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荒木又衛門の仇討ちは池田家の仇討ち

2009年12月21日 | 池波正太郎 江戸時代

 荒木又衛門1599-1638 は伊賀服部郷荒木の生まれで、父・服部平左衛門は藤堂高虎1556-1630に仕えていた。 藤堂高虎は伊予今治藩主で藤堂家宗家初代である。 何度も主君を変えた戦国武将として知られ、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城など多くの築城を手がけ、加藤清正と並んで築城技術に長けていたという。 平左衛門が淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄(第2代藩主で、池田輝政の三男、母は徳川家康の次女・督姫) に召し抱えられた。平左衛門には、渡辺内蔵助数馬という同僚がいて、ともに大坂の陣で戦う関係にあり、数馬の子・みのは後に荒木又衛門に嫁ぐ。 また数馬には長男・数馬(二代目)と次男・源太夫がおり、義兄弟の縁となるのである。 荒木又右衛門は兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝(本多忠勝の長男・本多忠政の次男として生まれ、母は徳川家康の長男・松平信康の娘・熊姫)の家臣・服部平兵衛の養子となった。 しかし、本多家が姫路城主となったあとは浪人して故郷の伊賀に帰っている。 このとき15歳の頃に柳生宗矩やその子柳生十兵衛の門人となったという説もあるが、大和郡山藩・松平忠明に召し抱えられ、剣術師範役に取り立てられた。 剣術師範の上席には、河合甚左衛門がいたが、甚左衛門は河合又五郎の伯父であり、のちに荒木又右衛門はこの河合又五郎と対決するのである。

 日本3大仇討ちのひとつといわれる鍵屋辻決闘は、1634年に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟・源太夫の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ったというもの。 1630年、岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまう。 又五郎は脱藩して江戸へ旗本・安藤次右衛門正珍にかくまわれることとなった。 激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否したことから、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展するのである。 1632年、池田忠雄が疱瘡に病んだとき、死に臨んで又五郎を討つよう遺言するのである。 幕府は、事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定すが、源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれ、脱藩する。

 剣術が未熟な数馬は、姉婿の郡山藩剣術指南役・荒木又右衛門に助太刀を依頼する。 そして江戸へ向かう道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。 又五郎側は叔父で元郡山藩剣術指南役・河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付く総勢11人で、数馬側は又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人であったという。 河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ遅れた又五郎は数馬に傷を負わされ、又右衛門がとどめを刺した。 鍵の辻領主である津藩藤堂家は又五郎一行の情報提供、周囲封鎖など、数馬、又右衛門らを支援している。 見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の評価を受け、特に荒木又右衛門は賞賛を浴びた。 又五郎の河合家はその昔、小牧・長久手の戦いで池田恒興・元助親子を討った安藤直次(徳川家康家臣)の家臣であった。 実はこの仇討ちはその時の怨念を抱く岡山藩主・池田忠雄のものともいえる。

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