切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

十月 大歌舞伎 夜の部「勘平腹切」「髪結新三」(歌舞伎座) 

2006-10-22 23:59:59 | かぶき讃(劇評)
最近さっぱり歌舞伎について書かず(書けず)、ブログのタイトルに偽りありといわれかねないので、久々にあっさりですが、いいたいことを!

①「勘平腹切」

言わずもがなの「仮名手本忠臣蔵 五段目・六段目」。切腹した塩谷判官の傍に本来はいるはずだった、早野勘平の物語。

勘平が判官の傍を離れたのは、恋人である腰元・お軽の誘惑が原因だったわけだけど、歌舞伎では演じられず、文楽では演じられるこの誘惑の場面を見てからわたしの忠臣蔵観は変わってしまった!でも、先日の文楽の忠臣蔵では、この場面はカットされていてとっても残念でしたね。(三段目「文使い」)

その場面というのは、勘平にどうしても逢いたかったお軽が、すぐに渡さなくていい顔世御前(判官の奥さん)から師直への返歌を持って城内に現れた上、勘平を誘惑、勘平が腰に差している刀をお軽が奪ってしまって、草叢に誘い込むという、なんとも艶っぽい場面なんですね。(そして、その間に「松の廊下」ということになる!)

西鶴の「好色五人女」や近松物なんかでも、誘うのは女の方だったりはするんだけど、江戸時代の女性の積極性やおおらかさっていうのは、なかなか面白かったりするし、子供は見なくていい芝居の楽しみってこういうところにあるなあって、思ったりもします。

わたしは、文楽の人形遣い・吉田蓑助さんのお軽の艶っぽさが忘れられないんだけど、この場面がお軽の性根を語る上で重要な場面だとは、蓑助さん自身の言葉だし、「お軽」というネーミングが「軽はずみな女」ということから来ているというのは、山川静夫さんの説だったと思う。

さて、なんでこんな前説から舞台の感想を始めたかというと、わたしのなかで「仮名手本忠臣蔵」というのは、ロミオ&ジュリエット並のバカップルお軽&勘平によって揺らいだお家モノというか、些細且つ純粋な愛の交感がもたらした遠大なストーリーというようなイメージになっているからで、ただただ逢いたいから逢いにいっちゃった女によって起きた大河ドラマって、いまでもそこここで起こったりしていないかな?(なんてね!)

ということを踏まえると、六段目の勘平・お軽の別れの場面(これが本当に最期の別れになってしまう)が、なんとも切なく余韻の残る場面に思えてくるってわけですよ。

さて、今回のお軽・勘平は尾上菊之助に片岡仁左衛門。

菊之助のお軽は新橋演舞場でやった忠臣蔵の通しで観たことがあったけど、今回は仁左衛門が相手だからなのか、少し慎重で軽さがないなあなんて、わたしは思った。わたしのイメージでは、前述のように積極的で軽はずみな女がお軽なので、若いのに重いお軽には見えたかな。

一方、仁左衛門の勘平は色男の勘平で、十五代目市村羽右衛門がきっとこういう勘平だったんだろうなと思わせるようなスッキリした感じ。菊五郎ならもっと泥臭いし、いまの勘三郎ならそそっかしい男にも見えたし、先代・勘三郎なら廓文章を思わせる和事的な色気があった。そして、案外忘れてはならないのが、坂田藤十郎が国立でやった勘平。これは、ヒラヒラかつねっとりした藤十郎の和事風勘平で、何をやってもこのひとはそういう感じだとは思いつつ、「封印切」みたいな熱気がありましたね。

で、今回のこの芝居はとっても見ごたえがあったいい舞台だったんだけど、あえて難点を言えば、お軽の母親・おかやの市村家橘。要するに、勘平を責めて切腹に追い込んでいく役で、この芝居の中心はじつはこの役なんじゃないかとさえ思えてくるんだけど、田之助、吉之丞クラスでないとどうも情が薄くて物足りない。文楽では名人・豊竹山城少掾
がこのお婆さんの台詞を語っているときに足が痙攣していたなんていう話もあるくらいなんだけど、難しい役ってことなんでしょう。

ところで、誰か忘れていませんか?というあたりで、斧定九郎の海老蔵!以前の新橋の舞台よりスケールアップしてましたね。花道七三のあたりでの凄みはやっぱりこの人ならでは!舞台写真も買いましたが、花道近くの席だったらドキッとするんでしょうね。

あとは、権十郎の千崎弥五郎がよかったな。

②「髪結新三」

幸四郎の今年の初役っていったいいくつあったっけ?しかし、どれをみても、いつもの器用は俳優・幸四郎がいるだけで、彼の新しい一面を見た気がしないというのはどうしたことだろう?

「髪結新三」という芝居は好きな芝居だし、気持ちよく家に帰れる演目なんだけど、今回は・・・。

あまり悪口ばかり書くのも気が引けるので、手短にいうと、違う芝居かと思うほどテンポが悪く、黙阿弥物とは思えない感じがしてしまった。幸四郎がやる黙阿弥物の主人公達は、全然気風がよくなくて、下卑た市井の人という印象をいつも持つ。

河竹黙阿弥の芝居は、幕末の権力が揺らいだ世相を反映した芝居で、武士を小ばかにした庶民の活躍なんかが特徴だったりするのだけど、とにかくカッコよくて痛快なキャラ設定なわけで、全然そんなふうに思えない演じ方がなされるというのは・・・。

今月はたまたま名古屋の御園座でも菊五郎のこの芝居が出ているんだけど、幸四郎で初めてこの芝居をみた人は不幸としかいいようがない感じがする。とにかく、この芝居は粋でいなせでカッコいい江戸っ子の芝居。筋書きでは「パワーやバイタリティにあふれた新三」を演じたいといっているんだけど、従来の演じ方のほうがよっぽどパワーやバイタリティを感じる。

幸四郎は、初役をやることで「自分探し」をしてないで、今までやった芝居の中で演じ方を変えるとか、今までニンじゃないと思われてきた芝居で、その芝居の演じ方の中で自分を探したりするべきで、全部自分流にアレンジするんじゃあまったく意味がないとわたしは思うんだけど、どうなんでしょう?(生意気ですけど!)

因みに、幸四郎以外の配役は割合がんばっていて、手代忠七の門之助は、従来のベテラン役者のやるこの役よりよっぽど、お熊が惚れそうな色男だったし、段四郎の弥太五郎源七はこのひとにぴったりの当たり役。ちょっと心配だった大家の弥十郎は、意外にも渋い好演で今後も楽しみ。しかし、このひとって、お兄さんの吉弥が亡くなってから渋みが出てきたような気がする。

というわけで、手短のつもりが長くなりました。これだから、続かないんだな、感想が!


PS:因みにわたしが今の勘三郎の「髪結新三」について書いた記事はココ
だいたいココで語りつくしちゃってるんだけど・・・。
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