藤 原 敏 之
終戦後間もないころ、私は山口県で地方講師をしておりましたが、山口県は炭田地帯であり、当時炭鉱ブームで、あちらこちらと大小沢山の炭鉱で賑わっておりました。
マッカーサーの占領政策として戦時中、圧えつけられていた革新的な思想の人たち、共産党員を刑務所から解放しましたのでその人たちが、炭鉱で無理な労働を強いられた人たちに、共産党こそ労働者を解放して、資本家の持っている富を平等に分配して楽に暮らせるようにしてやる救いの神様ででもあるかのように宣伝しましたので、労働者の人達がわっと飛びついてゆかれ、あっちでもこっちでも赤旗の波が押し寄せたのであります。
反面、勝つと信じていた戦争に負け、何を信じ何を頼りに生きてゆけばよいかわからなくなった大衆は、共産党にもついてゆけず、他に信じるものも生きる方針も失った人達が、生長の家という新しい教えを求めて、ドッと集まって来られたのであります。生長の家ブームとでも申しましょうか、生長の家の講演会といえば、どこも満員の盛況でありました。
共産党の人たちにはそれが面白くなく、また、邪魔になったらしいのであります。至るところに何百軒という炭鉱の住宅があり、そこの会館で講演会を開きましたが、そこに必ず何人か共産党の方々が来ておられるのであります。何の目的で来られるかといいますと、妨害することだったのであります。
前に立って講演しておりますと、一目で“ああ、この人達は共産党の人達だな”とすぐ判るのであります。一番後の方で、足を前に出し、後に両手をついて、身体をそらして、半分寝たような格好で聴いておられます。これは明らかに、求めて来てはおられないことがすぐにわかるのであります。
私はそれとわかりましても、われ関せずでしゃべっておりますと、途中で必ず「質問、質問」といって手を上げられます。これは、議論をいどんで話の腰を折り、講演が出来ないようにしてやろうという魂胆であります。
それに乗ぜられたらおしまいであります。私は「ちょっと待って下さい。今お話の最中です。この多勢の方々は生長の家の話を聴こうと思って来ておられるのです。あなたと私の論議を聴きに来ておられるのではありません。逃げも隠れもいたしません。後でゆっくり納得のゆくまでお相手をいたしますから、最後まで残っていて下さい」と制しますと、喧嘩にならぬと思って途中で帰っていく人もあります。
後まで残っている人は、私が「さあ質問して下さい。何がききたいのですか?」と水を向けますと待ってましたとばかり、「生長の家は共産党をどう思いますか」ときかれますから「どうって、素晴らしいと思いますよ。生長の家も同じですよ」と言いますと、「そんなことはないでしょう」と言われます。
「いや同じですよ。共産党の皆さまは貧乏で苦しんでいる人達を、みんな幸福にしてあげようという目的で運動しておられるでしょう。生長の家もそれと同じ目的ですよ。生長の家も同じように、苦しんでいる人達を幸福にしてあげようという目的で運動しているのです。共産党の人も、共産主義の社会にして金持ちや貧乏人という差別をなくし、平等にするための革命をしようとしておられるのでしょう。生長の家も、本当の共産主義の世界にする目的でやっているのですよ」と話しますと、拍子ぬけしたような顔をしておられます。
「目的は同じでありますが、ちょっとだけちがうところがありますよ。それは神を認めるか認めないかの違いであります。
共産主義者は神を認めず物質の存在だけを認め、一切の富を国有にして、私有財産を一切認めず共有にして、みんなを平等にしようというのでしょう。
個人の所有を認めず共有にするという点は全く生長の家と同じであります。生長の家は国有を今一歩高いところの神さまにおくるのであります。一切のもの、ことごとく神のものとして、神さまにお返しして、神さまからのお預かりものとして、大切にし、自分のものといっては何一つ認めない教えであります。この肉体までも神さまからのお預かりものとして拝んで使わせていただく教えであります。
共産党でいう共産主義では神を認めませんから物の方が基準になり、どうしても個人というものがあり、個人があるかぎり、どこまでいっても相対であり対立であります。真の平等ということはありません。
生長の家は神だけの存在を認めてそれ以外のものはすべて否定してしまいますから、私有も国有もない、神一元論でありますから、真の平等となるのです。
要は神を認めない相対的な共産主義か、神を認めたところの本ものの共産主義であるかの問題ですよ。神を認める認めないは各人の自由意志でありますから、どちらが善い悪いとは言えません。ただ、いわゆる共産主義では本当の平等や平和は絶対に来ないことだけははっきり言えますよ」
と申しますと、何も解らずに新しい風潮に同調して騒いでいるだけの連中でありますから、どちらも同じだ、神を認めるか認めないかだけの違いだと聴かされて何も言うことはなく、だまって帰っていくというような場面に何度も出会いました。
このように生長の家こそ真の共有であり、共産であります。神を認めない共産主義などどこまで行っても悪平等であり、不足の原理であり、本当の満足も喜びも生まれる道理がないのであります。
唯物論は相対論であり、相対論には比較がつきものであり、比較のあるかぎり、本当の満足は生まれません。満足のないところに幸福はありません。
相対世界には革命はつきものであります。どんなに制度を変えてみても常に権力者があり、権力があるかぎり闘争のくり返しであります。闘争から天国は断じて生まれません。真の平和からのみ天国も極楽も生まれるのであります。
このように考えるとき、生長の家の唯神実相哲学による以外に人類の平和も解放もないことがわかるのであります。
すべてが神であり、神以外の物や人間があるかぎり絶対ではなく相対でありますから、永遠性はなく必ず変化があります。変化するものは実在ではなく本当のものではありませんから、不安が去らないのであります。
今の楽しみはやがて苦しみにつながり、今の喜びは必ず悲しみにつながるのであります。そのようなものを追い求めていたのでは本当の救いとはなりません。
くり返しますが、生長の家は神以外の何ものをことごとく否定し切る教えであります。全くの一元論であります。問題解決の鍵は神一元に徹することであり、“神のみ実在”を信ずることであります。
神を肯定し、神の実在を信ずるにはどうすればよろしいかと申しますと、方法はただ一つ、神以外のものをことごとく否定することであります。その第一が自己を否定することから出発するのであります。
谷口雅春先生は自己否定の極致が神であるとお教え下さっています。すなわち、自分が無いのが神であり、神でありながら神が現れていないのは、神であることに気づかないからであります。