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秋篠寺

2006年11月11日 | 奈良・飛鳥時代

秋篠寺

 京都には直指庵、寂光院といった閑静な名所がありますが、奈良にもこれに良く似たところがありました。 それが秋篠寺です。 興福寺や東大寺と違って、ほとんど人が訪れない静寂の中でゆたりとしたひと時が味わえます。

 最近の皇族で新たに宮家を作る場合、平城京の山より選定しているらしく、高松宮、三笠宮、高円宮、秋篠宮がそれにあたります。 秋篠宮家が誕生した時には、ここ秋篠寺にも多くの人が訪れたといいます。

 この寺は平城宮跡の北西の外れ「秋篠」の地に位置し、美しい雑木林のなかにひっそりと佇む「静かな寺」です。 草創については色々あるようですが、奈良時代末期の776年に第49代光仁天皇の勅願により、僧正善珠大徳の開基により造営が開始され、次の50代桓武天皇に引き継がれ平安遷都と同じ時期に完成された奈良時代最後の寺だそうです。 創建当時は法相宗であったが、平安時代以後は歴代天皇の尊顔を重ねながら真言密教の道場として栄えたようです。 しかし平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、その後鎌倉時代には今の「本堂」がもとの講堂の跡に再興されるなど以後も改修、復興が行われたが、明治初年の廃仏毀釈の嵐により寺域の大半を失い、金堂や東西両塔の跡は今や自然のままに繁る雑木林になっています。  本堂に安置されている仏像の中でも特に著名なのが日本一体しかない伎芸天(重文)です。

入口を入ると、そこは閑静な庭園です。(撮影:クロウ)

 

紅葉には少し早い時期でしたが綺麗です。(撮影:クロウ)

 

雑木林一面の苔の絨毯(撮影:クロウ)

 

 

770年に即位した白壁皇子・光仁天皇 

 770年に称徳天皇が亡くなると、皇位継承問題で意見が分かれる。 王統はこれまでどおり天武の血筋から選ぶべきであるとする右大臣・吉備真備は、長親王の子で大納言の文室浄三を推し、天智の血筋から選ぶべきとする左大臣藤原永手は天智の孫・大納言の白壁王を推していた。 称徳女帝の遺詔もあって、左大臣側の白壁王が推挙され、光仁天皇として即位したのである。 62歳で即位すると、妻の聖武天皇の子・井上内親王を皇后とし、皇子の他部内親王を皇太子とした。

 朝廷から道鏡一派を一掃すると771年には吉備真備を引退させた。 光仁天皇擁立の首謀者である、藤原良継、百川は藤原式家と親しい山部王を皇太子にする必要があった。 772年に事件が起こる。 皇后が天皇を呪詛しているという密告である。 井上皇后とその子他部皇太子は逆罪として逮捕されると、3年後の同日に死んでいる。 その結果、皇太子となったのが山部王、後の桓武天皇である。

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