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いつでも君のこと好きだったよ

宇都宮敦歌集『ピクニック』

2019-06-05 21:11:33 | 日記

 届いたときの本の大きさと色(タウンページみたいなイエロー)に驚いて、いったん心が波立ったあと、ページをめくって読み進むと、ほう、ふつうのことだ、ふつうが書いてある、と思った。見開きの右側がうすい水色で文字はなく、左側に3首ずつ、大きな文字で歌が並んでいた。

 

 月と600円の読書会でレポートをすることになって、何度か読みながらメモしたことは、「会話」「諦念」「ぬけ感」「いるようないらないような措辞」「ひとり完結」など。いろんなタイプの歌があって、器用な人だなと思ったけれど、読書会のときに歌集にするまでに15年くらいあったと知って、ちょっと納得した。

 

 その装幀や配置に惑わされて、日常をピンでとめていくようにつぎつぎと歌を作って、短期間で歌集を作った、というふうなイメージを持って読んでいた。だけど、そういう事情は置いておいて、歌集そのものを読めばいいと思う。

 

 ・振り向いたけれども猫はいなかったけれども君がみたならいいや

 ・ボウリングだっつってんのになぜサンダル 靴下はある? あるの!? じゃいいや

 ・ふとん叩きの頭みたいなドーナツ?なら売ってるけど オーケー んじゃ買ってくわ

 ・どらやきに餅が入っていて君がよろこぶ 餅はいいね 栗もね

 

 生き生きとした会話の中にあたりまえのようにかわした、歌にならないような流れていく時間が嵌め込まれている。1首目は自分は結局なにも見ていないんだけど、「あ、猫!」とか君がいって自分が振り向いたけどいなくて、でも君は猫を見たんだよね、よかったね、君がみたならいいや、となる。「いいや」に至るまでの経緯が読者のなかで再現できる。2首目のボウリングの歌も、最初はサンダルをはいてきてわかってないなぁと思っていたら靴下をちゃんともってきている、え、そうなんだ、「じゃいいや」になる。そこへ至るまでの時間は1分以内に交わされたことかもしれないけれど、その短い時間のなかの起伏に読者もついていく。おもしろいと思う。4首目の「餅はいいね 栗もね」というちいさな呟きに愛が凝縮されている。

 

 ・君がのぞきこむように見上げる僕はかつてぜんそくもちの男の子だった

 ・わたしクラスで最初にピアスあけたんだ 君の昔話にゆれる野あざみ

 ・いつまでもおぼえていよう 君にゆで玉子の殻をむいてもらった

 ・かつて僕が君のなかにみた黒犬の鼻の頭は濡れてる? いまも

 

 どんなに好きな相手でも出会ったあとの時間しか知りえないことの寂しさ。いつも届かないせつなさがついてくる。3首目のゆで玉子の殻という細かい描写に覚えておこうという思いの強さがでている。してもらったことのささやかさが、その充足感とみているいまが過去になる、終わりを孕んでいることをより強く思わせる。「君にできることはボタンつけと掃除 だけど満ち足りていた by布施明」になる。4首目はひらたくいえば、僕が好きだった君はそこにいるのいまもってことだろうけれど、黒犬の鼻の頭に託してくるところがとても巧い。

 

 私がレジュメに書いた好きな歌から3首。

 

 ・カーテンが光をはらんでゆれている僕は何かを思い出しそう

 ・まいにちの電話のノイズにまぎれてた氷河のきしみを聞いていたんだ

 ・拍手から羽ばたく鳥の数万羽帰る森 友達が待ってる

 

 上の歌は確かにいまも好きだけれど、この歌集の代表歌をといえば

 

 ・読みさしのページに挟むのはしおりならばこの世のすべてにしおり

 

 だと思う。この歌に歌をつくることの宇都宮さんの姿勢のようなものが感じられて、すてきだと思う。

 

 

コメント
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