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大徳寺・総見院

2008年04月08日 | 戦国時代

大徳寺・総見院

 総見院は、織田信長の菩提を弔うため秀吉が建立した菩提寺です。 1582年、豊臣秀吉が主君信長の冥福を祈るために古渓宗陳和尚を開祖として創建し、織田信長の葬儀はここで盛大に行なわれました。 墓地には、信長以下、織田家の墓が建ち並び、本堂の内陣正面に木像織田信長座像が中央に安置されています。 この本堂横に加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝える掘り抜き井戸があるが、この井戸の水は現在も湧いています。 総見院には寿安席(山口玄洞の建立)、香雲軒、庵の三つの茶室があり、豊臣秀吉が催した「大徳寺大茶会」は、ここ総見院であったとされています。 

 

織田信長公一族の墓碑(左から順に秀雄、信雄、信長公、信忠、秀勝、信高、信好)

 

中央は正妻濃姫、左がお鍋の方の墓碑

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大徳寺・黄梅院

2008年04月08日 | 鎌倉・室町時代

大徳寺・黄梅院

 大徳寺・黄梅院は中国の黄梅県破頭山東禅寺に由来して名付けられたもので、1562年織田信長が羽柴秀吉を伴って入洛すると、信長は秀吉を京都所司代に任じ、父・信秀公の追善菩提のために普請を命じて小庵を建立させた。 この小庵は大徳寺住持を開祖に迎えて「黄梅院」と名付けられた。 1582年本能寺の変後の10月織田信長は密葬され、その後秀吉は黄梅院に築を加えた。 しかし主君の塔所としては小さすぎるということで織田信長の法名・総見院殿より総見の名をとり境内に「総見院」を建立して祀った。

 黄梅院の表門は小早川隆景により寄進され、鐘楼は加藤清正により寄進されたもので現存の鐘楼は益田玄 播守により建立された。 また千利休により作られた直中庵や方丈前庭・破頭庭など見所が多い。 今回2008/4/5に特別公開されていたため堪能させていただきました。

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大徳寺・興臨院

2008年04月07日 | 鎌倉・室町時代

大徳寺・興臨院

 大徳寺・興臨院は足利時代 後柏原天皇の時代(1520年代)に能登守護・畠山佐衛門佐義総によって建立され、以降 畠山家の菩提樹となった。 興臨院は義総の法号からきている。 当院の本堂は建立直後に焼失して再建された。(1533年頃) 畠山家没落後の1581年に前田利家公により本堂屋根の修理が行われ、以降前田家の菩提樹となる。 普段は公開されていないのですが、今回2008/4/5は特別公開中であり、またガイドさんによる説明もあり価値あるものでした。

表門(重要文化財)

 

方丈前庭(中国天台山国清寺の石橋を模す)

 

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千利休

2008年04月07日 | 戦国時代

千利休

 室町八代将軍足利義政は銀閣寺の東求堂同仁斎で代表される東山文化を追求したが、その頃珠光は茶道の基礎を固めることになる。 茶を書院造の空間から数奇屋造の狭い空間で楽しむ形に変え、数奇屋は後に茶室に発展し千利休が茶道を完成させた。  室町末期の戦国の世に武野 紹鴎(1502年-1555年)という茶道の名人が現れる。 それは堺の豪商(皮革商)に育った武田新四郎であるが、京へでると三条西実隆に歌道を学び、紹鴎と名乗り珠光の茶の道を進化させた。 華美な道具を排除して「わび・さび」 を強調したのである。 そして紹鷗のもとに入門してきたのが堺の魚屋で田中与四郎である。 後に千利休(1522年-1591年)と号し、無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者である。  法名を宗易と号していたが、利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号であり、晩年の短い期間だけ呼ばれたものである。 戦国時代の茶人・宗及とともに織田信長に認められた宗易は次第に秀吉と結びつき、三茶頭に招かれ、大阪城を建てたときに行われた茶会にも招かれるようになった。 関白となった秀吉は御所で茶会を開き正親町天皇を招いたが、 このとき後見として宗易は控えていた。 宗易は茶の名人ではあったが無位無官であり御所の畳を踏むことは出来ない。 そこで利休という号が天皇より与えられたのである。 居士の考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説があるが、いずれも大徳寺の住持となった名僧である。 号の由来は 「利心、休せよ」(才能におぼれずこの境地を目指せ)と考えられている。

大徳寺・聚光院

 聚光院は千利休が檀越になり茶道三千家の菩提樹になっています。 もともと1566年に三好義嗣が養父である三好長慶(重臣には三好三人衆といわれた三好長逸、三好政康、岩成友通がいる)を弔うために建立したもので、その名は三好長慶の法名に由来する。

 千利休は1591年秀吉の命令により切腹したのであるが、その理由に大徳寺の木像事件が考えられる。 利休は大徳寺に山門を寄進したのであるが、大徳寺はそのお礼として、利休の木像を造り山門上の金毛閣に置いた。 大徳寺を出入りするということが利休の足元を通るということにばり、これが秀吉の逆鱗に触れたのである。 秀吉は利休を堺に追放し謹慎処分とした。 利休には詫言を言う機会はいくらでもあったが、周りの忠告を無視したという。 黄金の茶室で象徴される華美を好みとした秀吉に対して、わびの利休のこだわりが妥協を許さなかったのかもしれない。

大徳寺山門(二階部が金毛閣)                勅使門

 

 また、一説では舟岡山仏台石不敬事件がある。 つまり、千利休は二条天皇陵の墓石を大徳寺の聚光院に持ち帰って自分の墓石と手水鉢にしたというのである。 また光孝天皇陵の石塔を持ち出して自分の庭の燈籠として使ったりもしている。 朝廷崇拝者である秀吉は、これを断固許さなかったために切腹を言い渡したということである。 この墓石不敬は織田信長が城の石垣のために石仏、墓石を利用したことでも知られており、利休が織田信長に認められて茶人の道に入ったことを考えれば、織田信長の意思を受け継いでの不敬と云える。 ちなみに織田信長の墓も大徳寺内にあり、 聚光院の隣の総見院にある。

安土城天主跡までの石段に多く使われている石仏

 

安土城・織田信長公廟手前にある仏足石

 単なる石材として城郭の一部に使われ、昭和登山道整備のときに石垣の中から発見された。仏足跡はお釈迦様の足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされてきたもので、日本では奈良薬師寺のものが現存する最古の物として有名である。

 

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安土城

2008年04月07日 | 戦国時代

安土城

 織田信長が天下統一を目標に1576年重臣である羽柴長秀を総普請奉行に据え標高199mの安土山に築城させた平山城で、岐阜城に比べて京都に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。 現在は四方が干拓により陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれ南方のみが開けた地形であった。 本能寺の変の混乱の中、1582年6月15日天主などを焼失し一夜のうちに落城した。(パンフ解説より)

大手通 (天主跡まで約400段の石段はここから始まります 2008/4/6)

 

羽柴秀吉邸跡

 

150段あたりでしょうか。満開の桜を眺めながらひたすら登ります。

 

石段には多くの石仏が利用されています   前田利家邸跡の奥に徳川家康邸跡がある

 

武井夕庵邸跡                 織田信忠邸跡

 

織田信澄・森蘭丸邸跡

 

天主跡の手前にあるのは織田信長公本廟

 

 

天主閣址

 

天主閣址からの眺望

 

織田信雄公四代供養塔

 

信雄流織田家初代 織田信雄公(信長次男) 1558-1630

宇陀松山藩2代藩主 織田高長公(信雄五男) 1590-1674

宇陀松山藩3代藩主 織田長頼公(高長次男) 1620-1689

宇陀松山藩4代藩主 織田信武公(長頼嫡男) 1655-1694

 宇陀松山藩主は福島高晴1575-1633で、福島正信を父に、福島正則を兄に持つ大名である。 兄・正則と共に豊臣秀吉に仕えて1594年、伊勢長島に1万石を与えられた。 1600年の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与し、氏家行広の桑名城を攻め、功績により大和宇陀松山3万石に加増移封される。 しかし1615年、大坂夏の陣で豊臣氏に内通していたとして改易される。

黒金門(安土城中枢部への入り口)跡に使われた石垣

 1575年、織田信長は天下布武を宣言した後、家督を信忠に譲って岐阜城を出、安土城の築城に着手した。 1575年は織田信長の対朝廷・寺社本所の統一的な施策が相次いだ年であった。 洛中洛外の寺社本所領の保護をうたい、3月には諸門跡・諸公家衆のための徳政令を実施し、11月には公家衆に所領を宛がった。 これには足利義昭追放による彼等の不安を取り除く目的があり、足利氏の幕府にかわって自らが独立した政権を樹立したことを宣言する狙いがあった。 そして11月、信長から信忠への家督譲渡が行われた。 信長は茶の湯の道具のみを持って佐久間信盛の私邸へと移ったという。 信長の本国ともいえる尾張・美濃と家督とが譲られ、信忠を尾張・美濃の大名としたことは、柴田勝家らを越前の大名としたことと同じで、自らを大名の上に立つ統一政権とし、官位についたのである。 1年後には正三位・内大臣、翌年には従二位・右大臣、そして1578年には正二位となったが、すぐに右大臣を辞任し以降官職に就くことは無かった。

 戦国大名から脱皮するために岐阜城をでた信長は統一政権の象徴ともいえる城郭の建設に着手する。 安土山の頂に天主を置き、その周りには本丸御殿、二の丸御殿を配置した大規模な城郭である。 1576年に普請が丹羽長秀に命じられ二月には信長は安土に居所を移し、四月には石垣を築くために六角氏の城があった観音寺山や長命寺山から大石をひき、安土山へ引き上げさせた。 そのために畿内の諸侍が召し寄せられた。 築城のために京都・奈良から大工、諸職人が召し集められ、国役としての安土城の工事に従事するように朱印状がだされた。 また、京都にも上洛時の居所を造るべく摂関家の二条氏の屋敷を接取して二条城の築城を村井貞勝に命じた。  この二条城は後に誠仁親王の御所として献上している。 安土城は朝廷の官職から自由な居城であり、信長の政権構想の核となる城であった。 安土は京都や本願寺に遠すぎず近すぎず、防衛面からも安全性が高く、政治的、軍事的な条件が配慮されている。 また、琵琶湖の水運を使った物流ルートとしての重要性を持ち、伊勢や近江を結ぶ交通路もおおい。 信長はこれらの立地条件に重点を置いて安土築城を行ったのである。

 着工から3年後の1579年に安土城の天主が竣工し五月に信長が移っている。 自らを超越した存在であることを狙い、天皇を迎える御幸の間のある本丸御殿は下段に造っている。 高さ13mの石垣の内には地下一階を設け、地上6階からなる計7階建ての高層建築である。 5階は8角形で内柱を金に、外柱を朱に塗り釈迦説法図と六道絵が描かれていた。 最上階の6階は内外ともに全て金箔が貼られ柱は黒漆塗りである。 5階とあわせて儒道仏の三教一致の思想が表現されており、そこから導き出される天道思想の具現として天主が築かれたとされる。天主の造形には足利義満が建てた金閣寺や中国禅林を範とした造形なども採用されている。

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