Sideway

気のおもむくまま。たこやきの日記的雑記。

何かすっかり忘れてたんだけど。

2006-04-11 | 日記。
むか~し、昔に書いた記事の草案が残ってた。
そのあと色々本を読んで、多少考えが進化したとは思うけど、スタンスは変わらない。


世界規模の問題、とても深刻で、壮大で、一個人でどうこうできるものじゃない、だけど一人一人の意識を変えていかなければ解決しない(と、言われている)問題というのは多くあります。
そういった問題というのは、語るときは悲壮に語られ、あまり多く聞くとそのあまりの重さと大きさに嫌気が差してきます。(私の場合)

そういう時どうするか書く、とか言っといて全然公開してませんでしたな。
非公開では既に書いていたので、それを引用いたします。


環境問題にしろ、戦争にしろ、貧困にしろ。
ぶっちゃけ、自分ちの茶の間に座ってて実感できるモンでもないし、何かやったところですぐどうにかなるモンでもないし。
力をあわせれば~! とか、 諦めなければ~! とか言われた所で、そのことが自分の人生の全てじゃないんですよね。
自分には自分の生活があるし、仕事があるし。楽しみもやりたい事もあるし。
その合間を縫って出来る事って言ったら微々たる物で、しかもソレをやったからって目に見えた成果がでるワケじゃないし。
なのに、テレビも教科書も新聞も、運が悪ければたまたま行った先のサイトですら、それらの巨大な問題に対して声高に何か叫んで、あたかも自分が罪人であるかのように糾弾する(ように思える)。
(完全に私個人の経験なので、他の方がどうかは分かりませんが)
まあ、一週間同じネタを耳にすれば、大概どうでも良くなります。
実際問題、「しるかー、ぼけー」とか言いたくなる事なんてしょっちゅうです。
そうなったらもう、あほ臭いので耳を傾けるのも嫌になります。自分にどうしょうもないのに、何で不愉快な思いをせんとあかんのさ、と。

下の記事を読んだ方の中で、そんな感じで最近時事問題に倦んでた方がいらしたらごめんなさい。
そんな時は、とりあえず忘れましょう。

悪いニュースというものは、聞くだけでも気分の悪いもんです。
わたしも実家も、政治家の顔が見たくなくて、ニュースつけないことなんかしょっちゅうです。それじゃイカン……と思いつつも、日々に疲れた状態で、それ以上他人のことまで背負う余裕なんてあるはずないですよ。
でも、自分の道徳観念も、世間も、大抵「耳を塞ぐな! 目を閉じるな!」と言います。
私個人は、それにいちいち付き合うのも無理がある気がしています。
(なんて乱暴な! でも事実だよ、個人的に)
だったらどうすりゃいいのかな~、とは、ずっと考えてきました。
今、にわかに自分の中では環境問題がブームですが(笑)、他にも貧困とか、戦争とか、お隣の国との歴史問題とか。取り組んでは倦み、嫌になっては遠ざかり、目を背けてる罪悪感(というほど派手なものではないにしろ、不快感)でまたちょっとヤな思いをし。

それで、最近思うのですが。
「何かしよう」なんて、いちいち思わなくてもいいんじゃないかな。
「私がやらなくちゃ」とか、重たいし。日常生活も、自分の夢もあるんだから無理だよ。
それで嫌になって、目を背けるくらいなら、とりあえず「私が……!」とは考えずに、聞き流すだけ聞き流すのも手だろうと。
アンテナだけは長く伸ばしておいて、そこから受信する情報に、全部マトモにはとりあわない。
「へえ~、そうなんだ。ソレもありかもねえ……」
くらいにしておく。
その代わり、出来るだけ情報に身をさらす。

とりあえず、私がしようと思うのはそういう方法です。
正しいかどうかは分かりません。
でも、流し込んでおけばそのうち(たとえその日は十分後には忘れていても)思い出すとか、次に同じネタに当たった時に「おお」と思うとか、なんかあるんじゃないかな、と。
何か課題が目の前に提示された時に、それから逃げ出すことも、それに取り付くこともなくただ傍にいる。
と、いうのも結構意識してやらなきゃできないことだろうと思います。
うまくかわす、というのかな。それも腕なんじゃないかと。
こういう大変な問題を前にした時には、提示されたものにすぐさま組み付かず、色々と他の意見や見かたを拾ってみるのなんてどうでしょう。


と、いうわけでこれが私なりの、下の記事に対する
「ではどうするべきか」の答えです。

聞き流してください。

下の記事だけじゃなく、いろんな物事を。
耳を塞がないで、でもまともにぶつからないで。
多分、ああいう直接は役に立ちそうにない論説というのは、世間に山ほど転がっていると思うのです。
そういうのは、とりあえず拾っておく。引き出しの中に忘れてもいいから。
それでも拾っておくことで、またいつか別の機会に何か拾った時に、「私の考え」が浮ぶかもしれないし、自分の人生の中でその問題に関わるもの、というのを見つけられるかもしれないから。
下の記事は、それだけでは愚にもつかない書き散らしです。
それを知ったからって、それだけでナニができるものでもない。
だけど、それでもその書き散らしを拾うことに、意味がないとは思わないのです。

私はそのつもりで書きました。
記事を読んだ人のうちで誰か一人くらいが、その後の人生のなかでたまたまあの記事を思い出すような経験をして、
「おお、あんな考え方もあったなあ。まあ確かに、そう言えない事もない。でも自分ならこう考えるぞ」
と自分の考えのカスタムできる部品の一つになればいいな、と。
多分、それすらも贅沢な望みでしょう。



と、いうわけで。
例によってこの文章も流し読みを奨励。
所詮は、社会に出た事もない娘っ子の独り言です。
マトモにとりあうだけ損です。
その場で相対してのディスカッションならともかく、こういう一方的に受信する「記事」で、真正面から受け取ってたのでは身が持ちません。

マトモに取り合うな、という内容をマトモに取り合うな、と言っているのだからもはやワケが分かりませんが、そこで読んでくださっている方がどうするか、まで私の責任の範疇じゃないと思ってます。それこそ人それぞれでしょう。

…………括りが素敵に適当っぽくなった。
間違っちゃいないと思うけど、不快な思いをされた方、ごめんなさい。


ちと環境系のネタで書いた、次の日くらいに書いた文章です。
その時、「じゃあどうするべきなのかを示すべきなのでは」というご意見をいただきました。
で、それに対する私の回答だったわけです。
何か、究極的には「それは自分で考えてくださいな」とか言ってる気がしなくもありませんが。
個々の意見に対して「どうするか」を考えるのではなく、様々なトピックスをかき集めて、自分の立場、視点から何か考えてよ、とか言ってるわけですし(^^;
当時書ききった後、「もしかして今そう思ってるだけかも」と思ってしばらく公開せず様子を見たのですが、丸三ヶ月経っても間違ってるとは思えないので良しとしましょう。

何をしなくたって、知っているのと知らないのとは違うと思っています。
そこで得た何かが自分の中にあるか、ないか。それでその後の自分の考えや行動が、意識せずとも変わるところはあると思うので。
それも、知る事の価値の一つだろうと思います。

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