建築への思い

素人から見た建築への思いを、雑誌や本で見聞きしたものを中心に、とりとめなく書き綴っていこうと思います。

Dissent Roils Wright's World (NY Times)

2005-04-01 | Frank Lloyd Wright
ずっと更新できないまま、すっかり御無沙汰してしまいました。
言い訳は無用。というわけで、さっそく今日の記事に入ります。

今日は、ちょっと古くなりますが、3月24日付け、ニューヨークタイムスのHouse & Homeセクションに掲載されていた、ライトに関する記事です。

フランク・ロイドがアリゾナ(ウェスト)とウィスコンシン(イースト)に各々建築家養成の場としてタリアセンを設立したのはみなさんも御存じのことと思いますが、そのタリアセン・ウェストの内部で深刻な対立が発生し、学校の存続がとわれているようです。

ライトは、この学校で、教えることによって学ぶのではなく、実際に体験することを通じて学んでいく、というアプレンティス(弟子)制度による教育を目指しましたが、このシステムの存続を望む現状温存派(主にフェローと呼ばれる卒業生など)と他の大学教育のようにカリキュラムを改革すべきだという改革推進派の対立がおこり、最高経営責任者、学長をはじめ、13人いた教授の内9人が辞任する事態に陥りました。

また、経済的な側面でも対立があるようです。現在の予算の5分の4は観光客からの収入。このため、観光客を集める本格的な文化施設にするべきだという主張があります。

古きよきものを温存すべき、という主張と、時代の変化に沿って自らも変革を遂げるべきだ、という主張。こうした対立は、この学校だけでなく、どのような状況においても、究極、一件の家をデザインする場合にも、必ずといってよい程、考えざるを得ない主題の一つです。そして、多くの場合、絶対的に正しい回答は存在しないように思います。当事者がどう感じるか、どう考えるか、で決断が下されることが多いのではないのでしょうか。

第5時代:3軸空間

2005-03-12 | Frank Lloyd Wright
今日はようやく5章に入ります。たった200ページ弱の本ですが、じっくり読むと、なかなか進まないものです。

この章は大雑把にいって、落水荘と高層ビルの話になります。

まず、落水荘。ライトといえば落水荘と思う方も少なくないのではないでしょうか。それくらい、この落水荘はライトにとって一つの契機となったプロジェクトでした。あまりプロジェクトのなかったライトですが、自伝を書き、タリアセン・フェローシップを設立したことで、次第にその名前が広渡ります。落水荘はカウフマン邸の別名ですが、このカウフマン氏の息子であるエドに友人がライトの自伝を紹介したのがきっかけで、エドはタリアセン・フェローシップに志願。そして、エドがお父様にライトを紹介し、落水荘のプロジェクトに着手することになります。

まず、germination(発芽、萌芽)と名付けられている節で、ライトがいかにしてこのデザインを作り上げたか、の有名なエピソードが書かれています。

「鉛筆を取り上げ、紙に描き出す前に、その構造の中や周りを歩き回れるようになり、すべてのディテールについて知っていなくてはいけない。私は、心の中ですべてがそろうまで、決してドローイングボードの前に座ることはない。今までだってずっとそうだった。のちに大幅に変更するかもしれないし、やぶり捨てるかもしれないし、盲目の谷に迷い混むかもしれない。けれども、ある程度アイディアが形をあらわすまで、私がドローイングボードの前に座ることはない。だが、私の中に常にそのことはある、発芽しているのだ。たいてい明け方の3時から4時の間、なぜか、自然は洞察とも呼ぶべき一時間を私にくれたのだ...なので、このデザインはドローイングボードとは全く関係ない。働いている間、遊んでいる間にできてくるものなのだ。テニスコートのまん中で、ラケットを置き、突然立ち去ってスケッチすることになるかもしれない。そういう類いのものなのだ。さっと通り過ぎてしまう、束の間のものだ。この時点で素早く捕らえなくてはならない。」

カウフマン氏が、プロジェクトの進行状況を尋ねる電話をよこし、ライトがまだドローイングが全くない状態で準備できています、と答えると、カウフマン氏はこれから2~3時間後に立ち寄るとライトに伝えます。ここからの数時間で、ライトは詳細まで何枚ものドローイングを仕上げ、一番下に「落水荘」と書き記します。「住宅は名前がないとね」。

(今日はここまでです)

ユーソニア住宅(昨日の続きII)

2005-03-11 | Frank Lloyd Wright
今日こそ、終わるといいのですが。。。

ユーソニア住宅では屋根平面が壁の上に浮かび上がっているように見えます。連続するリズムのため、周辺の空間と並々ならぬ密接な関係を築いています。重なりあう屋根平面の高さが各々微妙に異なるため、協和和音のような、あるいは禅における墨絵の力強い筆のあとのように、幻想的な秩序を生み出しています。

屋根は自由自在に飛び出し、周囲の空間に浸透しています。屋根は3層の2x4の垂れ木の上にのせられていて、安価に建てられるようにできています。この層は漸次外側へ突き出すようになっていて、下の方にいくと、薄い鼻隠板の部分で止まっています。雨樋はなく、竪樋のパイプが屋根に取り付けられているのみです。2x4のグリッドシステムの採用により、スタンダードサイズのベニヤ板と16インチ間隔の梁(ジョイスト)の利用が可能となりました。

装飾は姿を消し、建物の構造の必要不可欠な部分となりました。羽目板の木地、横長のレンガが生み出すテクスチャー、屋根の鼻隠板、そして窓割りのリズム。

家中を巡るディテールが必要不可欠な、経済的な装飾となりました。 縦にのびるグリッドは、羽目板の高さを詳細に決定し、さらに室内の本棚や作り付けの家具の一部となりました。これにより、「部分の全体に対する関係は全体の部分に対する関係と同じである」という有機的建築を定義づけることになります。

ユーソニア住宅は小さな経済的な敷地に設計されました。近隣への印象づけのため予算の大半をファサードに割くトラクトハウスとは異なり、ユーソニア住宅は近隣にそして「道路に背中を向け」たのでした。土地を最大限活用するため、住宅(そして窓割りは)庭に向かっていました。高い位置にある採光窓は住み手に光とプライバシーをもたらしたのです。

ライトは大理石、テラゾ、そして外国産の木などの高価な材料を使用せず、建築そのものに対してお金を注ぎ込みました。建築家に対する究極の試練である基本的な材料をどうアレンジするか、部分と空間がどのように配置されるか、につき、ライトは彼の想像力の幅広さ、奥深さを証明してみせました。

驚く程シンプルなユーソニア住宅の屋根のラインは、典型的な建設業者がつくるパイプ、通風口、エアコン、そしてその他の付属物がそこら中に見える住宅とは全く対照的でした。

ジェイコブ邸の費用は近辺の住宅のコストとをコスコとはありませんでした。ライトはシンプルな建設材料から芸術的な作品を生み出すという技術の熟達度を見せてくれたのです。

(ようやく終わりました。。。翻訳は本当に大変です。でも、とても勉強になります。いかに自分がいい加減に読んでいるかがよくわかります。)

ユーソニア住宅(昨日の続き)

2005-03-10 | Frank Lloyd Wright
昨日の続きの翻訳です。

壁は一連の平面となり、細長い薄板(スプライン)によって床に固定されました。まるで、日本の障子のように、空間を決定していました。ガレージは、彼の新たな発明になるカーポートにとって代わられました。これにより、玄関口に格好のいい屋根のある通路ができ、互いに交錯する水平面のリズムの中で第3の屋根面となりました。多層の平面という複雑さは内装にも反映されていて、低めに位置した底板(soffit)が内部スケールの尺度となり、ユティリティの導管にもなり、木の箱に入ったシンプルな磁器でできたランプソケットにより全体の照明となったのです。

キッチン-ワークスペースが食堂エリアに流れ込み、これによりリビングルームの一部となり、一つの連続した流れを持つ空間を生み出しました。廊下は、照明の行き届いたギャラリーとなり、主空間と部屋とをつなぐ役割を果たしました。内部空間の連続性により、全体性への認識が一層高まります。

魔術師がカードを使って家をつくってしまうように、ライトは平面の持つ信じがたい程の力を証明してみせました。水平に使うことによって屋根となり、天井となり、底板となり、土間となりました。また、垂直に使うことによって、内部空間を定義づけ、また連続させる一連のスクリーンとなりました。ランドスケープへと繋がることにより、内部と外部空間の間に共生の関係が生まれました。仕切り壁が採光窓の部分で止まることにより、天井-屋根の水平面が何をすることもなく浮かび上がった状態となります。屋根平面は地上面を強調し、共鳴します。

この水平ラインは水平に並べ集められたレンガと同一平面に縦に積み上げられたジョイント及び木の羽目板上の凹面の当て木によってさらに展開していきます。釣り合いをとるため、暖炉の存在、リズミカルに連続したフレンチドア、そして一連の開き窓により縦の要素が加わります。

レンガでできた暖炉のユティリティー中心部とキッチン及びバスルームのための集中配管、そしてボイラーによって、工場生産が可能な経済的な基本的な配管ユニットを提供することが可能となりました。

勾配のない屋根は一連の水平面となり、ベニヤ板の上をアスファルトが混ざった屋根で覆うことになりました。平らな屋根は最も安価で、シンプルで、最も問題の多い屋根で、近代建築の常套句-そして試練-となりました。水漏れしやすいということで、建築家のキャリアをつねに苦しめました。

ライトはこの「蓋を箱から」浮かせて引き離すことにより、これを独立して浮揚する水平面へと姿を変えることを発見しました。3面あるいはそれ以上の面を交錯させることで、驚くべき程の緊張とエネルギーの感覚を生み出すことになります。

(続きは明日。。。なかなか終わりません。)

ユーソニア住宅(The Seven Ages of FLWより)

2005-03-09 | Frank Lloyd Wright
今日は、ユーソニア住宅の部分をなるべく忠実に訳してみたいと思います(自らの勉強のため)。

サミュエル・バトラーの「ユーソニア」という新たなアメリカに関する洞察力に富む本に感動したライトは、この名前を借用し、自らの作品をユーソニア住宅と名付けます。この住宅では、いかなる人も住宅を所有し、建設することができる理想的な民主主義社会へ向けて設計されました。これに挑むため、ライトはアメリカの住宅の構造を根本から考え直しました。余分なものは全てそぎ落とし、必要不可欠なものだけを残し、床や屋根の構造には普通のベニヤ板を利用しました。土台からですが、ライトは地下室や板張りの床をやめ、最も安価な土間コンクリート(a concrete slab on grade)を使いました。ウィスコンシンの冬では、コンクリートの床は寒いため、ライトは新しい暖房システムを考案。東洋に滞在中、ライトは韓国の、床の下に埋め込まれている熱風パイプシステムに感心していたライトは、この住宅似てコンクリートスラブの間に熱湯パイプを埋め込みました。ライトは初の輻射暖房システムを発明したのです。

土間コンクリートの表面は色のついた赤レンガで、この住宅プランの軸線にあわせて並べられ、密閉、ワックス、研摩といった仕上げを行いました。通常の2x4の間柱でできた壁の代わりに、中空でない壁にするため、内部構造コアとなるベニヤ板を断熱ボードで覆い、イトスギやアメリカスギの板を横長に位置し、ジョイントを当て木で固定するという方法をとりました。

今日はここまでにします。翻訳は、その専門知識がないととても難しいものです。
ちなみに、なぜイトスギやアメリカスギを使うのか、と思っていたら、これらの樹木は沼地に生息しており、湿気等の悪条件に大変強いため、そのまま住宅の内装や外装に使っても、比較的傷みにくいから、という情報を得ました。なるほど、細かいところまで考えているのですね。

第4時代:水平面(The Seven Ages of FLWより)

2005-03-08 | Frank Lloyd Wright
今日は第4章に入ります。この章は、ユーソニア住宅と、タリアセン・フェローシップについてです。

まず、ユーソニア住宅ですが、1929年の大恐慌が引き金となり、ライトは建築の存続のため、新たな技術の発明を強いられます。経済性とシンプルさを追求した建築が必要となる、とライトは考えました。

このユーソニアという言葉ですが、これはサミュエル・バトラーの本「ユーソニア」から借用したもののようです。だれもが自分で自宅を所有し、建設することができる、アメリカ民主主義社会の確立を目指したものです。このため、余分な装飾はいっさい落とし、必要不可欠なもののみでたてる住宅としました。

壁はベニヤ板を採用、床は韓国ですでに活用されていた、熱風パイプによる床暖房システムを取り入れました。その他にもものすごい数の特徴がここに記されているのですが、詳細は明日もう一度集中して取り上げたいと思います(でないと、私の集中力が持たないので。。。ごめんなさい。)

ライトは、インターナショナルスタイルを不毛で、機械的だと避難し、特にコルビュジェの「住宅は住むための機械である」という言葉にものすごい反発を覚え、コルビュジェからのインタビューの依頼を断ったそうです。そして、対抗案として、すべての人々に1エーカーずつ与えるという「ブロードエーカーシティ」というコンセプトを打ち出します。そして、この中にユーソニア住宅をちりばめます。

恐慌後、ほとんどプロジェクトがなく、もっぱら執筆と講演でなんとか切り盛りしていたライトですが、妻のオルギバンナの勧めで1932年に自叙伝を執筆。さらに同年、タリアセン・フェローシップを開設。これにより、新たなコネクションができ、新たな黄金時代への掛け橋となります。

この章の半分は、タリアセンでの研修生としての生活ぶりについて、筆者自身の経験を中心に書かれています。ここで印象的だったのは、ライトが研修生に何を教えようとしていたか、ということについての文章です。

What Wright was trying to convey us - and to nurture - was his own insight and experience of nature that he ahd learned working on the farm: his sensibility for nature, the site and for the nature of materials.

やはりライトの建築は、小さいころ農場で働いたことを通じて培った自然への洞察と経験、自然や場所に対する感受性、そして材料のもつ性質など、いかに彼が自然を体験したか、に寄るところが大きいのだと思います。そこに、ライトのチャーミングな性格が合わさって、数しれぬ偉大なる建築を生み出し、近代建築の巨匠として崇められるに至ったのだと思います。

タリアセン・ウェスト(1937-59)

2005-03-07 | Frank Lloyd Wright
タリアセン・ウェストは、1927年にフェニックスのアリゾナ・ビルとモアホテルの設計をコンサルタント建築家として手伝い、この南の土地に惹かれたライトが、このプロジェクトを通じて出会った起業家チャンドラーの次のプロジェクトであるSan Marcos-in-the-Desertというリゾートホテルの設計に取りかかった時、Ocotillo Campという仮住まいを設営したのがはじまりで、これが元となり、10年後の1937から本格的にタリアセン・ウェストの建設に着手しました。

仮住まいであるOcotillo Campはタリアセン・ウェストのプロトタイプになったもので、こののち22年間に渡って増築を重ねていくタリアセン・ウェストですが、基本的な形態は常に変わらないようです。重厚な砂漠の素石の壁にアメリカスギのフレームとテントのような白いキャンバス地。キャンバス地を通じて降り注ぐ太陽は少し優しくなっていて、スタジオ及びリビングスペースに最適な環境を生み出しています。時を経て、アメリカスギは鉄に、キャンバス地はガラスとプラスチックにとって代わられましたが、空間の質は今でも代わらずそのまま存在しています。

私が写真を見て何よりも印象的だったのは、美しいプロポーションと傾きをもってリズミカルに並べられたアメリカ杉のフレームとそれに馴染むように存在する地元の石でできた壁のコンビネーションです。石って、いろんな表情があるんですね。同じアメリカでも私が住んでいる地域(北西部)ではあまり見かけないタイプの石ダと思います。だからでしょうか、より一層のインパクトがありました。石の持つ可能性、いつかゆっくり考察してみたいです。



第3時代:砂漠のなかの三角(The Seven Ages of FLWより)

2005-03-06 | Frank Lloyd Wright
今日は第3章に進みます。

タイトルからも多少想像できるかと思いますが、この章はライトがタリアセンウエストを設立したことが中心に書かれています。

ウィスコンシンの極寒から逃れるため、砂漠へ向かったライトは、アリゾナにタリアセンウェストを設立。砂漠では、太陽のエネルギー、澄み切った空気、そして幻想的な光があちらこちらに行き渡っており、体を再充電し、精神を再びみなしてくれる。そんな環境の中、ライトはまたもや新しい発見をします。

ある日、サボテン(アリゾナ近辺に生息する、高さ12メートルにもなる大きなもの)を見たライトはこういいます。

「自然は、最小限のマテリアルを最も経済的な方法で活用しながら砂漠の中に存在する。水もほとんどなく、固く、石のような土壌である。ほとんど何もない状況で何かをつくり出すというのは、建築家にとって、大変よい訓練である。これほどまでに資源のない状況では、植物は大変効率のよい構造を自ら構築せねばならぬ。このような状況下、砂漠で最長の高さをほこるこのサボテンは、空洞の繊維質でつくられた複雑な基盤を利用しており、支柱の外側は波形の皮膚でできている。」

波形の皮膚は熱い太陽から影をつくり、何世紀もの間この高さを維持し、構造上もひだ状の平面をもつ支柱となっています。この、ひだ状の平面はのちに落水荘、オコティッラ、ハンナ邸などに適用されたそうです。

タリアセンウェストでは、またもや空間のドラマが待ち受けていたようです。狭いギャラリースペースをぬけ、ギリギリ通れるかぐらいの階段をのぼり、低い梁、低い天井を抜けると突然、広大なアリゾナの山脈が目の前に広がるという仕掛け。明/暗、狭/広、低/高、下/上など、あらゆる体験が待ち受けているようです。

潜在的に、砂漠の中に三角を見い出していたライトは、様々なプロジェクトでこの形態を活用します。ナコマカントリークラブ、ヤング邸、ブ-マ-邸などです。

砂漠でライトが得たもの、それは光、三角、動、感触、構造、非対称性、経済性、素朴さ、そして直根(taproot)だそうです。わかるような、わからないような、コメントするのが難しいところです。というのも、これまでのライトの作品は、もちろんすべてではありませんが、実際体験したことのある作品もあったので、比較的コメントしやすかったのですが、この南西部の砂漠に位置する、自然に密着した建築はまだ一度も訪れたことがなく、従って大変理解しにくい部分があります。

サンチアゴ・カラトバとか、ミ-スなんかもそうですが、フランク・ゲ-リーのビルバオとか、リチャード・マイヤーとかもそうかもしれません、大変フォトジェニックで、いったこともないのにものすごくいい建築だとかってに想像しやすい建築家の作品と違って、ライトの作品は常に奥があり、それが2次元ではどうしてもわからず、従って訪問してみないと本当のところはわからない、という感覚があります。

Alice Madison Millard House (La Miniatura) (1923)

2005-03-05 | Frank Lloyd Wright
日本から帰国したライトは、カリフォルニアに事務所を置き、積極的に活動をはじめますが、ここで「テキスタイルブロック」という新しいマテリアルを作り上げます。

これは、装飾の施されたプレキャストコンクリートで、内部にスチール棒を立て横張り巡らせる構造となっています。

このマテリアルを初めて使用したプロジェクトが、この住宅です。クライアントは以前、シカゴに在住時、ライトの住宅に住んでいた未亡人で、ライトがこのマテリアルを提案すると、即座に同意したそうです。彼女はこの住宅を大変気に入り、またこの住宅も60年以上住み手のいない時代はなかったそうです。

やはり、クライアントが理解ある人物で、建築家と協同してプロジェクトをすすめることができると、規模の大小に関わらず、すばらしい建築ができあがるのでしょうね。そして、そうやってできた建築は、長期間に渡りこよなく愛され続けることになるのだと思います。

Hollyhock House (Aline Barnsdall House) (1917)

2005-03-04 | Frank Lloyd Wright
今日はHollyhock Houseを取り上げてみます。というのも、この作品は以前に耳にしたことのある建築だったので、有名な作品の一つかと思いきや、様々な事情によりライトらしさを発揮できなかった建築のように思えるからです。

まず、時期が帝国ホテルの建設と重なっていたため、アシスタント任せになっている部分があったこと。

それから、クライアントの要望が大変具体的で、なかなかライトの考えと折り合わず、お互いのよさが引き出されるという方向へ向かわなかったこと。

素人の私にはほとんどわからないのですが、この住宅は木造のセメント仕上げだそうです。ただし、ホリホック(葵)の部分はコンクリートでできているそうです。本来は、ユニティテンプルのように全体をコンクリートで仕上げたかったそうです。

ライトのこれまでのプレーリー住宅の特徴はほとんどみられず、窓やドアも日照をさえぎるという観点の方が重視されたせいか、奥まったところに位置していて、あまり開けた感じはありません。リベラルな芸術家のコミュニティを目指したこのプロジェクトは、どちらかというと裕福な貴族のプライバシーを守る要塞になってしまった、と写真集にもコメントされていました。