ビビッド能里子トーク・サロン

医学的にも珍しい満十年の認知症介護について。自己分析や気分転換、幸せを感じる心の癖の付け方、メチャ料理など楽しく書きます

見えざる手に導かれて

2020-03-17 08:53:08 | エッセー

 夫との会話から突然思い出したのは、主婦だった私が「ソシアルダンス教師」と

してスタートした日のことだった。中3からソシアルダンスを踊っていた私は

子供達の手が離れた28歳の時、夫をそそのかして家族に内緒で、毎週3回子供達

を置いて「ダンス教習所」へ通っていた。3か所目のスタジオが、新宿の甲州街道

沿いにあった「東京高等ダンス学校」だった。その結果私は教師試験を受けて資格を

取った。そして私の人生は大きく変わった。

 やがて私はそのダンス学校で指導することになり、その頃には新宿南口の駅前の

ビル移転していた。私達は個人レッスンを受けていたが、「東京高等ダンス学校」は

クラスレッスンがメインだった。何か月かアシスタントとして見習い、50年前の

今頃に、今日から自分がクラスを持つと決まった日をの、私は決して忘れない。

新宿駅の階段を昇るとき、緊張のため足が震えたことを・・・

でもダンスを教えて初めて知ったのは、教えることの楽しさと、やり甲斐で、自分の内面

の資質に目を見張る思いだった。でも、ダンス教師になってすぐ、自分のセンスのなさや

その業界が私に合わないことで、「これは一生続けられる仕事ではない」と感じた。

色々アンテナを張り、ヨーガに出合い、その精神性に惹かれ、瞬時に「これは一生の

仕事にしたい」と思った。

 その頃まだあまり知られていなかったヨーガだったが、経営者の先生にスカウトされ

特訓を受けて2年、ダンス教師をしながらそこで指導した。

 やがて自分の「ヨーガ教室」「ダンススタジオ」を経営指導したが、ヨーガもジャズ

ダンスも空前の大ブームになった。私がしたことは幸運なことに、ほとんど時代の最先端

で、次から次へと道は拓かれていったのだ。思えば商家の妻が家を出たのは、家族との関係が

良くなく、それが直接の原因で、そのため、夫も許してくれたのだろう。

 ダンス教師になったのがきっかけで、私の人生は大きく変化し、気が付いたら、指導者として

今年が満50年になったが、これもまた見えない力の導きかも知れないと感じた。

 インドへ通ったのは13回、そして私のメンタリティは大きく変わり、その「見えざる大きな力」

に改めて感謝を捧げた今朝だった。

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