このあいだ届いた塔の1月号を読んでいて、あ、森尻さん、と思って熟読。特別作品欄に「ふみこさん」というタイトルで15首掲載されている。
足元のふらつく母が階段をひとりで上り来今日は十回
テレワークの隙間をぬってシーツ洗い布団を干してごはんを食べさす
手づかみでも食べやすいように食卓は揚げ物茹で物スティック野菜
急激に衰えし母の時間軸あちこち飛んで家族も追えず
われの手を握りしめたる感触の 力を込めてわれを頼りて
わけもなく涙流れぬ母乗せた車が角を曲がりたるのち
母が母でありたるときは終わりたりふみこさんなり残りの日々は
(森尻理恵 「ふみこさん」より)
森尻さんは私と同年代で息子同士も同じ歳。全国大会に連れて行って託児室でいっしょに遊んでもらっていたこともあった。お母さんの須藤富美子さんも塔の会員で、歌集も出されている。2016年に出された『銀色の「1」』の書評を「塔」に書かせてもらった。須藤さんが指名してくださって、とてもうれしかったのを覚えている。
少年と祖父とが遊ぶキャッチボール長き夏休み明日で終わる
駅前の不二家閉店通るたび手触れて過ぎしペコちゃんも消ゆ
変声期か風邪引きのような声をして〈俺〉という児を離れてながむ
降りそうな空を見上げて下校待つ降っても迎えはいらぬという児
(須藤富美子『銀色の「1」』)
「成長とともに少しずつ離れていく少年。閉店のためになくなってしまったペコちゃん。通るたびに触っていた孫の小さな手も消えてしまったように思う。けれどもこうして「消えてしまった」ペコちゃんは歌に詠まれることによって、存在を取り戻す。上目遣いのペコちゃんの目も赤い舌も、孫が触ったあとの顔の揺れもすべてはっきりと見えてくる。そして、この歌を読むたびにペコちゃんの記憶を持つ人は自分の中にあるペコちゃんを思いまた、ここに詠まれたペコちゃんを思うだろう。そのときに交わしたであろうたわいない会話も変声期前の声も、すべての時間が歌を読むことによって再現できる。記憶を呼び覚ますひとつのきっかけとしたとき、歌は写真と違って視覚による情報がないぶん鮮やかに細部まで蘇らせてくれるのだ。その記憶は作者だけのものではなく、読者の記憶にも繋がっていく。」 (書評より抜粋)
娘、孫を支えていた須藤さんの日々。
息子が大人になって、そのぶん、私たちも歳をとり、親たちは老いた。最近は全国大会など会うチャンスも減って、話したりはできなかったけど、森尻さんもがんばっていたんだなぁと今回の作品を読んで思った。同居されていたから、大変さは私とは比較しようもないと思う。
同じ結社にいる、ということは、歳月の背景も共有していることだなと思う。もし、須藤さんが私を覚えていなくても、私はずっと須藤さんのことも作品も覚えていますよ。ふみこさんの時間を過ごしてくださいね。
森尻さん、いろいろお疲れさま。会ったら泣くかも。 元気でいましょう。