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御秒奈々@万博-8-1

2017年12月31日 | 小柳歩 皐月 御秒奈々 児玉彩音

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幕末194 1869年2月15日松平春嶽の参謀・横井小楠没す

2017年12月30日 | 幕末

 福井藩・松平春嶽の参謀・横井小楠は京都東山の霊山に1356名の維新の志士とともに眠っている。 八坂の五重塔から二念坂を越えた東山の麓にある京都霊山護国神社がそれである。 福井藩の参謀として手腕を発揮し誰もが認める明治維新の十傑として今なおその名を響かせている。

 熊本藩士、儒学者である横井小楠1809-1869の正式な名のりは平時存で、北条平四郎時存ともいう。 横井家は桓武平氏北条氏嫡流に発し、北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国横江村に住し、北条時行の子孫にあたる横江時利の子・時永が、横井に改めたのがはじまりという。 小楠は私塾「四時軒」を開き、坂本龍馬や井上毅などの多くの門弟を輩出し、松平春嶽の政治顧問として、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわったことで知られる。 その基となっているのは「実際に役立つ学問こそ最も大事である」 として結成した実学党にある。 1830年頃熊本城下・長岡監物の屋敷で朱子学の講読会が開かれ活発な議論が行われていた。 当主の監物は忠誠心厚い肥後藩家老であった。 監物邸に集まったのは下津休也、荻昌国、元田永孚、横井小楠の4人の肥後藩士である。 肥後藩政の問題点を論じ合い、肥後実学党の始まりとなった。当時の肥後藩は慢性的な財政赤字に悩み、藩士は窮乏し民衆は災難や借金に苦しんでいた。 横井小楠はその頃 孟子の王道思想に共鳴し民衆の立場に立った政治を志したのである。 藩の財政難は天保期の全国的な現象であり、各地で藩政改革が活発化していたが、その先駆者は水戸藩であった。 水戸藩主徳川斉昭は藤田東湖や会沢正志斎らの藩士を登用するなど天保の改革は全国の武士に注目されていた。 横井小楠は藤田東湖に会って水戸藩の改革の模様を直接聞いたという。 斉昭や藤田東湖が水戸藩の急激な改革を幕府に咎められると、実学党も水戸の一派とみなされて長岡監物は家老を辞めることとなる。  

 1853年ペリー来航時に肥後藩は幕府に浦賀の警備を命じられ、監物は警備隊長に任じられた。監物はその間江戸で藤田東湖ら水戸藩士と親しく交わり、横井小楠も水戸藩に協力の申し出をしている。 しかし1855年斉昭が幕府に対してアメリカとの和議を勧めたいとという情報を得ると横井小楠は激しく非難し始めた。一方監物は警護の任を解かれて熊本に帰っても藤田東湖ら水戸藩士とのやりとりをした。 この頃から監物と横井小楠との主張は食い違い始め、ついに横井小楠は監物と絶交する。 横井小楠はペリー来航後の斉昭に失望し、水戸学それ自身を厳しく批判した。 越前藩や柳川藩を同志としていた 横井小楠派と水戸よりの監物派は対立し、実学党は弱体化していく。 1862年幕府の政治総職を受けた福井藩主・松平春嶽は横井小楠を江戸に呼び、横井小楠は春嶽を助けて幕政においても新しい経世論を実現しようとしたが、会食中に刺客に襲われ、その対応のまずさを咎められ、江戸を去ることとなる。 熊本に戻った横井小楠は勝海舟や坂本龍馬に助言を施す程度で、政局には関わらなかったが、明治国家のプラン作りに影響を与えた。 1868年新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側で暗殺される。 実行者であった十津川郷士ら4名は明治3年に処刑された。

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神原みお@倉敷-5

2017年12月29日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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徳川光圀の隠居所・西山荘から始まった朱子学

2017年12月29日 | 池波正太郎 江戸時代

 1600年関ヶ原の戦いで西軍であった佐竹家が秋田に移ったあと、徳川家康の末っ子、11男の頼房は水戸に入部し御三家水戸徳川家初代となった。二代藩主は徳川光圀、大日本史の編纂にとりかかった。完成したのは明治時代であるから、大事業である。これは朱子学の大義名分論ともいえ、光圀が藩主を引退した後に隠居所として選んだ西山荘で執筆した。1690年から約10年間、家臣の佐々宗淳(佐々木介三郎)らを各地に派遣して史蹟調査を行っている。この御仁は別名助さん・・・水戸黄門の助さんであり、水戸黄門の全国行脚は大日本史編纂のための調査の旅なのである。これらによって大成された学問を水戸学という。明治維新の志士達の思想は、ここで生まれた水戸学である。忠臣として大きく評価されているのがもちろん楠木正成であり、神戸・湊川神社には、光圀が書いた「嗚呼、楠木公」の石碑が今も残っている。

 この楠木正成、光圀が評価するまでは手本となるような人物ではなかったという。武士の政権である幕府を否定した後醍醐天皇に忠誠を誓ったのだから武士にとっては裏切り者ともいえる。しかし光圀は天皇に忠を尽くすことこそ最高の道徳であるとし、倒幕を正当化した。徳川幕府の御三家が・・である。これが後に倒幕思想に繋がっていくのである。かくして、桜田門外の変では、水戸徳川家自信が本家に対して逆らうこととなった。大老井伊直弼を襲撃したのは水戸の脱藩浪士であり、まさに水戸学によって将軍を討つに等しい行為を行い微塵も怯むことはなかった。このようにして天皇こそ真の主君という考え方が江戸時代に定着していった。その天皇が日本の統治を幕府に任せたのであるから、倒幕は天皇家への反逆という考えも一方ではあった。

 老中・堀田正睦は、アメリカとの通商条約はやむなしと判断したが、水戸のご老公・徳川斉昭は批判した。斉昭は孝明天皇からの信任が厚い鷹司政通という大物の義弟であり、第9代水戸藩主である。日本刀では黒船には勝てない・・・と堀田が諭しても斉昭は耳を貸さない。そこで堀田は孝明天皇から勅許を得ることで斉昭を黙らせようとしたが、これがなかなか前にすすまない。孝明天皇はお飾りではなく政治的意識をもって、手足を動かした。その手足が岩倉具視である。

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神原みお@倉敷-4

2017年12月28日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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幕末193 新選組副長・土方歳三

2017年12月28日 | 幕末

 153年前の祇園祭のさなかに池田屋事件が起こった。1864年6月5日、倒幕をもくろむ一派は京都の町に火を放ち、天皇を長州に連れ去ろうと計画していた。その集会に僅かな手勢で乗り込んだのが新選組、数名をその場で切り殺し、多くの討幕派を捕らえたのである。池田屋に突入した隊士の一人・永倉新八が後にその凄惨さを語っている。この時新選組副長・土方歳三が身に着けていたものが残されている。古くから甲州街道の宿場町として栄えた日野にて、土方は豪農の六男として生まれた。1835年。この家は土方の兄の子孫が受け継いで今は土方歳三資料館となっている。土方はこの資料館にも保管されている鎖帷子を防具として着用して池田屋にかけつけたという。日野の武州は天領であり、なにかあったら幕府のためにはせ参じる気概が農民にもあったのである。土方が生まれる1年前の1834年新選組局長となる近藤勇も武州に生まれた。27才にして武州で盛んであった天然理心流を継承した。

 この頃250年続いた徳川幕府は1853年ペリー来航、日米和親条約、日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、生麦事件と国論は開国と譲位に分かれた。幕府は朝廷に攘夷実行を約束したもののその道筋は見えなかった。政治の中心京都には強硬な攘夷派の藩士や浪人たちが集まり、幕府よりの人物を殺傷するなどの事件があいつぐ。そんな中朝廷の攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まる。その警護のために江戸城下で腕に覚えのあるものが募集され、土方や近藤は迷うことなく参加を決め運命の地京都に赴いた。京都でも土方たちは京都守護職松平容保預かりの身分となり、京都の治安維持を担うのである。新選組は倒幕組への殺傷をいとわず実行したために脅威となった。この新選組の命知らずの戦いぶりと強固な結束は厳しい隊の規則によってもたらされたものである。その隊の規則に反するものは切腹、かくして40人が切腹となった。正式な武士ではない農民上がりの浪士であっただけに、より厳しい掟がポリシー化していったと思える。内部の粛清を続けながら新選組を維持し京都の治安維持に努めたのが土方である。

 1868年1月戊辰戦争は京都郊外の鳥羽伏見で始まった。新選組は銃や大砲を有効に使う新政府軍に敗れて江戸に逃れることとなる。幕府侍の土方は西洋の大砲を見せつけられ自身も洋装へと転じるのである。勝海舟の配下となった新選組は200人もの隊士を連れて江戸川を渡り千葉県の流山で陣を構えた。対陣の目的は幕府よりのこの地の反乱を鎮めること。しかし土方の本意は新選組を近代的な組織にすることである。洋式訓練である。しかし新政府軍の動きは早く、流山着陣の翌日に新政府軍に取り囲まれた。この時本陣には土方、近藤ら数名が残っているのみで、近藤はもはやこれまでとした。このとき土方は近藤勇を大久保大和という偽名を使って出頭させている。その場で自決するよりも時間をかせぐ得策と考えたのだろう。新政府軍は旧幕府軍に大久保大和の存在がないことを確かめると、京都三条河原で斬首刑に処した。

 一方会津を脱出した土方は旧幕府海軍率いる榎本武揚と仙台で合流し遥か蝦夷地を目指す。しかし勝機はなく、快く死せんのみなり、吾輩は既に死神にとりつかれたる也・・・と松本良順に語っている。蝦夷地と呼ばれた北海道函館、市街地の中央に広がる五稜郭の中央には函館奉行所が置かれていた。土方がここに入城したのは明治に変わった翌月、新政府に恭順していた松前藩を駆逐し、翌年の明治2年4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸した。土方は新政府軍の上陸地と函館の間にある二股口で新政府軍を迎え撃ったという。この激戦を二股口の戦いという。旧幕府軍は巧みに築いた塹壕から35000発の銃弾を新政府軍に浴びせて撃退した。だが土方の奮闘むなしく新政府軍に他の守りが突破されて五稜郭への撤退を余儀なくされる。5月11日函館山を超えて新政府軍の大攻勢が始まった。土方は函館港と五稜郭の中間にある関門を死守すべく馬上で戦った。この時土方は新政府軍の銃弾を浴びて死んだのである。享年35歳。流山で別れた近藤勇と同じ年であった。土方の死から一週間後五稜郭は新政府軍に明け渡されて、内戦は終わった。

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柊木マリコ@須磨離宮-1

2017年12月27日 | 愛 東角理子 柊木マリコ 姫宮らん 羽野ふうな

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柊木マリコ@須磨離宮-2

2017年12月26日 | 愛 東角理子 柊木マリコ 姫宮らん 羽野ふうな

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さくら@神島-7

2017年12月25日 | 彩木里紗 齋藤このみ 山部さくら 桜田美里

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御秒奈々@万博-7-2

2017年12月24日 | 小柳歩 皐月 御秒奈々 児玉彩音

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御秒奈々@万博-7-1

2017年12月23日 | 小柳歩 皐月 御秒奈々 児玉彩音

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さくら@神島-6

2017年12月23日 | 彩木里紗 齋藤このみ 山部さくら 桜田美里

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幕末192 西郷隆盛

2017年12月22日 | 幕末

 桜島を望む鹿児島県南洲墓地には2023名の同志とともに西郷隆盛が眠っている。旧徳川幕府勢力を一掃した戊辰戦争では1868-1869薩摩長州明治新政府軍の勢力を率いて勝利した。そんな西郷に多大な影響を与えた人物が第11代薩摩藩藩主島津斉彬である。薩摩には多くの外国船が来航し斉彬は海外の最新情報に通じていた。アヘン戦争で敗れたアジアの大国秦が西欧列強と不平等条約を結ばされている状況に大きな危機感を感じていた。列強の侵略に備えるために日本初の西洋式工場群・集成館を建設した斉彬は武器弾薬の製造や造船技術の近代化をなど藩をあげて富国強兵に努めた。国を一つにまとめようとする先進的な斉彬の思想を取り入れようとしたのである。1873年新政府の重責を担っていた西郷は新たな外交問題に直面する。当時の日本にとって大きな脅威はロシアによる南下政策である。鎖国を続けて近代化の遅れていた朝鮮王朝がロシアの支配下に入ることを恐れて明治政府は正式な国交を求めた。しかし挑戦はこれを拒んだため両国には緊張が続いていた。そうした朝鮮に対して武力で開国を迫る征韓の声が強まっていった。西郷は使節となって朝鮮へ渡り交渉を行おうと提案する。

 ところが西郷は思わぬ反対にあう。大久保利通は西郷といえども朝鮮に介入すれば戦争は回避できないと考えていた。当時大久保にとって差し迫った課題は内務省を設立し政府主導で国内産業を育成することであった。戦争となるとインフラ整備や在来産業の育成などは後回しになることを警戒したのである。大久保をはじめ政府首脳によって韓国との交渉を阻まれた西郷は自ら政府を離れた。その後西郷と大久保が会いまみえることはなかった。

 明治6年11月西郷は3千人の薩摩兵とともに帰郷する。もともと士族が多かった薩摩に私学校を設立、尊王と民衆への慈悲を掲げた。これは政府転覆の兵力ではなく幕末のエネルギーを日本を守る軍事力に組み込もうとした。かつて維新のために戦った士族たちは武士としての特権を明治政府によって奪われていった。1876年に俸禄が打ち切られ廃刀令によって刀まで取り上げられた。ついに士族の怒りが爆発した。神風連の乱、秋月の乱、佐賀の乱、萩の乱など九州を中心に反乱が続発した。だが西郷は政府への不満を武力で行使することは大義がないと諫めた。一方東京の大久保利通は私学校の連中に西郷が担ぎ出されるのではないかと危惧していた。

 西郷と大久保の思惑がすれ違うなか、大久保率いる政府軍は薩摩藩が富国強兵のために建設した集成館では、最新式のスナイドル銃の弾丸など日本海軍の弾薬の多くが製造されていた。明治10年1月その弾薬を巡り事件が起こった。政府が夜間密かに弾薬を運び出そうとしたのである。私学校への脅威を覚えての措置であった。事態を知った私学校の生徒たちはすぐさま鹿児島各地の弾薬庫を襲い大量の武器を奪い取った。さらに事態を悪化させる事件が発生。西郷や私学校の内部分裂を誘うために政府が送り込んだ密偵がつかまった。連日の拷問による自白によれば、西郷が不穏な動きをすれば暗殺もやむなしというものであった。私学校の生徒の怒りはもはや暴発寸前であった。

 明治10年2月 9日鹿児島を打開するため大久保は、西郷の遠縁にあたる海軍中将川村純義を鹿児島に送り込んだ。川村は若者たちに担がれないように西郷を説得する使命を帯びていた。しかし私学校の生徒に阻まれて上陸さえできなかったという。これで薩摩郡の挙兵はさけられないと東京に打電すると、政府は4千の兵を派遣。一方西郷は1万3千の兵とともに東京に向けて鹿児島をたった。薩摩軍は西郷を阻むものはないと楽観視していたが、政府は熊本城での籠城戦をしかける。本格的な戦闘が始まったのは2月22日、熊本城付近に西郷の痕跡は見当たらないというから、西郷の意思とは別に戦いは泥沼化していった。

 西南戦争最大の激戦地・田原坂では今もなおスナイドル銃の弾丸が見つかるほどである。後方支援のある政府軍と、何も支援がなく賊軍扱いに変わる薩摩軍との決着がついたのは17日後、それ以降は九州全域を薩摩軍は敗走するのである。薩摩に帰り着いた西郷軍はわずかに400を数えるのみ。政府軍の総攻撃を受けた西郷は、もうよかろう・・・とつぶやき自決した。ここに7か月に及んだ西南戦争は終わったのである。両軍合わせて使者14000人、政府が使った戦費は4100万円、国家予算の85%にのぼったという。

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さくら@神島-5

2017年12月22日 | 彩木里紗 齋藤このみ 山部さくら 桜田美里

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さくら@神島-4

2017年12月21日 | 彩木里紗 齋藤このみ 山部さくら 桜田美里

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