国際会議は同時通訳で実施されているが、専門家にできることをコンピュータでどこまで代替できるだろうか。音声の同時通訳まで行かなくても、インターネット交信が同時通訳になる時代はいつ来るだろう。囲碁や将棋のように勝つという目的とルールがある場合は、人工知能がプロ棋士に勝つ時代が来ているが、人間は何をしゃべりだすか分からない。せめて世界の図書館や美術館、そしてあらゆる資料館や公文書館にある資料の全てをネットで公開することから始め、これを英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語に変換する国際計画はないのだろうか。例えば、ヘッケル『一般形態学(有機体の一般形態学)』の原典の第2巻のように。ドイツ語は習っているが辞書を引く意欲はもうない。せめて英語なら辞書でも少しはかじろうと思うかもしれないが、これら公開資料を母国語に翻訳するのは各国政府の誇りある仕事にすべきだと思う。
科学技術の発展が人類を堕落させない希望の一つとして、せめて英語を母国語に、母国語を英語に変換するインターネット翻訳の技術が世界で使えるようになる時代が早く来てほしい。語学の壁は年齢とともに時間的制約も増え、若いときのようには越えられなくなる日が来る。インターネット翻訳で世界の歴史や文化を知り情報交換をすることは、世界の全ての人々に与えられるべき権利だと思う。世界の人々が世界を知る権利を持つことで、世界の人々の相互理解が進み、世界の平和にも一人一人が貢献していける。
また、全ての人々が自宅にいて様々な勉強をするために、TV番組とネット交流によって、それぞれの道への入門から博士過程までカリキュラムを選択できるようにすれば、学問への道は多様化し、論文博士への道も拡がるだろう。大学は開かれた学問を推進する社会的使命を持つことになる。また、世界の人々のネットを含めた交流が拡がれば、コンピュータ翻訳の技術も向上するし、それを補う語学への関心も高くなり、語学を生かせる道も広くなるだろう。そして、平和憲法を改正してまで義務教育を高等教育まで延長しなくても、世界のインターネト交信の語学の壁が低くなることで、はるかに世界の友好関係の時代を先に進め、世界平和をより確かなものにするだろう。
戦後70年もすると戦争の悲惨さを経験した人々は少なくなり、アメリカの属国として軍備を増強する一方で、日本のことは日本で守るべきだという矛盾した声が大きくなっている。しかし、核兵器の時代は戦争はできない時代だと冷静に考えよう。戦争放棄を謳った日本の平和憲法は、日本のためだけでなく世界の希望の鐘となる時代だ。しかも、あらゆる国家が国民や世界の人々に秘密の公的資料を持つことは悪とされる時代はそこまで来ている。世界は全ての人々のものであり、情報は全ての人々に開かれるべきで、一部の支配層の考えで秘密にすべきものではない。
参考: NHKスペシャル 憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた,(動画) アドレスバー
安倍大嘘をNHKが暴露<本澤二郎の「日本の風景」 をクリックしてEnter
また、公開された放送番組やネット資料は、いつでもどこでも見れるようにしておけば、国民の勉強のチャンスを拡げるとともに、放送番組とネットでの情報交流の内容は後世まで評価される栄誉も与えられる。放送内容が政府によって歪められたとしても、それは歴史的事実として後世に評価されよう。仕事をするということは、成果を自分で得ることではなく、仕事の成果を後世に残すことだ。そのことで人生100年時代どころか、世界の人々とともに誰でも生き続けることができる。
東京都の豊洲市場移転問題も、ネットにより産地と消費者が直接つながる時代では、産地直送のシステムを念頭に置いて、新しい輸送システムにおける市場の役割を考えるべきであろう。情報は東京に一極集中することはなく、地理的不便を問わず世界を瞬時にして駆け巡る。輸送システムも東京中心だけではなく、地方を中心にしたシステムの可能性も考えたい。
自然と人、人と人との絆で安全安心で豊かな社会が得られる。東京砂漠で孤独死する寂しい人生よりも、自然豊かな地方で暮らして、生きることの幸せを噛みしめたい。それには、自然と人、人と人の絆を大切にする地方の政治経済が重要だと思う。東京も地方も住民が政治経済の責任者であることを忘れてはいけない。そして地方は自然が身近にある幸せを忘れてはいけない。
人々は様々な環境で生まれ育ち、様々な考え方を持つようになる。他者を尊重する考え方も、他者を支配する考え方も生まれるが、政治も経済も「実践」で評価される。今日の「欲望の政治経済」では、自己の欲望(考え方)で他者を支配する「実践」が「成功」と見られてはいないか。そして支配される人々には「支配されている」という自覚はなく、支配者と共に時代を考えていると錯覚している様に、私には見える。ネットでいろいろな情報が得られても、そのいろいろな情報を自分の考えで選択して、自分の考える世界に浸り、自分の考えが正しいと錯覚してはいないか。
人は得られた情報から、それが好きかどうかだけではなく、真実は何処にあるかを考える習性を身に着けなければいけない。それが義務教育に与えられた義務だろう。世の中には様々な考え方があり、表と裏、右と左、敵と味方と2極分離しがちだが、それは物事には2面性があるということだ。少なくとも多くの人の生き方に関係する政治と経済の問題は、どちらが正しいかではなく、自然にとって良いことかどうか、他者にとってはどうなのか、そして後世にとって良いことなのかどうか、判断基準を現世の自分に置くのではなく、もう一つ基準の次元を自然や他者に置く訓練を義務教育ですべきだろう。そのことが義務教育に必要な道徳教育というものだろう。
真実は何処にあるかを考える材料は沢山あるが、まずは日本人の知識として、動く地球における日本列島の形成、日本列島への日本人の移住,(2)、氷河期の気候変動,(2)、マンモス等の大動物の移動と人類の移動,(2)、日本に定着して自然と一体で暮らしていた縄文人と農耕を日本に伝えた弥生人の関係を地質学や考古学や遺伝子解析等の資料で調べて、真実に近い物語を自分なりに身に着けていくべきであろう。また、古代の歴史である神話をどう解釈するかもおもしろい材料だ。
ここでは古代史ミステリー 「御柱」 ~最後の“縄文王国”の謎~: (動画)を中心に、自然ともっと近い暮らしをしていた縄文時代を考えるブログを紹介しておく。 古代は狩猟採集の時代と馴染んできたが、海に囲まれ山の多い日本では、縄文人は長い年月で育つ巨木の命に神が宿ると敬い、海や川や池の自然の恵みを利用して里山で暮らしていたので、栗の栽培と漁労採集の暮らしをしていたと言う方が実態に近いのだろう。
参考: 諏訪と縄文(1)~なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか
諏訪と縄文(2)~出雲族とは何か?
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第1回
第2回「海洋民としての縄文」
第3回 舶来志向と工夫思考
第4回「自然を肯定視した民」
第5回「共同体社会としての日本」
第6回 「性は秘めるものではない、開くもの、皆で共有するものだった」
初稿 2017.5.5