CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

いいたてホーム

2013-03-11 08:31:32 | 被災地のこと(記録と記憶)
2011年7月下旬。
私は、福島の地にいた。
4月下旬、三春町の体育館に避難していた子どもたちに
一人芝居を届けてから、3ヶ月が経っていた。
向日葵がきれいに咲いていた。
道端には山百合も風に揺れていた。
川俣町のおじまふるさと交流館から南相馬に向かった。

その時、私は、飯舘村を通過していた。
あの全村避難の飯舘村です。

窓を全開で車を走らせていた。
そこにはそこで暮らすと人体に影響を及ぼす『放射能』が溢れているらしかった。
私には、清々しい農村の澄んだ空気と青空だった。
今、通り過ぎた家には人がいたのに・・・飯舘村に入ると人っ子一人いなかった。
その光景が、なんとも奇妙だった。
雨戸もしめず、あたかも暮らしがそこにあるかのような家が点在している。

しばらく車を走らせていると、なんとなく人の気配がする工場らしきものがあった。
その横をひとりの人が歩いていた。

きっと、様子を見にいらしたのだろうと車を走らせた。

飯舘村を出るとほどなく人が行き交うようになる。

村の境界線がひとつの基準。
そう、どこかで線を引かなければいけないのだろう。
あの日の風・・・空気の流れ・・・
自然の風や空気の流れが、この地を育ててきた。
自然の恵に感謝しながら、暮らしてきた。
あの日の風、空気の流れ・・・
恨まなくてもいいものを恨むようになる。

あの『原発』さえなければ・・・そんなことには、ならなかったのに。

いろんなことを感じながら、考えながら、南相馬に入る。
帰路も飯舘村を通過した。
また人影を見た・・・誰か残っているのかもしれない。
そんなことを感じながら、東京に向かった。

東京に戻り、数日。
インターネットに『いいたてホーム』の事が記されていた。
あの飯舘村に!
近くを通りながら、お寄りできなかったことが悔やまれてならなかった。
8月末から9月上旬・・・行ける日はないかと考えた。
5月宮城7月福島と勤務調整を職場の協力で連休を確保している。
シフト表を見ながら考える。
可能なのは、直近で、8月下旬から9月上旬。
そう決めて『いいたてホーム』にコンタクトを取る。

9月2日訪問が決まりました。
その時のことは・・・明日書くとしよう。


今日は2年目の3.11.

被災者とその周辺の関係する人々そこからさらに離れた人々。
今日というこの日の受け止めと思いは、それぞれ違う。

技術者たちは、より安全なものを!危険回避する方法はあったのだ!と検証している。
検証はしっかりしなければならない。

しかし、肝心の問題。
放射能廃棄物の最終処分はどうするのか。

放射能を食べてくれる『ゴジラ』の誕生を信じろというでしょうか?!
放射能を大量に含んだ残土処理できる技術を
まず検討するべきなのではないですか?!
できない・・・?!
それなら、原発は危険極まりないものなのではないですか?

私は洗濯機を使います。
掃除機も使います。
冷蔵庫だって必需品です。
でも、私の洗濯機や掃除機や冷蔵庫のために
それを生産することも含めて、そのために原発は必要不可欠なのですか?
だとしたら・・・
掃除機を買い換えないで修理してもらえるシステムを確立してください。
「その型はもう古いから部品がありません。」とか
「買い換えたほうが修理するより安いですよ。」なんて言わないでください。

原発事故で失われたもの、失いかけているものをリアルに見つめてください。
わたしも・・・見つめる努力をしなくてはいけません。

フクシマだけでなく、宮城・岩手・青森・茨木・千葉・・・
それぞれの被災地で被災者は、毎日現実を突きつけられている。

忘れてはいけない・・・と思うのは、忘れかけているからかもしれない。

今日は、2年目の3.11.
奪われた命に思いを馳せ、被災した人たちを思い、
非被災者の私たちに何ができるのか、どうするのか。
何を目指すのか・・・

考える一日となることでしょう。



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