Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

少しずつ秋の気配

2007年09月10日 | Weblog

まだまだ残暑が厳しいけれど、
夜は少しずつ秋の気配が感じられるようになった。

私にとって45回目の秋である。

人生60年だと、60回の秋を、
人生70年だと、70回の秋を経験できる。

私はあと何回の秋を経験することができるのだろう?

一回一回の秋を心ゆくまで満喫しておきたい。
私は秋が大好きだから・・・。


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mature

2007年09月08日 | Weblog

マチュア【mature】という言葉がある。
人間が成熟することを言う時に、
あるいはまた、
ワインが熟成することを言う時に使われる言葉である。

ルビー色の葡萄の果汁が樽の中でじっくりと熟成され
多くの「時」を経て、素晴らしいワインができあがる。

葡萄の出来不出来も大切だし、
天候や湿度も大切だし、
樽の木の香も大切である。
もちろん、作り手の日々たゆまぬ努力も大切である。

しかし、何と言っても「時」が大切。
「mature」するための時間が、
ワインにも人にも必要なのである。

成熟の時を待てない教育は底が浅い。
私はその「時」を待つことのできる教師になりたい。

ワインが天与の条件と人の努力とで熟成されるように、
人間もまた、人の努力と天与の条件とで成熟していく。

人間にとっての天与の条件とは「出会い」であろう。

素晴らしい人と出会うことも、
歓喜の一瞬を得られる事象と出会うことも、
自分を成熟させてくれる。
また、幾多の試練とて
自らを鍛えてくれる素晴らしい出会いの一つである。

そうした出会いの中で、
人間もまたじっくりと成熟していく。

豊饒なワインは人生を豊かにしてくれる。
ワインについた樽木の香が、
そのワインの個性の一面となるように、

人間も生まれ育った家や、
少年少女の時代を過ごした学び舎の香りが、
その人の個性を作っていくのだろう。

私は、「mature」という言葉を忘れない教師でありたい。
そして、「mature」のための
「時」の重みを忘れない教師でありたい。

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詩人の命

2007年09月06日 | Weblog

中原中也や金子みすゞ、繊細なる感性をもった詩人たちは、
夭折することを条件に天賦の才を与えられたかのようである。

詩人たちの傷つきやすい鋭敏な感性は、
人の見えないものを捉え、感じないものを感じとる。

そして、私には決して出来ない紡ぎ方で言葉を紡ぎ、
私に見えない世界を見せてくれたり、
私が感じ取ることの出来なかった世界を感じさせてくれたりもする。

しかし、それは同時に詩人の人生の時間を
急激に消耗させる。

そして、自分の命が尽きてから、
彼らが命を吹き込んだ言葉の世界は、
彼らのかわりにその命を生き続ける。

人の一生にはどのような意味があるのだろうか。
人生における成功とは何であろうか。

詩人たちは成功哲学やプラス思考など知る術もなく、
悲しみに満ちた人生を生き、
苦悩の中で若くして死んでいった。

しかし、その人生を、
現世の苦しみに敗れ去った弱者と非難することなど、
私にはできない。

人生には、それぞれの光と陰がある。
勝者にも敗者にも、成功者にも失敗者にも、
いずれは死が訪れ、
あとはゆったりと悠久の時が流れていくだけである。
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時間の謎

2007年09月06日 | Weblog

先日、新宿で飲んだ。
会話も料理も、そしてお酒も最高に美味かった。

ふと気がつけば、六時間近くが過ぎていた。(笑)

心通う人と酌み交わす酒は、本当に美味い。
また、酒と料理が美味いと、時間はあっという間に過ぎていく。
本当に時間とは不思議なものである。

最近は、忙しくてご無沙汰をしているが、
わが家の囲炉裏に火を入れ、
思い思いに魚や肉や野菜を炙って飲む酒も最高に美味い。

締めには、自在鉤に鉄鍋を吊して作る牡蠣鍋と、
あつあつの飯の上にうにをのせ、
醤油をたらりと落として、わさびをそえて食う
「うに飯」が乙なものである。

食欲の秋を満喫したい!!
私はそう半分願っている。
あと半分は痩せたいという願い(戯言?)である。



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正しさということ

2007年09月04日 | Weblog

正しさなどというものは相対的なものに過ぎないと思う。
歴史上のできごとも、何が正しく、何が間違いか。
何が善で、何が悪かなどと軽々には言えないものである。
それぞれの立場があり、それぞれの正義がある。

しかしながら、現代の思考は二分法的判断を強要する。
白か黒かを求められ、なかなか灰色が認められない。
その結果、人々は己の正義を振りかざして人を裁きたがるようになり、
また、声高に人の非をなじりたがるようになった。

果たしてこれは人間としての進歩であろうか?

人間の感情も、様々なできごとも、単純なものではなく、
実に奥深いものである。そのことがようやく歳を重ねる毎に、
少しずつ見えてきたような気がする。

東洋哲学を学んでいると改めてその奥深さに気付く。

・・・とにかく。

ここ数日のできごとと読書と思索の中で、
もっともっと深く学ぼうと改めて決意した。

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今年もあと四ヶ月

2007年09月02日 | Weblog

V&Eの新年会を酒蔵で開いたのがつい昨日のようですが、
もう、今年もあと四ヶ月になってしまいました。

ほんとうに一年が短くなったなぁと思います。
年のせいですかね。

だからこそ、
一年一年を大切にしたいと思います。
一月一月を大切にしたいと思います。
一日一日を大切にしたいと思います。
そして、その中で出会った全ての人を大切にしたいと思います。

吉田松陰先生は人間の命にはそれぞれの四季があると考えました。
長い人生にも、短い人生にも、それぞれの四季があると。

そして、三十年の人生を終える直前に、
吉田松陰先生は留魂録のなかでこう語ります。

 「私は三十歳、四季はすでに備わっており、
 また花咲き実は結んでいる。
 それが実のよく熟していないもみがらなのか
 成熟した米粒なのかは、私の知るところではない。
 もし同志の中でこの私の心あるところを憐れんで、
 私の志を受け継いでくれる人があれば、
 それはまかれた種子が絶えないで、
 穀物が年から年へと実っていくのと変わりはないことになろう。
 同志の人々よ、どうかこのことをよく考えて欲しい。」

誰もが次の世代に伝えるべきものを心に宿していると思います。
自分しか生きることの出来ない自分の人生を生きて、
自分にしか語ることのできない何かを伝えていく。
そのことが教育そのものなのだと思います。

また、一月になったら、酒蔵で酒を酌み交わしましょう。

それまでに私ももっともっと学びを深めていこうと思います。
そして私なりに伝えることの出来る世界を、
少しでも広く大きなものにしていけたらと思っています。
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金子みすゞ

2007年09月01日 | Weblog

先日、萩維新塾に参加する前、長門市の仙崎に行きました。
理由は、以前から気になっていた金子みすゞ記念館に立ち寄るためです。

なぜ、金子みすゞという夭折した詩人の作品が、
小学校教育の中でも数多く取り上げられ、
かつ、これほどまでに人の心を捉えてやまないのか。
それを知りたかったのです。

行ってみて、本当に色々な発見がありました。感動しました。
特に私が感動したのは、矢崎節夫という方の存在でした。

矢崎さんは、大学一年生の時に『日本童謡集』(岩波文庫)を読んでいて、その中に、金子みすゞの詩『大漁』を見つけます。
多くの詩に混じって、たった一篇だけ、金子みすゞの詩が載っていたのです。
そのたった一篇の詩に、矢崎さんは強烈に心をひかれます。

そして、それ以来、矢崎さんは、金子みすゞという詩人を捜し求め続けたのです。
当時はほとんど無名に近い、金子みすゞという詩人の作品を探すのは、
本当に困難な作業でした。

ようやく、二年後に、『露』という詩一篇と出会います。
四年度に、やっと30篇の詩と出会います。
本当に遅々としたペースでした。

そして、みすゞ探しの旅を始めてから16年目。
ようやく矢崎さんは、みすゞの実弟、山上雅輔さんに出会うのです。

金子みすゞの良き理解者であった雅輔さんは、
金子みすゞの自筆の童謡集三冊を大切に保管していました。
そこには五百二十篇もの詩が書かれていました。

そこからです。金子みすゞという詩人の作品が世に出るのは。

もし、矢崎さんがいなければ、
私たちは金子みすゞという詩人の詩に出会うことも無かったでしょう。

そう、たった一篇の詩が、人の心を惹きつけて行動を起こさせたのです。
そして、そのたった一人の大学生の行動が、
埋もれていた詩人の作品を掘り起こし、再び魂を吹き込み、
その作品が多くの人々の心に灯をともすことになったのです。

私は今までそんな大切なことを何一つ知りませんでした。
そんなわけで、私が金子みすゞさんの作品と本当に出会ったのは、
この夏ということになります。

『大漁』

朝焼け小焼けだ
大漁だ。
大羽鰮の
大漁だ。

浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。

金子みすゞさんの詩は、見えないものを見ようとする、
繊細で優しい視点に貫かれています。
知れば知るほど私は金子みすゞの詩の世界にひきこまれていきます。

いつかまた、みなさんとゆっくり旅をしながら、
金子みすゞの世界に触れることができたらと思っています。


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