認知症……
治らないのならせめて進行しない病気であれば……と思ったことがある。
介護は……重たい。とても重たい。
でも大事な家族だから、100才まで生きる人が少なくない時代、認知症でも進行しない状態で大往生するなら……という思いはあった。
とはいえ
介護度3くらいの母は行動傷害がてんこ盛り。
出歩くし、妄想あるし、女王様だし
この状態で進行せずに大往生という年まで生きたらそれはそれでキツイ。
認定受けたのが70初めだったから先が長い
私がもたない……とも思った。
介護度4の後半になると
徘徊はなくなっていたし、歩けないわけではないものの自発的に動くことも減った。
妄想、作り話はあるけれど、日本語がだんだん宇宙語になっていた分、意味不明でいわば外国語で話されているようなもの。
意味がわからなければ、内容にイライラしたり腹が立ったり、落ち込んだりすることはないので適当に相づちするだけでいい。
だから、この状態で進行が止まるなら楽かな?……と感じた時もある。
でも老化が進んで身体介護が増すと、その上で(ある意味中途半端に)進行が止まった認知症だと厳しいだろうなぁと思っていた。
結局うちの場合、80才前に誤えん性肺炎になったから、状態が変化して入院となり
その時点で私は、介護ラストスパートだ……と覚悟したわけだけど。
進行し肺炎になり食べることさえ出来なくなった姿を見ているのは辛かった。
世の中の80才はみんなあんなに元気なのに……と、上ばかり見てしまった。
そんな状態になってしまうと
作り話にイライラしてもコミュニケーションが取れた頃、
目が離せない大変さがあっても立って座って歩けた頃、
記憶がグタグタであろうと、食事がぐちゃぐちゃで汚なかろうが、
着替えに時間が掛かろうが
喜怒哀楽が出せて、美味しいものが食べられて、意味不明でもコトバがあってたまには意志疎通が出来た時が懐かしいと思った。
肺炎になる前は
歩いてた。
笑ってた。
ありがとうとか、美味しいとか、痛いだの、熱いだの言えていたのにね。
自分がもっと上手く食事介助出来ていたら
そう思った。
療養病棟にいた去年の初夏
タンが出てゲホゲホした母に、答えなど返らないのは承知で
「苦しい?」と声をかけたら
「うん」と大きくうなづきながら答えた。
意志疎通が出来たと明確に感じたのはこれが最後。
そんなふうに進行して終わっていくなんて切なすぎる
認知症はせつない
今はそんなふうに思う。
行動傷害に向き合っていた頃には考えられないような思いデス。
当時はとにかく自分が死にそうな思いだったから。
介護はいずれ終わるのです。
治らないのならせめて進行しない病気であれば……と思ったことがある。
介護は……重たい。とても重たい。
でも大事な家族だから、100才まで生きる人が少なくない時代、認知症でも進行しない状態で大往生するなら……という思いはあった。
とはいえ
介護度3くらいの母は行動傷害がてんこ盛り。
出歩くし、妄想あるし、女王様だし
この状態で進行せずに大往生という年まで生きたらそれはそれでキツイ。
認定受けたのが70初めだったから先が長い
私がもたない……とも思った。
介護度4の後半になると
徘徊はなくなっていたし、歩けないわけではないものの自発的に動くことも減った。
妄想、作り話はあるけれど、日本語がだんだん宇宙語になっていた分、意味不明でいわば外国語で話されているようなもの。
意味がわからなければ、内容にイライラしたり腹が立ったり、落ち込んだりすることはないので適当に相づちするだけでいい。
だから、この状態で進行が止まるなら楽かな?……と感じた時もある。
でも老化が進んで身体介護が増すと、その上で(ある意味中途半端に)進行が止まった認知症だと厳しいだろうなぁと思っていた。
結局うちの場合、80才前に誤えん性肺炎になったから、状態が変化して入院となり
その時点で私は、介護ラストスパートだ……と覚悟したわけだけど。
進行し肺炎になり食べることさえ出来なくなった姿を見ているのは辛かった。
世の中の80才はみんなあんなに元気なのに……と、上ばかり見てしまった。
そんな状態になってしまうと
作り話にイライラしてもコミュニケーションが取れた頃、
目が離せない大変さがあっても立って座って歩けた頃、
記憶がグタグタであろうと、食事がぐちゃぐちゃで汚なかろうが、
着替えに時間が掛かろうが
喜怒哀楽が出せて、美味しいものが食べられて、意味不明でもコトバがあってたまには意志疎通が出来た時が懐かしいと思った。
肺炎になる前は
歩いてた。
笑ってた。
ありがとうとか、美味しいとか、痛いだの、熱いだの言えていたのにね。
自分がもっと上手く食事介助出来ていたら
そう思った。
療養病棟にいた去年の初夏
タンが出てゲホゲホした母に、答えなど返らないのは承知で
「苦しい?」と声をかけたら
「うん」と大きくうなづきながら答えた。
意志疎通が出来たと明確に感じたのはこれが最後。
そんなふうに進行して終わっていくなんて切なすぎる
認知症はせつない
今はそんなふうに思う。
行動傷害に向き合っていた頃には考えられないような思いデス。
当時はとにかく自分が死にそうな思いだったから。
介護はいずれ終わるのです。
我が家の母は介護度3・・・の後半という
ところだと思います。
いっそもう少し進んでくれた方がラクなんじゃないか、
なんて考えたことも何度もありました。
この記事を読ませていただいて、
これから先の自分の姿があるようで
とても心に深く残りました。
結構、周りの人に当たりちらしてたし、顔もいつも恐い顔してたと思います。
しんどくて、施設に入れようと探してたときも要介護3のときでした。
結局、周りに助けられ、施設に入れなくてすみました。
要介護5になった今すごい楽(前がひどすぎたからかなぁ?)です。
でも、母は、すごいかわいそう。生きてて楽しいのかなぁと思うときもあります。
つい最近も低温火傷させちゃいました・・。
通院ですんでますが、ちょっとひどい状態です。
さすがに私落ち込んでます。かわいそうなことしてしまいました・・。
私、でも、いつも思ってます。
完璧なんてないもの。100人居たら100通りの介護方法があるから、これが絶対というのはないですから。
私は、手抜きだから、後悔だらけで、終わってしまうんだろうけど、ビゴさんは自分を責めないでくださいね。
長々、わけのわからんことすいません。
目が離せないのもこの時期で、確かに、少し進んだ母は
多少ほっておいても大人しくしてるから大丈夫……という感じになりましたから。
でもそこから早かったです。
身体介護というか身体介助の割合がグッと増えて、介護にかかる時間も長くなり3の頃とは別なキツさ。
わたしが介護を始めた頃、寝たきり介護をしていた方が、介護度3くらいの頃が懐かしいと言っていたんです。
その気持ち、なんとなく想像は出来たけど、まだまだ先の話でした。
でも、その言葉はずっ~~と心にありました。
私、大きなくくりでは、やることやったし……とは思うんですが、細かい部分では、色々考えちゃいます。
手抜きはいっぱいしたし、でも、在宅は手抜きしながらでないと続かないとも思うんですよね。
とはいえ、見なかったことにしたり、もうひと手間かけてあげればいいのに省いたりして、母側に立ったら、どうなのよ?みたいなことが多々あります。
だいたい、介護に限らず、つめが甘い。丁寧にやってそうに見えて仕上がってみるとあんまり丁寧じゃないのですよね、私って。
子供の頃、工作とかやっててよくそう思ったけど、介護して、またそんなこと認識しましたよ。
介護は向き不向きあります、きっと。
わたしも母が辛そうで可愛そうで、意志疎通もできず、食べられない母に
もういいよね、頑張ったよね
……とか、何度も声かけてました。