孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理の実践は特別な宗教的儀式のない状態「独自独歩」で死に至るまで続けなければなりません。

2011年11月20日 | Weblog
完全真理を実践することは「普通」に生きる事になりますが、信仰宗教の信者になって暮らしていると「特別」なことがあります。
それが日々のお祈り・ミサの時間があったり、信者が教団教会に集り聖歌を歌ったりお経を唱えたり、また信者さんの慶び事を共有したり、教えにつながる体験や気付きを皆の前で発表し合ったり、共に布教活動に出かけたり慈善・奉仕活動をしたり寄付活動をしたりする「特別」なことがあります。

ところが完全真理を実践することの中に何の特別もありません。
それを言い換えると見た目に威厳や格式・風格が見当たりませんから普通の「安っぽい」実践になります。
だから、それらしく目立つ特別なことが好きな人は信仰宗教がお似合いになるわけです。
しかも教えられた神を「信じて」「祈願」していればその神と一体になれると言うのですから有難い事に思えるわけです。

ところが私が普段から暇で退屈しているのに完全真理の実践が伴うと更に変化刺激のない日々が続く事になりました。
だから時々完全真理に物足りなさ(調和不足)を感じるときがあります。
その中に宗教観や精神世界を語り合う人たちが世間に少ないことも影響しています。
それでも時たま宗教に属している人がその布教・宣伝に来て精神世界を語り合うときがありますが、私が完全真理を持ち出すと(怖いものに触れたように)慌てて逃げるように去っていきます。

だから完全真理を語り合う仲間となると更に限られています。
また仲間内だからとわざわざ(無理に)完全真理を語り合う必要性すらありませんから、当然ながら私が出る幕もありません。
だからこのブログを書くことで調和・慰めになります。

だから先に書いたような宗教的儀式があったり信者仲間と世間に出向いていくことがあるほうが自己満足の充実感を味わえます。
だから神を知る精神世界の中にも「見せ掛け」があるほうが「取っ付き易い」し脱落していく可能性も低くなります。
とは言っても既に宇宙・神・愛の真実を完全真理で知ったのですから、今更信仰宗教に親しむことには絶対にありません。

その見せ掛けに違和感や否定反発する人もいますので、その点から言えば完全真理のほうが「取っ付き易い」とも言えます。
しかし「見せ掛け」がないために世間に知られる機会も少ないし、世間に注目されることもないことから「わびしい」思いや物足りなさを感じたりするようになれば実践し意識し続ける意志が弱まり、その分だけ実践が止まったり途中で脱落していく可能性も多くなります。

ゆえに信仰宗教に染まる人がいたり、完全真理にご縁がある人がいるのも、その原因はその人の意識にあるのです。
その点から言えば完全真理にご縁があった人の意識のほうが見せ掛けよりも中身・真実を知りたがるタイプだと思います。

とはいっても見せ掛けに惹かれる人が多いのも事実ですから、何かと奇跡を成して見せる必要性もあるのです。
またその見せ掛けに惹かれる人ほど精神的に他力依存が強く、その精神力や実践力の自力・自信が弱いのが見られます。
だからか、信仰宗教に入信する人の中に精神的、また肉体的、または金銭的に困った状態になっている場合が見られます。

しかし完全真理にご縁があった人は他力依存性よりも自力向上の生活向上・健康関連・子育て学校問題や環境・人権問題やボランテア活動、また占い運勢や奇跡や異次元・怪奇現象などの見えない世界に関心を持っていた人が多いと思っています。
すなわち自力・自信がモノを言うわけです。

見えない神に衣を着せて見せ掛けその偶像を崇拝させているのが信仰宗教と言えますが、完全真理は見えない世界の真実を完全に知ることが出来ますから「信じる」必要はありません。
しかし「形」がないだけにその真実を自覚・悟りに到っていてもそれを誰にでも見せる事は出来ません。
・・・だから何か事欠いた物足りなさを感じることになっているのかもしれません。
・・・だから奇跡を成して見せる人に惹かれて人が集まることにもなっています。

また真実と言えどもそれは個人の中にあることですから、その真実に個人の思いの部分・想念が入り混じることがあります。
ところが完全真理であれば完全ですから、たとえ個の思いが入っていてもそれが完全なら何ら問題ありませんし、万が一不完全であれば誰でもがその事に気付くことが出来ますから、完全真理が変に歪められることには絶対にありません。

その真価を知れば完全真理から離れて不完全な信仰宗教に足しげく通うことにはなりません。
ところが他力依存から完全真理を知った人の中には真理の実践よりも耕栄さんやファバラが頼りの信者になっている人もいます。
しかしこのブログで真理を知った人が他力依存になることは先ずないと思われます。

しかし宗教的形式がまったくない状態で(独自独歩)死に至るまで実践意識を持ち続けなければなりません。
それが大変に思うようであれば、現在何らかの無理をしている段階にあると言っても過言ではありません。
だから、先ずは苦楽のない、無理のない、執着の無い、普通、素朴に戻ることが肝要なのです。
とは言っても<特別>がないことは魅力に欠けることですからその実践をやる気になれない人が多いかもしれません。
だから「知りたがる」「やりたがる」人の為の<気付く>実践真理なのです。

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