2019年、多くのアクセスを頂き感謝いたします。
本ブログの総アクセス数が1300万を越え、私のモチベーション維持に繋がっています。
2020年も宜しくお願い申し上げます。良いお年を!!
撮影回数約80回 モデルさん約100名




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来島海峡・八幡渦の動画をUPしてみました。
時間があれば フルスクリーンで3分御覧下さいませ
下田水港

来島海峡大橋
「しまなみ海道」のなかでも、一番大きな橋が来島海峡大橋。来島大橋大島側から来島海峡第一大橋960m、真ん中が第二大橋1,515m、四国側が第三大橋1,570mとなっており、総延長は約4km。世界初の3連吊橋としても有名。来島第2・第3大橋は塔の頂上まで、海面から184m。橋げたまでの高さは65mもあって、巨大な船でも楽々と通りぬけることができる。



来島
能島、因島と並び、村上水軍の根拠地である。来島村上水軍は、この島に本城を置き、近傍の小島に枝城を築き、来島海峡をゆきかう船舶に睨みを利かせて積み荷の10%にあたる通行料を取ることで繁栄した。時代は下り、波止浜に塩田が築かれると、来島は塩買船や回船の集まる港町として繁栄した。かくして瓦船、泥船、また北九州や宇部の石炭を阪神地方へと運ぶ石炭船が頻繁に行き来するようになり、海事都市をめざす今治市のルーツともいえる地となった。

アンカレイジ
橋のケーブルを固定する巨大なおもり「アンカレイジ」は海底から約90㍍、海面からは約60メートルの高さがあり、使用されたコンクリートは15万㎥とミキサー車5万台分にもなる。また、来島海峡大橋に使われた鉄の重さは約10万トン。 コンクリートの量もおよそ48万㎡でコンクリートミキサー車10万台分。



八幡渦
来島海峡は、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」とうたわれたように、鳴門海峡・関門海峡と並ぶ日本三大急潮の一つ。荒々しい潮流は、最大時に10ノット、落差2メートル、時速18kmにも達する。大潮の時には直径10m以上の「八幡渦」と呼ばれる巨大な渦がいくつも発生し、潮の流れが速い上に、船の通航水路としてはとても狭く湾曲しており、来島海峡は世界的にも有数な海の難所となる。

中渡島
かつて村上清長を城主とした中途城があり、室町期には、隣の務司城とともに水軍の本陣になった。
その城跡には現在白い灯台(中渡島潮流信号所)が建っている。

小島に上陸し、港のすぐ近くにあるのが28センチ榴弾砲。平成21年~平成23年の3年に渡って放送されたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケで使用された28センチ榴弾砲のレプリカが港前に設置されている。




海の要衝という地の利を生かし海運業が盛んになり、それに使われる船の修理や建造が行なわれるようになった。塩田の豊かさと、来島海峡の地の利が、この地に海運業と造船業を根付かせ、日本一の海事都市「今治」が誕生する。現在の造船会社は7社、最大5万トン級の船を約一か月という速さで建造しているという。






今治藩初代藩主は城の設計で名高い藤堂高虎。万石を領有していた藤堂高虎は、関ヶ原の戦いの戦功により20万石に加増され、今治藩を立藩するとともに今治城建設と翌年に城下町建設に着手した。高虎は、1608年伊賀国・伊勢国にて22万石に加増の上、領地替えとなり、養子である高吉が今治城主となった。後に伊勢国桑名藩より松平定行が伊予松山藩15万石に転封となると、その弟・定房が伊勢から今治に入った。2代藩主・定時の治世では、藩の財政を支えるため塩・白木綿・甘藷等を推進、奨励した。幕末の10代藩主・定法1863年では、軍備を洋式に改革し、沿岸に砲台を建造した。第二次長州征伐の際は朝廷側に付き、鳥羽・伏見の戦いでは、御所の警護を行った。戊辰戦争では奥州まで転戦、今治藩宗家の伊予松山藩が将軍家の親族であることを理由に、佐幕を通したこととは大きく異なった。


天皇の権威奪回のために奔走した後醍醐天皇、その背後には多くの皇子たちの活躍があったことは言うまでもない。護良親王1308-、尊良親王1310-、宗良親王1311-、恒良親王1324-、成良親王1326-、義良親王1328-(後の後村上天皇)、懐良親王1329-、満良親王?-をはじめとして他にも数多くの皇子をもうけているが、尊真親王は知らなかった。

