わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

祈りとゆるし(1)

2023-06-01 06:55:42 | 癒し
暑いですね。(講演当時)
こう暑いと、人の話を聴いても、よっぽどの
ことがないと耳に入ってこないから、真理の
ことを喋るんでも、一寸面白おかしく言わないと
はっきり入っていかないかも知れないけれども。

人間にはいろいろな単位がありますね。
単位というのか、一番小さな単位は家族で、
それから、学校とか社会とか、だんだんに大きく
なってゆくわけだけれども、この中で、いろいろ
面白くないことが起こったりする。
喧嘩ね、啀み合い、俺のものだ、とかね、
家族であれば、血がつながってるから、まあ
流せることも多いわけだけれども、集団になると、
各々の癖が直接ぶつかり合って、別に何の
義理もないというような場合には、喧嘩も
深刻なものになってしまう。
つまり、個我というものが、そのまま出て
しまうわけですね。
そこには、慎しみとか、遠慮とか、普段
私たちが人間として持っている、人に対する
配慮といったものが、全く忘れられた状態に
なっているわけです。
争ってる時の人間の心というものは、もう
何ともいえない気といいますか、気も濁れば、
想念も真赤に燃えてるわけで、たまに、
交通信号の黄色くらい点したって損には
なるまいと思う程、怒りだとか、口惜しさだとか、
相手に対して怒っている、というより、怒り
しか見えない、何ともやり切れない状態に
なっているわけです。

で、どうして、そんな浅ましい状態になるか
というと、人間がこの世に生まれて、大きく
なって、成人して、いつの間にか、何かしらの
位置というものを得ます。
そうすると、その位置に対する執着という
ものが出るんです。
しがみつきたいという想い。
これにからまれると、もう自由自在の心も、
どんどん息苦しくなってきて、いつの間にか
世間的な自分の位置が主人公になってしまって、
自分自身というものは追い出されちゃうわけです。
争っている状態というのは、この、本来、
自分自身でない、一時的に、この世で自分が
果たしてゆく役割を、自分だと思い違いをして、
そこに思い入れしちゃって、癖から性格から
惚れ込んでね、全部与えちゃって、奉るものだから、
気にしなくても大丈夫、ちゃーんと生きてゆける
ようになっているのに、自分自身が
馬鹿にされたと思って争うわけです。

けれども、みんな、自分自身自分自身と
言うけれど、自分自身というのは、そんな
小っちゃなものじゃないんです。
宇宙のように大きく深く拡がってゆくことも
出来れば、ラクダの針の穴という言葉が
あるように、細かく細かくなることも出来る。
本来、私たちに神様から与えられる能力は、
全く測り知れないものがあるわけなんです。
それを、変なところで物惜しみをしたり、
引っかかりするものだから、守護霊さんの方で、
こうしてやりたいと思って、一生懸命信号を
送っているのに、万分の一もその力が出て
こないわけなんです。

そりゃあ、わけも無く殴られたり、辱められたり
すれば、人間の素直な気持ちとして、何とも
やり切れない気持ちが湧き上がってくる
わけですが、祈りというものを知っている私たち
としては、その想念に身を任せ切ってしまっては、
それこそマイナスにしかなってゆかない。
祈りというものに、あまり気負いを持たず、構えず、
イライラしたらしたまま、世界人類が平和で
ありますようにと心の中で唱えればいいわけです。
            (つづく)