『子育てをうたう』(松村由利子著 福音館書店)を、毎日の通勤時間とお昼休みに楽しみに読んでいます。
子供がいる人は子供が幼かった日のことを、子供がいない人は自分が幼かった日のことを懐かしく思いながら読めるように、とても大切なことが頁のあちらこちらに用意されていて、ああ、そうだったなぁとか、ああいまはだめだなぁとか、じいんとしたり反省したり。 どの頁も読み終えると温かいものが心に残ります。
だから、通勤とか仕事の休憩に読むのにぴったりなのです。 気持ちを切り替えて、さぁ、仕事だ、と思えます。
きょうは「ことば」という頁を読んでいて、小さい従妹のゆうこちゃんが初めて買ってもらった人形を大事そうにしていて、私が名前はなんていうのってきいたら、
「コンキン」 といったことを思い出しました。
「コンキン?」と聞き直すと、母親のひろこちゃん(私の叔母です)が
「そうなの、その子、コンキンなの」といって笑っていたのです。
子供のつけた名前をちゃんと家族で共有しているっておもしろいなぁと思いました。 だから、息子が小さい人形に「チョー・ドンマイ」と中国風?の名前をつけたときも、私はそのままその人形を「チョー・ドンマイ」と呼んでいました。 あの人形は不思議な人形で見ているだけで笑ってしまうのです。
もしかしたら、ゆうこちゃんは「コンキン」ちゃんのことをもうすっかり忘れているかもしれません。 だけど、周りの大人が覚えていて、「そんな名前をつけたんだよ」って伝えることができます。
何度も書きますが、私の父は娘たちを溺愛していて、小さいころのことを覚えていて何度も繰り返してきかされて私たちは大きくなりました。
「おまえはかわいかってなぁ。デパートにつれていったら、女の店員さんたちが抱かせて抱かせてって、みんなの手から手へ抱っこされたりしたんや」 (それはお客さんだから店員さんたちは愛想でやっていたのかもしれないと思うのですが)とか、妹がからしを手でたっぷり口に入れたときのこととか、私も覚えていないはずなのに、なんだかそのときのことがありありと浮かんでくるのです。
人はそんなふうに自分の記憶にないものまで記憶として習得し、時が経つとまるでそれが自分の記憶そのものになってゆくのかもしれません。
義父は自分がオムツを外してもらったときのことを90歳近くになっても覚えていると、よく言うのですが、はじめはみんな「それは嘘だよ~」と信じていませんでした。でもこのごろ、義父も同居していたおばあさんやお母さんからオムツを外したときの様子をきいているうちに、自分の記憶としてずっと持ち続けているのかも・・と思うようになりました。