風の谷通信

専業農家からの引退を画策する高齢者。ままならぬ世相を嘆きながらも、政治評論や文化・芸術・民俗などに関心を持っている。

5-089 おいしいブドウ

2010-08-30 18:48:31 | 季節の便り
風の谷通信 No.5-089

 暑くても寒くても季節は移り、作物は灼熱の被害を受け
ても雑草だけは遠慮会釈なく育って畑地の占拠を拡げてゆく。
まったく不思議な現象の夏だ。

 そんな中でおいしいブドウを頂いた。大粒の「藤稔」。
果汁が多くて甘い。現代風に言えば「ジューシー」かな。
我が家の近くの山の東斜面に拡がるブドウ畑は夕方早くから
日が翳って涼しい風が吹く。その斜面に居て、作業小屋の冷
蔵庫で冷やしておるブドウを頂く。おいしい。

 斜面の高みに立って足許はるかの谷筋を見るとまるで信州の
畑作地帯に登ったような錯覚に陥る。賀茂の郷の谷を越えて
更に東には青野原の更にまた遠くに北摂の山並みが見え、西
陽を浴びて明るく光る。賀茂の郷の広い谷筋はまだ陽が明る
く、稲田を巡る道路にはクルマの姿がひっきりなしだ。背景
の森の中はクマゼミとミンミンゼミとツクツクホウシの大合
唱。独り佇んでいると、ちょうど村山由佳や玉村豊男の世界
に浸るような気持ちである。その気分でおいしいブドウを味
わうと冷えたブドウの果汁が口の中一杯に拡がる。

 暑さを忘れる至福の時。
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5-088 秋の色

2010-08-26 19:59:51 | 季節の便り
風の谷通信 No.5-088

 きのうからたった一日で景色が変わった。

 太陽の光が黄金色に変わって急に秋の気配になった。
空の色が浅い青になり、入道雲が消えて巻雲が流れる。
気温が1℃か2℃下がった。陽の光はまだ暑いが風が
冷たくなった。朝の水やりの時刻に肌を刺すような
空気の棘が消えて、畑の中が穏やかになった。

 たった一日でこんなにも変わるものなんだ。裏庭の
エスロン屋根の灼けかたが、弱くなり黄金色に輝いて、
おかげで東面する台所の部屋が一面の金色になった。
雨戸から見通す稲田も黄色くなった。

 稲田ではきょう初めて稲の穂が頭を下げた。 秋だ。

 暑いのは変わらないが、確実に秋の気配が濃くなった。
少しは涼しくなってくれよ。さもないと秋冬野菜の種まきが
遅れてしまうよ・・・。

 それでも、予報では残暑が9月一杯は続くらしい。
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5-087 稲が色付く

2010-08-25 19:40:25 | 農業日記
風の谷通信 No.5-087

 きのう早稲の穂が黄色くなった。熟れた色ではないが
明らかに黄味が現れた。
甲子園の夏が終わって例年ならば巻雲が流れるのに、今年
は雲の気配が夏のままである。それでも早稲の色は晩稲の
葉色に比べて秋の色をつけ始めた。稲刈りまであと3週間!
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5-086 暑いナ

2010-08-18 19:58:03 | 季節の便り
風の谷通信 No.5-086

 夜中に起きて台所で水を飲む。部屋が暑さでボーっと
している。温度計を見ると34℃。水道水がなまぬるい。

 午後の台所では36℃だとか39℃だとか・・・・
実際に部屋の中で熱中症に倒れるはずだよ。先に記したが
高校野球は愚行である。今のところまだ事故はないが、観客
の中に熱中症患者が出た。そして、中学校の野球大会である
チームの選手全員が不快を訴えて病院へ搬入された事件が
2日ほど前に起きた。そのうちに大きな事故が起きるだろう。
例えば落雷事故でも(グラウンドと登山の両方で)落雷が予
測されていたのに実際に起きるまでは対策を講じなかった。
起きたら起きたで「こんなことになるとは想定外だった。これ
からはこんなことが二度と起きないようにしたい・・・」と
いうまるで他人事みたいなコメントが発せられる。
 
 そもそも厚生省が外出や屋外行動をやめるべしと警告して
いるのに文部省と高野連がまるで考慮せず、逆に「元気だ」と
褒め称えているのだから世話無いよ。

 ところで、暑すぎて畑作業ができないので、種まきができない
・・・ということは、11月から12月頃に出荷すべきキャベツ
やハクサイやダイコンやニンジンが栽培できないという事態にな
る。実際に移植したキュウリが全部立ち枯れてしまい、1本も
育たなかった。この暑さは全国的なので、どの地方からも出荷が
できないのかなあ・・・と思う。ああ心配。
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5-085 敗戦記念日に

2010-08-15 19:43:53 | 世相あれこれ
風の谷通信 No.5-085

 新聞の投稿記事「語り継ぐ戦争」を読むことが多い。
今朝の記事と今朝のラジオ放送の内容が重なった。やはり
敗戦記念日ということであろうか。

 まず早朝のラジオを夢うつつの中で聴いていたが、シベリア
抑留の話が始まったので途中から聴いた。話した人の名前は
知らない。その話の中で:
1.8月上旬に当時彼が勤務していた航空基地の指揮官が
「どうも様子がわからないから東京へ行って確認してくる」と
言って出発した。2機のうちの1機には女性も同乗していたと
思う。この指揮官はそれきり帰任しなかった。要するに逃げたん
だ。彼にはソ連が越境攻撃してくることがほぼ判っていたのだ。
われわれ下級の兵士にはそんなことは判らなかった。
2.ニホンへ帰れると思ったら、シベリアへ連行されて重労働を
させられた。(いろいろな労働の内容)。森林伐採していると同時
に何本も切り倒すので危険である。食糧不足・栄養失調で逃げ
るだけの体力がないので倒れてくる木に潰されて仲間が大勢死んだ。

 そして朝刊を読むとこれに呼応するような投稿記事があった。
1.抑留中に酷寒の中で森林伐採・木材運搬・貨車積みをやらされた。
上官による陰湿な抑圧や食糧ピンはねに泣かされた。樹が倒れる時
に枝が絡んで予想外の方向に倒れると、逃げる力がなくて下敷きに
なって死ぬものも多くいた。・・・
2.ミャンマーの通信隊に配属され・・・バンコクまで1500㌔
の死の退却が始まった。指揮官の牟田口司令官がいち早く帰国して
いたことなど到底知らない。・・・

 この飛行隊指揮官とか牟田口司令官のような卑怯な上官がいろいろ
といたのだ。ずっと以前に書いたが、台湾のある航空隊指揮官がやはり
東京へ連絡に行くと言い訳して任務放棄・逃亡した。
 ついでに言うとこの牟田口中将はビルマ方面軍第十五軍の司令官で
その下にいた第三十三師団柳田中将を謗り彼に責任転嫁することに
よって彼に敗戦の責任を負わせようとしたらしい。いきさつは高木俊朗著
「インパール」に紹介されている。さらには半藤一利の語りによれば
「(お会いになった中で酷いと思われた人は?)牟田口廉也さんです
ね。」と一言のもとに切り捨てている。牟田口は盧溝橋事件で戦端を
開いた連隊長。その後にインパール作戦を指揮したが、これはまった
く無謀な戦争であった。
 そもそも補給を受けない軍団がどうしてある地点を「死守」できよ
うか。日本軍が撤退した山の道は地獄絵図であったという。食糧も
無い兵士達が何千メートルもの高地を縫って走る熱帯山林の中を敵襲
を避けながら撤退するなんてことは無謀である。もし捕虜になること
を教えられていたら彼らは安心して戦闘放棄したであろう。何も硫黄
島や沖縄のガマと同じ運命をたどることはなかったのだ。

 しかし、ひとつだけ温かい投稿がある。「敗戦、すぐに兵を帰した
部隊長」。18歳の民間会社勤務員が満州で召集を受けて8月14日
に部隊に合流したが翌15日に敗戦の放送。部隊長は新参兵士達を集
めて自己の責任で「入隊しなかったことにする」と兵役を解き、帰宅
させた。新兵たちは食糧もないまま集団で二昼夜歩き続けて居住地に
帰り着き、一年後に一般市民として無事帰国した。・・・

 敗戦から65年も経って、事実を知る人が減り、かつ高齢化するに
つれてそれ幸いと「戦争は正しかった。軍人は立派だった・・・」と
言う論調が高まってきた。はたしてどうであろうか。社会に戦争待望
論があり、核装備待望論があり、シーレーン防衛論があり、国際協力
の必要性があり、むずかしい。ひとつの検討事項は「ニホンが大国で
ある」という意識を捨てることではなかろうか。「油の1滴は血の
1滴」と言わざるを得ないクニが大国であろうはずがないのだが。

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