重低音のBlue Canary

♪ 思いつくままを、つたない文と photo で …

「気配」が消えて…

2006-04-15 | つれずれ
名古屋地方は一日中、小雨が止みかけては降り続く土曜日でした。



現在の建売住宅に住んで30年余になります。
メンテナンスをちゃんとしてこなかった無精がたたり、所々に痛みが来ているのと、老後の使い勝手を考えて、1階をバリアフリーに改築しようかと考えています。

現在の1階は襖を開けると2間が続く畳敷き。襖の上には欄間もあります。
いまどきこんな和風の造りはほとんどありませんよね。
だから、襖を壁にし、2部屋を完全に独立させようかと――。

でも……。
以前読んだ藤原智美著「たたかうマイホーム」という本の中で、藤原さんが書いていらしたことが、心に残っているんですよね。

「かつての日本家屋は〈気配〉で満ちていました。襖というのは、視覚的に空間を作ることができますが、人の〈気配〉まで断ち切ることはありません」
「〈気配〉というのは、極めて静的に独特なコミュニケーションを成立させます。それは〈伝える〉というよりも〈察する〉ものなのです」
「相手の〈気配〉を察すること、それによって自分の立ち居振る舞いをコントロールする。そういう〈察し合い〉によって、〈気配〉というコミュニケーションは成立していました」

たしかにそうだったんですよね、昔の日本の住宅は。

ところが今は……。
家族が、それぞれ自分の個室を持つ時代になりました。
そのうえ、各々の部屋を仕切る壁の中には防音材をぎっしり詰め込んで、一切の生活音が部屋の外へ漏れ出さないように、あるいは入り込まないように、完璧に遮断する構造になっています。

その結果、どういうことが起きたんでしょうか。

一つ屋根の下に住みながら、家族それぞれの「気配」が、消えてしまいました。

そればかりではありません。
「気配」が消えたということは、「気配」を察する能力も、たぶん、弱まってしまったということですよね。

人の「気配」を察する能力が弱まった人間に、しかし他人を思いやる「気配り」だけが残っているとは、思えません。

さて、どうしたものか……。
2つの部屋を仕切る襖を開け閉めしながら、しばらく考えてしまいました。