淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

究極の悲観主義者、中島義道の「狂人三歩手前」は、苦しい時こそ心に沁みてくる本だ。

2006年09月19日 | Weblog
 空虚感や漠然とした未来への不安が、心を掻き毟ることがある。
 最近も、ちょっと個人的に色々あって、猛烈な空しさに襲われちょっときつかった。でも、やはりいつもの事ではあるけれど、もがき苦しみ抗いながら、時間とともにそれはまるで潮が引くように静かに去ってゆく。
 もちろん、何も解決したわけでも、悟ったわけでもないのだけれど・・・。

 中島義道は哲学者である。
 大学の教授をしながら「無名塾」という哲学サークルを興し、哲学書やエッセーも多い。
 今回の「狂人三歩手前」は、雑誌「新潮45」に連載されたエッセーを収めていて、わりと気楽に読める部類に入るのではないか。

 彼は言う。
 「生きてゆく理由はない。いつか人間はみんな死んでゆくんだから。いずれ地球そのものだって太陽に飲み込まれ、地上には人類誰一人いなくなる。どうせ死ぬ。だから私は『ぐれる』ことにしたのである」と。

 この人を貫いているのは、虚無感でありニヒリズムであり厭世思考であり、究極の悲観主義である。
 僕は、この「狂人三歩手前」を数時間で読み終えたのだけれど、何故かいいようのない幸福感に包まれた。
 ちょっと誤解されても困るけれど(本当は別に困らないが)、ここまで人生を降りるとすれば、もうある意味「解き放たれる」のではとないか思ったのだ。その「軽さ」の中にも一筋縄では解きほぐせない感情が流れているとしても。

 生きる意味などない。どうせみんないつかは死ぬ。つまらない、つまらない。何をしてもつまらない。
 この本の中で一体これらの言葉が何度踊ったことだろう。でも彼は言う。でも死ぬことも怖い。だから私は、ちょっとだけ「ぐれる」のだと。

 息苦しくて切なくて、生きることが面倒で、他人との関係性で悩んでいる人間は、『表現者』になるべきだと中島義道は説く。
 そうかもしれない。そういう部分で自己を表現するしか『生き苦しい』人たちの救済ってないのかも。でもそれは、世に出るとか出ないとは関係ないけれど。

 本を読み終え、窓の外を眺めると。秋の淋しげな夕焼けが映っている。
 この苦しさから逃れられたとしても、いずれまた別の切なさが襲って来るに違いない。でも人は、それらを潜り抜けることで、少しだけ変化する。

 それだけは間違いない。


 
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