日常

「影の現象学」河合隼雄

2010-04-25 14:04:43 | 
村上春樹さんの新作1Q84を読んでいる。
ユングのことが突然出てきた。

(ユングのお墓に刻まれた文字)
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村上春樹「1Q84 book3」(新潮社)
『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』
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(別の著作より、ユングのお墓に刻まれた文字)
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Gerhard Wehr(原著)、村本詔司(訳) 「ユング伝」(創元社)
『Vocatus atque non vocatus deus aderit
 (呼ばるるも、呼ざれざるも、神はそこにましまさん)』

『Primus homo de terra terrenus
Secundus homo de caelo caelestis』
 (最初の人間は大地から生まれ、地上的である。
   第二の人間は天から生まれ、天上的である。)
(「コリント人への手紙15章47節」より)
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ユングを初めて日本に紹介したのは河合隼雄さん。
春樹さんの本を読んでいたら、ユング、河合隼雄さんの著作を無性に読みたくなった。



■「影」「無意識」「夢」

河合隼雄さんの「影の現象学」(講談社学術文庫)を読み直してみた。
深く感じ入って、止まらなくなった。素晴らしい名著だと思う。


河合隼雄さんは、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(新潮文庫)、よしもとばななさんとは「なるほどの対話」(新潮文庫)という対談本を出している。


春樹さんも、ばななさんも、日本の作家の中で、世界中に翻訳されて読まれている作家だ。
お二人に共通していると感じるのは、「夢」「無意識」の問題。


・・・・・・・
現代は、都市の時代で、脳の時代で、意識の時代だ。
とにかく光をあてて闇を隠し、夜を人工的に昼にしてきた時代だ。


そうして、「夢」とか「無意識」は、でたらめで意味不明なものとして軽視されやすい。
でも、ここにこそ、国や言語を超えたすごく大切なものがあると、最近は強く思っている。



■「影の現象学」河合隼雄

この本は、読めば読むほど刺激を受け続けることが多かった。
自分の「影」の問題なんて、見なくてよければ見たくない。
でも、それは実はかなり危険なことだと思うようになった。
光と影は、必ずふたつでひとつ。



この本の章立てとしては、
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・第1章:影(影のイメージ、ユングの「影」概念、影の種種相)
・第2章:影の病い(二重身、二重人格、夢の二重身)
・第3章:影の世界(暗黒、不可視の影、地下の世界)
・第4章:影の逆説(道化、ストレンジャー、トリックスター)
・第5章:影との対決(自我と影、影との対話、影と創造性)
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となっている。


未開人は、自分の「影」を、霊魂や生命の部分と見ているとか。
中国での葬式では、自分の「影」が棺桶の中に間違って入らないように注意するとか。
「影」を、まさに生命としてとらえていたりする。

世界各地の文化人類学的視点があって面白い。
そう考えると、「影踏み」っていう遊びも、なんだか怖くなる。



■「集団の影」の反逆

第1章の「影の反逆」で、ナチスの話は示唆に富んでいると思った。


ある集団がすべて同じ方向に、陽の当たる場所に向かうと、背後に大きい影ができる。
でも、そんな巨大な影に誰も気づかない。
その大きい影の存在に気づいた人は、むしろ集団の力で抹殺され、その犠牲者は巨大な影の中へと吸収されて、影の中へ消される。


集団の影がどんどん大きくなると、構成員の無意識の中でうごめきはじめると、誰もが心の中で言い難い不安を感じはじめる。
そうすると、いつのまにかに仕事の熱意もなんとなく闇に消えていく。

そして、そんな巨大な影が意識の中に侵入してくると、その人は集団の影をただ一人で背負わされる。
そんな人は、神経症、預言者、詩人、精神病、犯罪者、独裁者・・・とか、何らかの異常性を強いられるとのこと。


ユングが1936年に書いた「オーディン」というエッセイがあって、そこではナチスがキリスト文明で抑圧された、北欧神話オーディンの現れだと書いている。
本能の抑制に重きを置くキリスト教は、本能の赴くままに荒れ狂う、荒らぶる神としてのオーディンを、生み出す。巨大な影として生み落す。


影とうまく共存しないと、そうして、影からの反逆を受ける。


・・・・・・
ちなみに、引用されているアンデルセンの「影法師」という話も怖い。
主人公と影の関係が逆転して、自分の影法師から元の自分が殺されてしまうという話。

影(闇、空想・・)が、実態(光、現実・・)を飲み込む。
でも、こういうことは実際に起こっていることでもあると思う。



■「白い影」

「白い影」という概念も面白いと思った。


他人に対する親切さを抑圧してきた人間は、その「親切さ」という「白い影」を他人に投影する。(「投影」は、文字通り「影を投げかける」)

たとえば、仕事の上司にその白い影を投影すると、現実を超えて絶対的な親切心を上司に期待してしまう。
そして、自分の予想と違うと、その人を不親切だと言って、自分の都合で批判する。

白い影の投影は、他人にいい面を期待するように見えながら、その人を攻撃する行為になる。
そんな行為は、常にあくまでも「無意識」のうちに行われてしまう。




・・・・・・・・・

この本を読んで、自分の影に存在している「無意識」のことを考えるようになった。
これは、春樹さんの「1Q84」の内容にも深くつながる。




■「わたし」

誰もが、他者に影響を受けて育つ。


生まれた直後は、「わたし」も「あなた」も、自己も他者も分けられていない。全てが未分化な状態だ。

そして、ある日、「わたし」という「ひとり」の存在に気付く。
それは、自我や自己の目覚めと呼ばれる。


「わたし」や、「ひとり」という感覚。
それが「孤独」の概念と連結していく人もいれば、「孤高」の概念と連結していく人もいる。
ひとりが「さびしい」と不安を感じる人もいれば、ひとりは「たのしい」と大事な時間だと感じる人もいる。


「わたし」という存在は、他者の影響で、明るく快活な人間に育っていくこともある。
「わたし」という存在は、他者の影響で、こだわり強く自尊心の強い偏屈な人間に育っていくこともある。

ヒトは、いろんな人格へと成長できるように、もともとは無限に開かれているのだと思う。




■そうであったかもしれない「わたし」

こどもからおとなへの成長のプロセスの中で、元々は分離せずに一体だった「意識」と「無意識」は、少しずつ分かれていく。
その分離の程度や、どれだけの重なりがあるかは、個人によって全然違う。

「意識」がものすごく大きい人もいれば、「無意識」が大きい人もいる。
「意識」と「無意識」の重なりがおおきい人もいれば、全く重なりあわずに分離してしまっている人もいる。



成長とともに、「わたし」は、ある「ひとつ」の人生を歩き始める。
無限に開かれた可能性の中で、ひとつの人生を歩き始めるから、それ以外の可能性は全て「そうであったかもしれない」自分だ。

そんな「そうであったかもしれない」自分は、無意識の中へと押しやられ、自分の「影」が必ず生まれる。


今生きている実際の「わたし」の人生を光とすると、そうであったかもしれない「わたし」が、「影」となる。


明るく正義に満ちた人の「影」は、不正と暴力をなす邪悪な存在かもしれない。
不正と暴力をなす邪悪な人の「影」は、明るく正義に満ちた存在かもしれない。

それは、常に合わせ鏡のようなものだ。
影は、無意識の中で静かに同居している。


どんな人にも「影」があるから、どんなに善人だと思える人でも、戦争のような極限状態では人を容易く殺せる。
自分の大切な人を殺した容疑者には、殺意を覚え、ためらいなく死刑判決を下せる。同じようなことをできる。



自分にとっての「影」は、善でも悪でもない存在として、無意識の王国で静かに生きている。



「1Q84」で出てくる、「1984年」ではなく「1Q84年」という世界や、「猫の町」という場所も、こういう影の場所のことを言っていると思った。
そこには、個人や集団の「影」となり、強い力を持っている「暴力」や「性」が住んでいる。


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村上春樹「1Q84 book3」
『深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町のことだよ。
美しい河が流れ、古い石の橋がかかっている。
でもそこは僕らの留まるべき場所ではないよ。』
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「無意識」の世界を「意識」するのは、言語矛盾のようだけど、
僕らは、「夢」という形で、無意識の世界から視覚的イメージとしてのメッセージを受け取っている。


「無意識」と「意識」の橋が、「夢」だ。



■影を投げつける「投影」

自分の闇や影を(それは自分の一部でありながら)見たくないからという理由で、他人に「投影」することがある。  


見たくないという理由で、個人から誰かに投げつけられた「影」。 
ご主人さまを失って途方に暮れた「影」たちは、お互いが寄り集まって、巨大な「影」に成長していくのだろう。 
そして、自律した生命を持った彷徨える巨大な影の怪物は、いづれ里帰りをする。 
そして、元のご主人さまを、知らないうちに飲み込む。
それは、影からの自分への復讐。


そんな自分の「影」としてうごめくものは、無意識の住人のように感じる。

そういうものを、リトルピープル(1Q84に出てくる概念)、ふくろう(知恵)、カラス(魂)・・・のように、何らかの「名前」を名づけて擬人化しないと、闇にうごめく「影」を意識することは難しい。


「影」は闇の中にあるから、見えにくいのは当然だ。

ただ、「影」の暗闇を見つめすぎると、無意識の混沌に飲み込まれて、「影」に乗っ取られることがある。
どちらが本体か、自分にも他人にも誰にも分からなくなる。


嘘やフェイクやマガイモノの世界も、それが半分以上を占めてくると、どちらが偽物や嘘やフェイクなのかよくわからなくなってくる。



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村上春樹「1Q84 book3」
『暗い入口をこれ以上のぞき込まない方がいい。
そういうのは猫たちにまかせておけばいい。
そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。
それよりも先のことを考えた方がいい』
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■「影」とともに

「そうであったかもしれない」自分は、すべて自分の「影」だ。

「影」を否定しようとしても意味がない。
なぜなら、「影」はどんな人の中にも必ずあるものだから。

「影」を抹殺しようとしても意味がない。
それは、他者になすりつけ、他者に「投影」するだけだから。



だからこそ、自分の「影」は、自分が責任もって抱えないといけない。
「影」と共生・共存する道を、いづれどこかで探さなければいけないのだと思う。


それは、個人においてもそうだし、集団においてもそうだ。
個人に影があるように、個人が寄り集まった集団にも影はある。



自分の光の部分も、影の部分も、自分自身だ。
どちらかが自分なのではなくて、どちらも自分なのだ。

光と影は、必ずふたつでひとつ。



河合隼雄さんの「影の現象学」(講談社学術文庫)は名著だ。何度読んでも、必ず新たな学びがある。噛めば噛むほど、味が出る。

3 コメント

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 (YUTA)
2010-04-26 23:43:59
「正義」や「善」を主張する組織ほど、暗い影を生み出すものですよね。
最近、カトリック教会の司祭による児童の性的虐待が続々と明らかにされ、ドーキンスが法王の逮捕を請求するまでになっています。これによってドーキンスが殺されなければいいが、と心配しています。
日本では、教師による性犯罪やセクハラが多くて吐き気がします。
人間が社会的、文明的な生活をするための顔は、大部分を占める影を覆うだけの仮面ではないでしょうか。
その人間たちを、教会や学校は善人に改造してやろうなどと無理をするから、自分たちの影を見失っているのです。
Book3 (Is)
2010-04-26 23:51:18
Book3僕も読みました。
村上の一貫した問い(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』あたりから)とも関わり、
ちょっと、また別の切り口から一言なのですが、
「量子論」の説明が、最近、腑に落ちて、

例えば、テレビ画像と電波の関係は、
実体が電波で、ソレを受けて、受像器に写っているものの方が虚像なわけですよね?(…普通にテレビを見ていると、その画像こそが正に思うけど…あくまでも原理としては。)
いわゆる、「この世」「あの世」ってのも、その比喩で言えないか!?(…ってことをある量子論本が提示していて)
つまり、今僕らがこれこそ「正」だと思っているものは、「あの世」(…とか、アカデミックレコードでも、無意識の世界でも、イデア界でも…言い方はそれぞれあるが、何か、今ここを超えた全体的で超越的な世界)なる世界(=電波)から受け取って映している一面に過ぎない。

…村上が大衆支持されるのは、こうした感覚を、「オカルト」でない形で、上手い〈文体〉(←福岡 伸一さんの、科学の進歩はなく、〈文体〉の移り変わりがあるのだ…ってのが好きなのですが)で表現している点だと思う。

岩波新書の山之内靖『マックス・ヴェーバー入門 』は、実は、近代合理主義が徹底した先でニヒリズムに陥るという点で、呪術的な非合理へ視点を当てているという論を立てているらしい(…スンマセン、まだ精読してません!)

歴史の勉強するってことで(前回は残念!)、僕は今からミクロ視点で、平成の20年を概観してたのだけど、同時代で生きてると変わってないように思っちゃうけど、メタではやはり変化あるように感じ、ぜひとも、この変化に乗じて、我々の近代的な脱色の認識を反転させるような、それが、変なものに絡め取られないような、なにか正しい…もとい…妥当な、方法がないものかと思っております。

…ちょっと漠然としてますが、
そんな視点で、春樹談義したいね。
最近はネットを見てなかったー (いなば)
2010-04-28 23:08:29
>>>YUTA様
『「正義」や「善」を主張する組織ほど、暗い影を生み出すものですよね。』
そうなんですよね。この本は、いろんな点で示唆に富んでいて、すごく勉強になりました。

まず、意識というものが光とすると、その中で無意識は影になる。
だから、無意識というのは目に見えないし分かりにくい世界なんですけど、意識の世界で正義や善を過剰に主張すればするほど、見えない無意識のところには、きっと巨大な影が出来るのですよね。
そして、その影を意識しているか、認識しているか。
そことのバランスを考える事こそが、過剰な光となる正義や善のバランスになるんだと思うのです。
というか、そういう形でしか個々のバランスっていうのはとれないんだと思うのですよね。

まさしく、カトリック教会の司祭の件なんかも同じですよね。
社会に出すペルソナとしての光を浴びる顔が、ほんとうの自己イメージと違えば違うほど、そこでできる影は巨大になって、絶対にどこかで調整が行われはずで。
そして、それは社会的弱者へと、矛先が必ず向かうもので・・・。

そういう風に、自分の影となる部分を理解し、共生すること。
そのことを心がけている以上、影に飲み込まれる事はないと思うし、そういう人は逆に言えば信頼できるんだと思うのですね。

過剰に善人ぶっている人から受ける怪しい印象って言うのは、そんな影を意図的に隠しているのが透けて見えるからなのかもしれません。



>>>IS様
Book3は、また改めて会って話したいです。
ネット上で書くと、いろいろ検索にひっかかるのもイヤだし。笑


テレビ画像と電波の関係とかって、まさしく影の現象学で言おうとしている、光と影、意識と無意識・・・こういうメタファーとすごく似ている気がします。
村上春樹の世界って、オカルトでもなく、スピリチュアルでもなく、科学でもなく、神話でもなく・・・まさしく『小説』とか『物語』って言われる形で、どこにも偏らず、それでいて全体をなでまわすように表現されていて、そこがすごいよね。

岩波新書の『マックス・ヴェーバー入門 』は、確かにワシも持ってるけど読んでない!
いやはや、読みたい本ってたまるよねぇ。うれしい悲鳴。早く隠居したいもんだ。
呪術的なものって、実際多いと思う。

壁を見ると標語がベタベタはってあって、まさしく言霊信仰の呪術だーって思うもの。

100年単位で世界史を俯瞰しながら歴史を勉強してると、本当に世界のうごめきのようなものがよくわかる。
いやぁ、なるべくしてなった、この世界という感じで。

シュメール人も、クレオパトラも、聖徳太子も、坂本竜馬も、・・・・みんな見たかったけど見れなかったのが、いまの生きているこの世界。それって、実はすごいよねぇー。