和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『今は昔』は。

2017-02-19 | 古典
講談社学術文庫
武石彰夫著「今昔物語集」本朝世俗篇上。
今日、この本が届く。

この上にも、武石彰夫(たけいしあきお)氏による
解説が載っている。
本朝世俗篇下にも同氏の解説があり、
どちらもけっこう長くてうれしい(笑)。

本朝世俗篇上の解説の方が、
引用しやすいので、こちらを引用することに
むろん、本文は未読(笑)。


「さて、『今昔』は、種々のソースを持ちながら、
形式内容にわたって、つねに創造的態度を忘れず、
教訓色を前面におし出すことなく写実的である。
そして、シャープな論理的思考にささえられた
簡潔な表現は独自の和漢混交文となって、
きわめて歯切れのよい語り口となっている。
もちろん、説話の基本的性格からくる説明の
くりかえしなどがあり、しばしば文脈の不整合が
見られるのも表現上さけられなかった点であろう。」(p531)

「絶対的思考にささえられた古代的思惟は
ここに大きな転換をもたらした。
仏あっての人、人あっての仏とする認識である。
人間ひとりひとりの可能性を求めて苦悶した中世は、
説話の文学的季節といえるが、『今昔』の世界は
その夜明けなるにふさわしい。しかし、
夜明けはまだ白日の太陽をむかえ得ないように
『今昔』にもさまざまの矛盾があったことも事実である。
『今昔』の説話がすべてすぐれた逸品ぞろいというわけではない。」
(p534)

「『今は昔』は、『今』とは、きりはなしがたい『昔』であり、
『昔』なくして、『今』のありえない『昔』なのである。」(p542)

「従来は、どうも仏教をいわゆる、タテマエからのみ見つめてきた
きらいがするのであって、ホンネの部分が、実は重要であり、
真の意味で文学性を豊かに内蔵しているということができるのである。
民衆の信仰は、その寺々の属する教義・教理ではなくして、
本来からすれば付属するはずの信仰、それも、天部の神々のみならず、
妖怪・異類(動物)などによっていることが多いのである。
これは、『昔』も『今』もかわっていない。
『今昔』によって、当時の人々の精神構造をつかむことができる
というよりも、仏教の世界観を確実に知ることができるのであって、
それは、とりすました教団を超えたところにある
事実の有するたしかさであるように思われる。
仏教のもつ無限のエネルギーは、『本朝世俗』に流れこみ、
貯水池のようにたたえられて、また、中世にむかって流れ出したのである。
その水は、清冽にして青蓮華の咲くごとく、
混濁の世をうるおしていったのである。」(p570)

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