平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

清水宗治首塚

2008年07月31日 | 戦国時代

1582年

 織田信長は4月安土に凱旋し、天皇・誠仁親王の勅使・勧修寺晴豊より祝勝の品を受け取った。 このとき勧修寺晴豊は太政大臣、関白という天皇方の意向を伝えているが、織田信長は送り返し、すぐさま神戸信孝に四国攻めを命じている。 一方備中に侵攻した秀吉は城々を落とした後の五月、毛利の清水宗治が籠もる高松城を囲み、足守川の水を引き入れて水攻めの策をとった。 救援を求める 毛利軍に対して織田信長は明智光秀、細川忠興らに先陣を命じた。 信長は5月29日に上洛すると、6月1日には本能寺に博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を催し 信忠、公家衆、僧なども集まった。 一方、光秀は出陣に備えて坂本城から丹波・亀山城に移った。 ここで光秀は反乱を計画して戦勝を祈願し愛宕山に参詣している。 決意した光秀は斉藤利三らに計画を明かし全軍を東の本能寺に向かわせた。 2日未明、本能寺を取り囲んだ光秀軍は攻め込むと、信長は本能寺の炎の中で自刃し、森蘭丸や小姓衆も討死したのである。 信忠は信長のもとに行こうと妙覚寺をでるが、村井貞勝の勧めで二条御所に逃げ込み、誠仁親王らを内裏に逃がした。 しかし応戦むなしく信忠も自害した。 安土城の留守居・蒲生賢秀は信長の妻妾を連れて自分の日野城に非難させたという。

コメント    この記事についてブログを書く
« ドクターヘリ | トップ | 吉備津神社 »
最新の画像もっと見る

戦国時代」カテゴリの最新記事