものの、市民社会の緊密なネットワークが発達していたことにおいてはむしろ日本に利があったかもしれない。
明治維新、第二次大戦の敗戦、この二つの外圧による大きな改革もさりながら、鎌倉・室町時代あるいは江戸時代、たゆまぬ歴史の中でだんだんと情報化・資本化が進展してきたことも見逃せないのではないだろうか。
また逆に、そうした発達した市民社会を持っていたにもかかわらず戦争の狂気に突入して「普通のいいおじさんが兵士として人を殺す」「となり近所の人が空襲で殺される」状態になりえてしまう、ということが怖ろしい、ひょっとして今でも簡単にそういうスイッチが入ってしまうのかもしれないと思うと。



今日、桜新町の長谷川町子美術館から二子玉川まで散策して、玉電の砧線というのが昔とおっていたあたりまで足を伸ばしてきた。
明治40年(1907年)に開通し、昭和44年に世田谷線を残して廃止された路面電車、玉川電気鉄道、瀬田駅と二子玉川駅の間には遊園地もあり、その付近は子供たちのためだけでなく、芸者の置き屋・待合(ラブホテルのようなもの)・料亭などの集まった三業地として栄えたという。
青年将校が軍事クーデターを起こして高橋是清蔵相らを殺した二二六事件のあった昭和11年(1936年)もう一つ世間を騒がせたのが「阿部定事件」
荒川区尾久の三業地の待合「満佐喜」で、ちんちんを切り取られた男の死体が発見された。死体は料理屋の主人・吉田吉蔵42歳、加害者は吉蔵の家で働いていた阿部定31歳だった。二人は4月23日に中野区新井の吉蔵の家を出て、一ヶ月近く情痴の日々を重ねていた…殺害現場へ泊まる前には、玉川三業地の待合にも滞在していたという。
この事件は、日本が翌年の日中戦争開始などだんだんとゆとりのない軍国主義に向かってゆく世相の中で、むしろユーモラスな事件として受け止められた…



今日の朝刊に終戦記念日の特集記事として、学徒出陣だが将校でなく兵士として中国大陸で従軍した財界人と、右翼団体顧問による対談が掲載されていた。
「中国に代表されるアジアに対し、一足早く近代化を成し遂げた日本が優越感を持っていて、その一番の発露が日中戦争だったと思うのです。そして、その一種の侮蔑感は、まだ払拭できていないのではないかという気がします。
当時の日本には、中国人なら殺してもいいんだというような感覚があった。一種の侮蔑感というのはそういう意味でね。その感覚が戦争を支えていたんだと思うんです。米国だって自国民の命とイラク人の命の価値が同じだと考えたら、あのような戦争は仕掛けられなかったでしょう」
イラク戦争の導火線に点火した影の立役者でもある、何度もデマを流して情報操作して大衆を煽動してきたカール・ローブなるブッシュ大統領の選挙参謀が、今月末に次席補佐官を辞任するとか。
そいつの今までの陰謀を聞くと、日本にはここまで怖ろしいやつはいねえなあ、とも思うのだが、最近の朝青龍へのいじめ報道を聞くかぎり日本人も昭和初期からほとんど進歩してなくねえ?

上写真:砧線中耕地駅(昭44・5)
中写真:上馬停留所付近の混雑(昭和40年代)
下写真:線路上にあふれて花電車になごりを惜しむ用賀の人々(昭44・5)
(写真はすべて東急エージェンシー発行『玉電100周年記念フォトアルバム・あの日、玉電があった』より)



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