建築家のヤカン

個人的覚え書き。UPは順不同!(汗)(ワタシは建築家でないです。。。)

『ディパーテッド』~ハリーとホリーと

2007-01-31 | cinema f.d-f
第一の男。

「”脚本”が同じでも”監督”によって映画はこんなに違うのです!」
そう『映画監督って何だ!』が”絶叫”するのを見たばかり。

悪いけど、面白さが違う。
”ムード”を楽しんで、特別な雰囲気にひたって、「あー、面白かった」で映画館を出たらそこで終わり、すっきり後引かないのと、見た後頭の中ぐるぐる考え回るのと。
本当のところは、映画始まったとたんにすぐ、全然違ったけど。
画面への、自分のひきつけられ方が違う。
理由のひとつは視点の取り方にあるのだろうと。
毎度ご親切な香港メインストリーム映画が映画の中どこからどこまで全部首突っ込んでは説明して回るのに対して、こちらはどこかに「視点」がある。
映画の中心部がふたりの若者キャラよりも70歳になるというコステロ親爺にあることは、冒頭からすでに明らか。
twoYoungはふたりして親爺の手によってひょいひょいと操られている存在に過ぎない。
一人は彼に近づこうとして。もう一人は彼との縁を断ち切ろうとして。

theDEPARTEDというタイトルは、映画の始めから主なキャラ達はすでに死者の側に属している、ということなのだろう。
サリヴァン君の方は登場した時から’home’を思わせるものを一切持っていない。ドラッグストア風の店のカウンターで一人で食事している少年が声を掛けられ、腕一杯の食料品を抱えさせられる。おそらく家にそうした物が充分には無いのだと。
次登場した時には親爺を「パパ」と呼ぶ青年になっている。
彼の生来のfamilyは全部あちら側の世界にいるのだろう。地上での縁者はこのパパ一人である。
そして当のパパは、一応は地上にいるけれど、実は冥界に属する者なのだろう。「あのangelと今からデート」と、親爺は天使の姿の子供の列の後について行く。ついでに「道を踏み外した者」でもあるわけだろう。

ビリー君は「母親」の存在を映画の中に持っているex.遺品いっぱいの家?部屋?
「親類縁者はもう誰もいません」と署で答えた後に、最後の縁者であったらしき母方の叔父さん?を見取る光景?らしきものが示される。憎くてたまらない相手の様な口の利き方をしていたのに、病院のベッドの脇の彼は消沈している様に見える。
「母」の方に繋がる何かを、彼は持っていたかったに違いない。彼の「母」は、たぶん生の世界に属するだろう。
「アンタになるのは真っ平だ」とビリー君は飲み屋?のテーブルで親爺に言う。ブチ切れそうな顔をしている。たぶん真剣さで。なぜならそのままではビリー君は充分親爺になり得るからだろう。
彼はたぶん、half&halfの可能性でこの映画を生きている。親爺の側に属する確立と、属さない確立と。「この世を生きる人間」に一番近い立場かもしれない。
「アンタになるのは真っ平だ」と言うときの緊張ぶりは、親爺に(物理的に/距離的に)近ければいかに容易にそちらに引っ張られていくかの現われだろう。ビリー君当人の「希望」は、その逆なのに。
「恐ろしくて心臓バクバクなのに、手は震えもせずしっかりと引き金を引く。人を殺すときの自分がそうであることを知った」と、ビリー君は精神科医に言う。彼はそれを、薬をもらうだけのことはあると主張するための「恐怖体験」として語っている。彼の恐怖は暴力行為の体験そのことより、「自分が~だと知った」ということの方にあるだろう。
親爺の側に属するのは「楽or容易」なのだ。
だからこの映画で、ビリー君は散々苦しそうな顔をしている。距離的に親爺に近くありながら、そこに属すまいとしている彼は。
一方、サリヴァン君に苦しげな様子は見られない。彼の志向は親爺側に属することだから。

映画中最も&ほとんど唯一’home’を確実かつ濃厚に身辺に持つのは眼鏡の警部@「自宅」シーン「ホラ、冷たい水。wifeもう寝ちゃっててすまん。でもキッチン来て何か食えったら」。
もしビリー君が始めから「この親爺」を身辺に持っていたら?
ビリー君の苦しみは無かったかもしれない。
眼鏡警部は上から落ちて死ぬ。落ちることが出来るだけの場所、下(たぶんネズミの場所)でなく上の方に居た、ということかもしれない。

親爺とサリヴァン君とビリー君と、3キャラが遂に顔を揃えた劇場からの追跡で、追う方と追われる方の姿は見分けがつかないほど同じ。
そして足音を立てて歩き、お腹にナイフを刺される男性も、体格は大いに違うけれど良く似た格好をしている。
「顔を見ろ!」とビリー君に命が下る。
瞬時、画面がゆっくりになる。振り向けられるサリヴァン君の顔。
「クソッ!」見損なったらしく、ビリー君。
もし見えたなら、それはあるいはビリー君自身の顔に見えたかもしれない(見損なってビリー君には幸いだったかもしれない)。
その後、サリヴァン君が署で見るテープに見える交差点の姿は、サリヴァン君なのかビリー君なのか、実際区別が付かない。
サリヴァン君は、決して「例外」ではないのだろう。
誰でも彼になり得る。
そちらが「楽」だから。

『第三の男』ラストの皮肉は、「上手くやってた器用な悪人」(悪人の規模は小さいが、その行為は世界的な害悪となる)だけど「恋仲」だったキャラの前では、「精一杯頑張った誠実な善人」など地獄に落ちろ!とばかりの扱いを、善人が好意を寄せ続けた女性キャラから受けるところにある。
この映画の方が、厳しい。
(ハリーorホリーどっちか忘れた)『第三の男』善人物書きは、ハートに痛む切り傷は残るだろうが、のしかかり続ける重い苦しさを背負いはしないだろう。
「するべきことはした」から。
自分が「好かれなかった」ことと、自分が「するべきことをしなかった感を持つ」こととは、大いに違う。前者の結果に「苦しみ」は伴わない。
精神科医がサリヴァン君に背を向けるのには、彼女が「妊娠している」とのことも関係するだろう。
「生」の世界の方を、おそらく彼女は選んでいる。

サリヴァン君は最後、もう自分がどうなってしまったか知っている人の顔をしている。
銃を向けたキャラが、映画中最も「人間らしいhuman卑小さ」を感じさせるキャラであるというのが、強烈な印象ex.言葉使い&esp.体格的に映画中目立って一番小さい。

カメラがふっと見上げると、窓の外の金の丸屋根はかつてより一層近い所に見える。
手すりを大きなネズミratが這っていく。
ビリー君はratだった。サリヴァン君もratだった。コステロ親爺もratであった。
そして実は、親爺もネズミであることを逃れたがっている。
「金はもう要らない。女は好きだけどもういいや。ただひとつ、ネズミの居ることだけが俺にとって重大だ」。
本当は彼自身が、向こう側(生者側or非ネズミ側)に属し損なった者なのだ、と。

親爺の落書きイラストでは、丸屋根の建物に、ネズミ達が群がっている。
あの中に、多くのネズミ達は入ろうとしているのだろうか?
そこに入れば、ネズミであること(サリヴァン君が「自分はアイリッシュであることを免れ得ない」と言う)を免れ得るのだろうか?
あるいはすでにそこに入っている者達は、ネズミなのだろうか?

 (theDEPARTED/06/MartinSCORSESE/USA)

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (ちょび)
2007-02-07 19:22:01
『映画生活』さんに時々レスをつけている者です。
Googleの検索で此処を知りました。


貴女の視点は以前から興味を抱いており、時々覗いていたんです。
思わず膝を打ちたくなる瞬間を何度も経験しました。

私はブログ(ミクシィも含めて)めんどくさい事がかなり嫌いでw
トラックバックも出来ませんが、
映画のお話の出来る方を探していました。
時々はお邪魔させて頂くかも知れません、
まずはご挨拶まで…
いらっしゃいませ! (j.f.s.)
2007-02-08 23:01:07
ちょびさん、こんにちは!
お越し下さり、ありがとうございます。
『映画生活』私もちょくちょく覗いてます。ちょびさん(可愛いH.N.!)のお名前もそちらで拝見しているかと。

”ミクシィ”私もわかりませ~ん(笑)。SNS?が06年最大の流行だそうですが。ブログは全く自分のペースでの使い方が出来るので、好きなように使わせてもらってます。
考えまとめるために書いてる文章なので、読む方へのコンパクトな情報伝達の点ではまるで役に立たない(笑)ですが、よろしかったらまたお気軽に遊びに来てくださいませ。ちょびさんからのお話もぜひぜひ聞きたい~!