トーキョーらいふTIME

Happiness is a journey, not a destination.―幸せは目的ではない、旅である。

どう生きたくて何が欲しいか

2006-05-26 00:33:15 | 東京生活

今までずーっとわからなかったことのひとつ。「どう生きたくて何がほしいか」が、わかった気がする。
最近、休みの前日に出掛けることが多くて朝に帰ってくる。夏の入り口に近づくような匂いの朝方は大好きで、重く溶けるような脳で、ここ最近この空気を感じていなかったなぁと思った。朝方は静かで、電車内も空いているからいろいろ考えられるし(重い脳でですが)なにより素になれる。そんな中で浮かんできた「どう生きたくて何が欲しいか」。

生涯、学生みたいに何かを追いかける生き方。
何があっても私を信じてくれる友人・パートナー・ボスが欲しい。


いたった結論はコレです。
ずっと何かを追いかけていたいのは保守的な人生を送りたくないからで、以前書いた「
上がる」のイメージ。信じてくれる人が欲しいのは、それがあって動けるから。私はいたって単純なので、信じる誰かに期待されるとパーフェクトを狙いたくなってしまう。親を喜ばせようとテストでいい点を取ったり、プレゼントを選ぶときは、その人に絶対似合って大喜びしてくれるだろうものを探したり、そういうところは妥協がない。以前、ひとり暮らしのキモチと考察でも書いたように、信じる誰かとはここで言うひとりだけどひとりじゃないと感じられる人を指す。(逆に言えば、ふたりで居ても空気みたいに思える人、安心する人)そんな彼らに喜ばれたり必要と感じてもらうことで、私は、繋がっている=自分の存在意義=生きている実感を得られている。それでまた何かを追いかけることができる。
ただの競争とか、逆に追いかけられる仕事をするのは性に合わないと心底感じた。自分が結果を出した分評価される仕事につけばいいし、それで振るわなければもっと上を狙うための意義と目標ができる。
で、何があっても信じることができるのは、やはり“愛”なんだな。ひとりひとりと1対1の“愛”。23になって少し社会が見えて、今まったく違う人生に足を踏み込もうとしてる。私を信じない人たちは悪いことばかり言ってそれが私のためとか言うけれど、私は楽しみで仕方がない。新しい自分が待ってるはずなので。
「どう生きたくて何が欲しいか」。まとまったところで人生の方向が見えてきた。脳は溶けていたけど、夏の前の朝方に感謝。


やめれたときにやめな

2006-05-17 00:13:21 | 

いつか友人に言われて、それ以来恋に破れたときいつも教訓にしてきたことば。
“無理にやめようと思わないで、本当にやめられたときに自分の中で終わりにすればいい”という素敵なことばだ。恋や別れた誰かに対する想いは、悲しい記憶を懐かしいと思えるようになったときに大体終結し次に進めるけれど……私にはひとつ、ぬぐいきれない過去があった。もう多分やめれているハズなのだけど、ほんのたまに、彼のことや彼を本当に好きだったころの自分を思い出して、これは本当に終わったことなのだろうか?と自問するときがあった。今はもうその彼と連絡をとっていないから、キモチや結論はあのときから止まったまま。今を生きる私は、本当にやめられたかどうか確かめるすべを失っていた。
多分もう終わっているんだけど。今はそれ以上に大切にしようと想う人もいるし。確かめなくても生きていける…のだがノドに微かにひっかかる。
あるとき、知らない人番号から電話がかかってきた。知らない番号。出ると、「オレ、オレ」とぶしつけな男。声を聞いてもわからなかった。名前を言われて初めてそれが誰だかわかった。私が本当にやめられたか自信がなかった人。その人は、「久しぶり」とか「元気だったか?」ではなく、いきなり「今なにしてんの?」。1年半ぶりの会話。
あっけにとられた。自分が成長したのか彼が退化したのかはわからない。生理的に思ったこたえは「いまさら」だった。彼しかいないかも知れないと思った自分、本当に好きで好きで好きだから別れ以上の選択をしたっていうのに……もうとっくにやめれてたんだ。思い出していたのは過去の私だったって、そのときわかった。
「もうかけてこないで」そう言い放って電話をきった。その後、ストーカーのように彼は何度も着信を残した。ケータイもPCのメルアドも届かなかったと言っていた。この何年かの思い、消去どころか着拒!!
やめれてたんだ。というわけで、1年半かかってやっとやめました。その日は、丸ビルで某友人と乾杯。話してスッキリしたし過去は引きずるものでないと学習、そのときは気持ち悪かったけど今は逆にお礼を言いたいくらい。
「やめれたときにやめな?」「はい、たった今やめました。」


溺れる

2006-05-09 01:23:14 | 

学生のときの友人の話。彼女は少し前から、当時同じクラスに居た男の子と付き合いだした。その男の子は、見た目はいまどきだけど実際何を考えているかわからない不思議系な子。彼女はと言うと、面白くて見た目も性格も純粋。自分よりみんなが楽しければいいとかこっちが嫌悪しそうなくらいお人良しな子だ。そんなふたりがなぜに付き合うようになったかというのは誰も知らないようだった。私は離れて暮らしているから久しぶりに彼女とメールをしたときに知らされたのだけれど……彼は彼女に言ったそうだ。付き合っていることを知られたくないらしく「誰にも言わないでおこう」と。
今でもいるのか、こういうひとが。久しぶりに適当な恋愛話を聞いた。なんとなく聞き分けのいい女になっているのは本人もわかっているらしいが、それでも「一緒に居ると幸せも感じるし休まる感じもある。だから、それだけじゃ決められない」と言う。わかるだけにイタイ言葉だった。男の考えそうなことも。
恋するひとには何も見えなくなるんだろうか。メールではもっともらしいことを書いても、実際は彼の笑顔とか温かいからだに簡単にかき消されてしまう。好きなひとの存在やかたちは思いという実態のないものよりはるかに現実的で説得力があって、目の前にすれば疑ったことや別れる決意すら忘れてしまいたくなるもの。とはいってもそれが理屈でわかれば苦労はしない。とりあえず「流されないようにしてね」と返した私に彼女はこう言った。
「今は流されはしてないけど溺れてるかもしれない」。
誰もが一度は嵌まるどつぼ。苦しくてわからんくて死にそうになること=溺れる=Addicted to you ってやつ。「流される」という言葉を用いた自分を相当恨んだ。それよりもっとダークで濃い感覚を不覚にも忘れていた。彼女は彼と居る中に“自分”を見つけてしまっている。女としてあるべき姿になっている。よくないとわかっていても抜け出せないでしょ?と問いた。返ってきた答えは書くまでもない。

たったひとりだけの原則に反する恋愛はやはり意味がない。キモチが入ってこない体は不完全燃焼を起こしてもっと欲しくなるだけ。そう言いたかったけど、それは私が実際感じて得たものだ。「とりあえず溺れないようにね」「思いっきり溺れてみれば」……こういうときはどっちを言えばよいのだろう。ムカツく男を尻目にしながらも、彼女がどんなのでもちゃんとしたこたえを出せますように、ただ願うだけ。。



Strange River

2006-05-07 03:17:27 | 詩/短編
 少しだけ夏に近づいて、打ち上げ花火の轟く音を思い出す。
 汗ばむ季節に重いキモチ。サイライズ・サンセット。学生のころ、友人と行った真夜中のドライブ。今思えば、彼は私を誘っていたのかも。当時は何も気付かなかった。友達だと、退屈な真夜中に連れ出してくれるひょうきんな相棒なのだと思っていたけど……当時の彼と同じ年齢になった今思う。彼は私のことが好きだったのだろう。
 夏を追いかけて、理想を追いかけて、はせる未来に追いかけられる。「この道をゆく」と決めるのはたやすいことだった。大学へ進むよりずっと合理的で困らなかったから、必要な勉強をし、学ばせてくれる師を見つけ、安くてかわいい服を買い、好きな美容師さんに髪を切ってもらった。
 今の生活はいつか変わるとわかっていながらどこかで足首までの河の水に浸っていた自分。夏の温い水は下へ下へと流れ、その先は見えない。しかし見えないことは滑稽で当たり前のことで、多少の事毎に狼狽しながらも進んでいく感覚は楽しくて仕方がなかった・・・河の水は澄み渡る。
 サカナは、訪れては消えていく。また戻ってくるのもいた。苔を生やし、私を豊かに福与かにするが・・・ぬかるんで足先も見えなくなったとき、泣く。その都度涙で河の水は澄み渡ってゆく・・・その繰り返し。
 季節は2周経て、生温い夏の河、気付けばずっと歩き続けていた。辺りの景色は変わりサカナはいなく、下へ下へ・・・河口が見えてきていた。
 河を下り、「反対側」の陸へあがる。打ち上げ花火の音が轟く。汗ばむ手、青い。足元には乾いたソメイヨシノの華ビラ。長い河の旅は終わった。あのときの私は、黒いプリントTシャツにブラウンのデニムスカート、白いVANSのスニーカーをはいていた。確かに夏だった。

 それから季節、1周して春。九段下の駅、階段を昇りきったら彼に会った。真夏に真夜中のドライブに連れて行ってくれた彼だ。今もずっと仙台にいるのに、東京滞在日は少ないというのに、私も九段下は初めて訪れた駅だというのに、会った。
 ソメイヨシノが6分咲。当時住んでいたアパートの前に止まった白のアルファードを思い出した。少し話したの、20秒ほど。河を越え走る音と、夏の香りがした。

「英語漬け」をはじめる

2006-05-06 00:32:55 | 英語
留学するにはやはり必要最低限の基礎知識が必要、ということで……。
任天堂DSがバカ売れしているようですけど、そのソフトの「英語漬け」にPCソフトもあることを教えてもらい、早速買っちゃいました♪
最近、東京はじめさんはピアノ、凛子さんはサーフィン、ASAさんはギターとみなさん趣味をお持ちなので、私も忘れかけていた英語熱を取り戻し地道に続けて取得していきたいものです!!
まず、中1の単語からはじめています。英語を離れて4年もたつと、スペルが「あれっ違う」っていうのがけっこう多いのですね。science=科学とか、trouble=トラブルとか、以前覚えたのに書けないというのは、実にナサケナイ話です。
何回も打ち直し練習しました。今、Level1の1周目の単語が終わったところ。まだまだ先は長いけどコツコツやらないとです。
それから、なんと6月25日(日)のTOEICを受けることにしました!これから英語を勉強するには自分の位置を知っておいたほうがこれからの目標を立てやすくなります。まずは500点目指して!やっています。
なんかドキドキするなぁ。英語のこういった試験を受けるのは高2のとき以来です。それは英検だったから受験者はほぼ同じ学校の人たちだったけど……TOEICだといろんな人がいるわけだから、緊張。でもいい刺激になるよね、きっと。
*ちなみに、今日で23歳になりました!これからの人生をよりよくするために、ここからがんばっていかねば☆と誓ってみたり……。

渋谷を探検

2006-05-05 04:12:12 | 東京生活
先日、会社の友人と「カフェに行ってケーキを食べよう」と渋谷に繰り出した。
自由が丘がスイーツで有名ですが、それでは面白くない。一応ホットペッパーやネットで調べつつも、渋谷の路地を目指した。
渋谷は、センター街を少し抜けただけで民家などが普通にある街。いままで知らなかったけど、古い建物と新しくきれいなショップが不自然にも調和して並んでいる。その友人、探検するのが大好きだそう。最近は、クーポンについている地図も不鮮明で親切じゃないものが多いので、私たちは「歩いていれば何かがあるさ」と渋谷の街を歩き回りました。
宇田川町の辺り。坂が多い・道も狭く古い。辛うじて車1台進めるくらい。錆びて曲がったガードレール・壁の落書き・独特の匂い・こすけて読めない表札。そらはいつも灰白色です。
渋谷ってよく行くけど、よく考えたことのなかった街。何か、センター街にいるギャル達とスクランブル交差点・夜のイメージに踊らされているけれど、昼間は新宿に比べると案外とおとなしいものです。言いたいことがあるけれど黙っているようなたたずまいをしてる。表参道・原宿・青山に隣接するので、ちょっとすねちゃてる感じを受けるのかな。
歩いていくと、面白いものを見つけた。「渋谷 犬と猫の病院」。昔からあるんだろう。サロンとホテルも併設されているが、規模は想像できる。渋谷に唯一の獣医さんだったのかな?センター街とは180度違う光景に少し心が弾んだ。
同じ道沿いに、「てっぺん」という飲み屋さんもあった。自由が丘にも店舗を持ち、2度行ったことがある。渋谷でもこんなところに店を構えるとは、ある意味粋と思った。
しかし、渋谷は狭い。ぐるっと歩くとすぐにセンター街の見慣れた一角にでてしまった。それを3度ほど繰り返して探検は終わった。
その後、私がいつも行くスペイン坂のカフェでケーキを食らう。そこのイタリア塩のシュークリームが、しょっぱ甘くてとてもおいしいのです。(Bio Cafe)
東京の街はひとつひとつが狭いから、歩いて移動ができる。今度は渋谷×スニーカーでどこにも載っていないカフェなど見つけてみたいものです!!

ひとり暮らしのキモチと考察

2006-05-01 02:51:27 | 東京生活
ひとりで生活していると、誰かにかまって欲しい時とひとりきりで居たい時がハッキリ分かれる。波のように訪れるときもあれば、突然来るときもある。
ただなんとなく繋がっていたいなら誰かにメールすればいいし、話をしたいなら電話という方法もある。
けれどどっちでもないときが月に1,2度ほど訪れる。そのときは非常にやっかいで、前ほど頻度は少なくなったもののとにかく落ちる。リアルな存在感が欲しいときだ。
例えば、実家の自室に居るとき。確かにそのとき私はひとりきりの空間にいるけれど、1Fから食器を洗う音や洗濯機のまわる音、テレビの音声が聞こえてくる。ひとりだけどひとりきりではない空間を共有しているというわけ。月に1、2度は、そういう感覚で満たされたくなる。
隣で誰かの寝息を聞いているとき、私はけっこう幸せな気分になれる。女友達だったら、話をしていてそれが途切れて、無言の「おやすみ」から寝付くまでのあいだ。恋人だったら、落ち着いた後、照明を消してひっそりと眠りに入るとき。または夜中に目が覚めてその人の寝顔を眺めるとき。ひとりだけどひとりではない時間は、自分の存在意義を確認できる時間なのだと思う。
笑っちゃうけど実のハナシ、いつもひとりでいると、本当に独りなのではないかと不安になるときがたまにある。だから、それを確認できると安心して幸せに繋がるのだろう。
ひとり暮らしは、自由で楽チンだけどもシビアで追われる生活でもある。何か目的とか、自分がいかに楽に暮らすかの考えがないとね。
暮らしってバランスなのだなぁと、最近になって学びつつある。時間の使い方からお金の使い道・節約術、仕事以外での人と接する時間、自分を考えることも必要。
かと言ってそれらは私のみで出来ていることではない。誰かと繋がっているからこそひとりで暮らせる。パートナーを見つけるまでの限られた時間の中でできる貴重な経験であることは間違いないし、見つけたら今度は絶対的な存在感の中で暮らす生活が待っている。
ひとり暮らし5年目、まだまだ人生修行中です。