和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

館山音頭。

2009-01-21 | 房総
西條八十という人は、ご当地ソングを数多くつくっているようです。
「西條八十全集 9」(国書刊行会)は「歌謡・民謡Ⅱ」となっていて、
それらが載っております。そのなかに、房州の館山音頭がありました。
ちなみに、その前が「あれは野島か 洲の崎か 泣いて別れた 白砂浜を ああ 月は照らすか 今夜も青く」とある「恋燈台の歌」というのがありました。

さて(笑)、「館山音頭」。
とちゅうとちゅうに「キタヨシ」というあいの手が入ります。
はじまりは
「夏はヨットの 花さく渚 キタヨシ
 冬は茶の花 南風 波も人情も うららかに
 タ タ 館山 またおいで またおいで 」

あとは、端折って、
「那古や船形 観音さまが 守る海には 怪我も無い」

「波の清さに ついひかされて キタヨシ
 乾した水着を ちょいとまた濡らす
 富士を遠見の 安房の海
 タ タ 館山 またおいで またおいで

 今夜来るかと わしゃ沖の島 キタヨシ
 想ふ矢先へ 来たよと言はれ
 胸のどうきが 鷹の島
 タ タ 館山 またおいで またおいで 」

何とも、「またおいで」というのが
館山らしい雰囲気をだしているような気がします。
来たよし。と、またおいで。ということなのでしょうね。

そうそう。
「那古や船形 観音さまが」というので、
思い浮かぶのは、那古寺。

ネット上で検索。以下はそれです。

第三十三番 補陀洛山那古寺 (那古観音)真言宗智山派
本尊●千手観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●養老元年(七一七)
●詠歌●補陀洛は よそにはあらじ 郡古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても

観音補陀洛淨土
 坂東三十三札所の「総納札所」である郡古寺は、房総半島南端の館山市、その市街から少しはずれた郡古山の中腹にある。この山はスダシイ、タブノキ、ヤプニッケイ、ヤブツバキ、ヒメユズリ混生の自然林におおわれている。『郡古寺縁起』に「この山は是れ補陀洛山と称すべし、而して観音影向の地なり」とあるとおり、鏡ヵ浦を俯瞰し、海上の交通者を守りたもう観音さまのお住まいとしての条件をここは充分に備えている。奈良朝末期に日光山が観音のお浄土補陀洛と考えられていたことは、弘法大師の詩文によって明らかである。その頃から関東に補陀洛信仰が取り入れられひろまったのであろう。江戸時代までは観音堂のすぐ足もとまで浦の波が打ち寄せていたという。ご詠歌に「岸うつ波を見るにつけても」とあるのが往時を想いおこさせる。・・・・
 俗に裏坂と呼ばれるゆるい勾配の参道を進み、まず仁王門をくぐる。そして石畳の参道を藤原期の作と伝える木造阿弥陀如来の座像を祀る阿弥陀堂を拝しながらさらに行くと、多宝塔が建っている。宝暦十一年(一七六一)住僧憲長が伊勢屋甚右衛門らと力を合わせ、万人講を組織、勧進して建てたものである。
 下層四面に切目棟をめぐらせて、和様勾欄を配した姿は見事であるが、その施工者が地元那古寺及び周辺の大工であったことが注目されている。定型を守りながら新しい様式を取り入れているあたり、棟梁はなかなか意欲的である。
 やがて朱塗り本瓦葺きの本堂が八間の奥行きも堂々とその側面を現わす。表参道からならすぐ入堂できるが、この道からは数段の石段を上り左に廻って正面に出る。観音堂の御拝には老中松平定信の揮もうによる「円通閣」の額がかかっている。



さてっと。那古寺は小高い山の中腹に乗っているようなかっこうで建っており、その山下の足もとまで波が打ち寄せていたとのこと。現在は、何回かの地震による隆起によって、10分~20分ほども歩かなければ海へは出れません。その間に家々が建ち並んでおります。寺の中腹から前の海を見晴らせば、足下には、家々があり、中学校も見えます。その先にJRの内房線が走り、さらに先にいって砂浜にでます。
その昔は、ここらの眺めや、鉄道の線路は海だったのだと思ったら、
何だか宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の後半に出てくる、電車が思い浮かびます。たしか電車の停留場まで、舟を漕いでいったのでした。すると波をかき分けて電車がくるのでした。
那古や船形の観音さまからの景色を見に、またおいで。またおいで。
コメント   この記事についてブログを書く
« 房州海岸。 | トップ | 冬空の下。 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

房総」カテゴリの最新記事